今回は、1928年に中国で起こった張作霖爆殺事件(別名:満州某重大事件)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ
張作霖爆殺事件とは
張作霖爆殺事件は、その事件名のとおり「張作霖という人物が(日本軍によって)爆殺された事件」です。
張作霖は、満州に一大勢力を築いていた奉天軍閥のボスのこと。
1928年6月、関東軍は日本政府の意向を無視して、張作霖が乗っている列車を爆破しました。
張作霖という男
話は1905年、日露戦争までさかのぼります。
当時、張作霖はまだ30歳前後。張作霖は、満州で馬賊と呼ばれる武装集団を率いるボスをやっていて、当時は、ロシアのスパイとしても活躍していました。
しかし、スパイであることが日本軍にバレてしまい、張作霖は死刑を言い渡されます。・・・が、張作霖に可能性を感じた田中義一という人物が、処刑の中止を命じ、張作霖は一命を取り留めました。
この一件以降、張作霖は田中に恩義を感じ、日本に対して好意的な態度をとるようになります。
日本が日露戦争に勝利して満州の権益をロシアから奪うと、親日派になった満州の張作霖は日本と協調する姿勢を示し、満州の政治情勢は安定化していきました。
満州では、
張作霖は日本からの支援を受けて自らの勢力を保つことができ、
日本も張作霖が親日派なおかげで満州の権益を平和的に守れるという、
win-winの関係が築かれていたのです。
田中義一の予感はズバリ的中して、張作霖を死刑にしなかったおかげで、日本は平和的に満州の権益をゲットすることができたんだね!
張作霖「俺強くなったし、もう日本の言うこと聞く必要なくね?」
日露戦争の後、中国は激動の時代を迎えます。
1911年に辛亥革命が起こり、1912年には清王朝が滅亡。
中華民国が建国されると、1913年には、旧清王朝の軍人だった袁世凱が、革命軍のリーダーだった孫文を追放。軍事力を背景とした独裁政権を北京に樹立しました。
ところが1916年に軍部をまとめていた袁世凱が亡くなると、統率を失った各地の軍事派閥(軍閥)が袁世凱亡き後の権力の座をめぐって争いを始めます。
この軍閥同士の争いで、有力な軍閥に成長したのが張作霖が率いた奉天派と呼ばれる軍閥でした。
張作霖は日本の支援も受けながら、奉天派を成長させ、1919年には満州一帯を支配下に置き、満州の覇者にまで成長していきます。
強大な権力を手に入れた張作霖は次第に野心を持つようになり、日本の言うことを聞かなくなっていきます・・・。
私は、日本に頼らず自らの力で満州を統治したい。力を手に入れた今なら、それができるはずだ。
これまでは、日本の支援を受けつつ日本の言うことに従っていたが、これからは私自らの意思で満州について決めていこうと思う!
張作霖が日本の言うことを聞かなくなると、満州にいた関東軍の中には「言うことを聞かない張作霖なんて、日本の満州支配に邪魔なだけだから消してしまおうぜ!」という声が次第に増えていきます。
この声が現実のものになったのが、今回紹介する張作霖爆殺事件なのです。
張作霖爆殺事件の時代背景【北伐】
北京政府が派閥争いに明け暮れていると、1926年、中国で大きな動きがありました。
中国国民党の蒋介石が革命軍を編成し、北京政府を倒すために挙兵したのです。(北伐)
当時の北京政府は、華中地方(武漢市の周辺)に基盤を持つ直隷派軍閥と、張作霖率いる奉天派軍閥が牛耳っていましたが、1926年10月、革命軍によって武漢が陥落。
北伐によって直隷派が力を失うと、1926年12月、張作霖は北京政府のトップにまで登り詰め、革命軍と争いを続けます。
目を日本に転じると、1927年4月、金融恐慌の対応に失敗した若槻内閣が解散に追い込まれ、田中義一内閣が発足します。
トップに立った田中義一は、すぐに北京政府(張作霖)を支援する方針を決定し、6月には山東半島に軍を送り込んで、張作霖の敵である革命軍を牽制することにしました。(山東出兵)
陸軍の中には、『満州を支配するためには、日本の言うことを聞かない張作霖はもう用なしである』という意見もありましたが、田中義一は、張作霖との関係回復を模索していました。
冷静な情勢判断もあるのでしょうが、過去の張作霖との出会いが少なからず判断に影響しているものと思われます。
しかし、1928年5月、日本の支援も虚しく、張作霖は敗北。北京は革命軍に占領されてしまいました。
張作霖の敗北が濃厚になると、日本政府は水面下で革命軍との交渉を開始しました。
具体的にどんな交渉だったかというと、「革命軍が満州を支配してもいいけど、日本が持つ権益はこれまでどおり認めてね!」っていう交渉です。
日本が張作霖を支援していたのは、張作霖が日本が持つ満州の権益を認めてくれているからです。
もし、革命軍も日本の権益保持を認めてくれるのなら、日本はひとまず目的を達成できるわけで、張作霖がどうなろうとかまわない・・・という立場にあったんだ。
この交渉は成功し、日本は革命軍に対して、日本が持つ満州権益の維持を約束させました。
ってことは、張作霖は日本にとっては本当に用済みの存在になっちゃったってこと?
・・・そうなんだ。
張作霖が北伐に敗れると、日本の陸軍内では『日本に逆らう張作霖など消してしまえ!』という意見が強くなっていったよ。
日本の言うことを聞かない張作霖を放っておいたのは、張作霖が満州の権益のことを認めてくれていたからだ。
しかし、その張作霖は敗北し、権力を失った。さらに、代わりに権力を握った革命軍も、日本が満州に権益を持つことを認めてくれている。
もはや、張作霖がいなくとも、満州の権益を守れることは明白。野心に燃えて日本に従わなくなっただけの張作霖など、もはや用済みだ。
張作霖を消して、日本の言いなりになりそうな人物を満州の代表に立ててしまおう。
張作霖爆発事件
張作霖が敗北した当時、満州では反日運動が高まっていました。
日本は山東出兵をした時に、済南という都市で革命軍と交戦しており、多くの中国人の命を奪っていました。(済南事件)
軍事力によって中国の内紛に干渉した日本の行動は、多くの中国人から「日本は、中国の内紛に乗じて、中国支配を強めようとしているのではないか?」と疑われていましたが、済南事件によって、人々の疑惑が確信に変わり、各地で反日運動が起こるようになったのです・・・。
敗北した張作霖は、約30万ほどの軍勢を率いて北京から満州に撤退しようとしますが、関東軍がこれに反対します。
野心に燃えていた最近の張作霖は、日本の言うことを聞かず反日的な行動が見受けられる。
その張作霖が30万の兵を率いて、反日運動が続く満州に戻ればどうなるか。
張作霖は、反日運動を続ける民衆をまとめあげ、満州で蜂起を起こすかもしれない。
関東軍は約1万の兵士しか持っていない。もし、張作霖が30万の兵と民衆を率いて反乱を起こせば、これに対抗するすべはない。
そこで関東軍は「張作霖には、満州に入る前に武装解除さるべし!」と考えます。
張作霖に武装解除させるためには軍隊を動かす必要があったため、関東軍は日本政府に対して、軍を動かす命令を出すよう根回しを始めました。
※大日本帝国憲法では、軍隊の最高指揮権(統帥権)は天皇にあったので、軍を大きく動かすには天皇の命令が必要でした。
ところが、首相だった田中義一は、関東軍からの要求を無視。
日本の露骨な中国への軍事介入(済南事件など)は、アメリカやヨーロッパからも危険視されている。
これ以上列強国を挑発するような軍事行動はできない・・・!
それに、張作霖にはまだ利用価値がある。張作霖を消そうとする関東軍の考えには反対だ。
すると、命令を待っていた関東軍は、痺れを切らし、独自の軍事行動を計画し始めます。
計画を立案したのは、関東軍の参謀だった河本大作という男。計画は次のようなものでした。
命令がなく張作霖の武装解除が叶わぬなら、張作霖が満州に戻る前にこれを消し去るしかあるまい。
・・・というわけで、張作霖が帰路の列車に乗っている時に、これを爆破することとする。
一方で、列強国を刺激しないよう、張作霖の死が日本の仕業だと思われてもならぬ。
そこで、数名の中国人を金で雇い革命軍を装わせ、そいつらに爆破を任せることにする。
革命軍と奉天派は戦闘中であるから、「革命軍が張作霖を爆破した」ってことにしとけば、日本の仕業だとバレることはないだろう。
張作霖爆殺事件の経過
張作霖の敗北が濃厚になった1928年5月下旬、河本大作は行動を開始。
そして、6月4日未明、事件が起こります。
撤退のため張作霖が乗車していた列車が、奉天市(今の瀋陽市)の近くで突如爆破。張作霖とその側近たちの多くが命を落としました。
関東軍は、爆破が済むと、金で買収した中国人を口封じのため殺害。革命軍が張作霖を爆殺したと思わせる偽の文書を忍ばせ、その場を離れました。
・・・が、関東軍はこの時に致命的なミスをしてしまいます。
買収した中国人の1人が、死んだふりをして逃亡してしまったのです・・・!!
この中国人は、張作霖の息子だった張学良の元へ向かい、事件の真実を伝えました。こうして、河本大作の陰謀は、早くも中国側に見破られてしまうこととなります。
田中義一、事件に対応できず
張作霖爆殺の報告を受けた田中義一は、すぐにこれが関東軍の仕業であることを理解します。
日本は、事件が関東軍の陰謀であることを知りつつも、「張作霖を爆殺したのは革命軍である」と主張し、真相を隠し続けました。
しかし、事件から約2ヶ月が経過すると、諸外国で「張作霖を爆殺した真犯人は日本なのでは?」と報じられるようになり、いよいよ事件の真相を隠しきれなくなります。
1928年12月、田中は昭和天皇に「事件の全貌がわかれば、真相を公表し、主犯を厳罰に処分する」旨を伝えました。
・・・が、田中義一が主犯の河本大作を処分しようとすると、陸軍がこれに猛抗議。陸軍出身であり、陸軍の政治的支援を受けて首相になっている田中義一は、この抗議を退けることができません。
結局、田中義一は首謀者たちを厳罰処分することができず、河本大作が停職処分を受けたのみで事件の処理が終わってしまいました。
しかし、これでは昭和天皇に伝えた話と違います。1929年6月、昭和天皇が「それでは前と話が違うではないか」と叱責すると、田中義一はこれに答えることができません。
私は天皇の期待を裏切った。もはやこれ以上首相を続けることはできぬ・・・。
天皇への敬愛が強かった田中義一は、叱責を受けたことを深刻に受け止め、辞職を決意。張作霖爆殺事件をきっかけに、1929年7月に田中義一内閣は崩壊することになります。
張作霖爆殺事件が与えた影響
陸軍の暴走が始まる・・・
処分の揉み消すことに成功した陸軍は、ある種の自信をつけることになります。
命令を無視しても、俺たちが抵抗すればこんな軽い処分で済むんだな!!
1928年10月に河本大作が停職処分を受けると、代わりに派遣されたのが石原莞爾と呼ばれる陸軍大佐でした。
石原莞爾もまた、満州で独断行動を採るようになり、1931年に満州事変を起こすことになります。
陸軍の命令を無視した独断行動は、張作霖爆殺事件をきっかけに次第に増えるようになり、日本国内でも後に二・二六事件のようなテロ事件まで起こるようになります。
張学良の反撃
事件の真相をいち早く知った張学良は、父の張作霖から満州の支配権を受け継ぎ、日本に対して徹底的に抵抗することを決意。
張学良は、革命軍と和平を結んでその傘下に入り、革命軍の下で激しい反日活動を起こすようになりました。
結局、邪魔だった張作霖を消し去った結果、満州では張作霖のとき以上に反日運動が強まることになったんだ。
その意味では、張作霖爆殺事件は失敗に終わった・・・とも言えるね。
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