【怨霊となった菅原道真が朝廷を襲う様子】
さて、
菅原道真はなぜ左遷され祟りを起こしたか?超丁寧に解説する。1/3
という2つの記事で菅原道真という人物について見ていきました。
今回は、菅原道真の話の中で一番気になる
「菅原道真って優秀な人なのになぜ大宰府に左遷させられたの?」
「菅原道真ってなぜ怨霊になったの?学問の神様になったの?」
という点について見ていきます。
宇多天皇の執念の藤原氏外し
まずは、菅原道真を秘書に抜擢した宇多天皇について少しおさらい。
宇多天皇は、阿衡の紛議という事件を通じて、天皇権力が藤原氏により骨抜きにされてしまっていることを痛感します。
(阿衡の紛議については、わかりやすく解説!阿衡の紛議とは?菅原道真と宇多天皇をどうぞ)
そこで、宇多天皇は藤原氏の力を弱め、天皇権力の復権することを試みます(ただし、宇多天皇は藤原氏のおかげで天皇になれたという経緯があるので露骨な行動はできませんでした。)。
宇多天皇は、藤原氏を天皇の外戚から外そうとします。こうした藤原氏外しから生まれたのが、醍醐天皇でした。
上の図を見てください。宇多天皇は、当時の最高権力者である藤原基経の娘(藤原温子)と婚姻関係にありましたが、宇多天皇は、皇太子に藤原温子の子を指名せず、別な者を皇太子として指名しました。
こうして、当時の摂関藤原氏の代表である藤原時平と宇多天皇は微妙な関係となっていきます。
宇多天皇の挫折と藤原時平の逆襲
897年、宇多天皇は譲位し、醍醐天皇が即位します。
そして、醍醐天皇の妃(きさき)として為子内親王という皇族出身の者が選ばれました。遂に藤原氏は天皇の外戚から外されようとしていたのです。
宇多上皇は、譲位後も朝廷内で相当な影響力を持っていたようで、醍醐天皇の治世と言っても宇多上皇が活躍している間は、醍醐天皇の意見がストレートに通らないのが現状だったようです。
ここまでは、宇多上皇の思惑通り。
しかし、ここで予想外の出来事が起こります。藤原氏の外戚排除のために醍醐天皇の妃となった為子内親王が亡くなってしまいます。
このチャンスを藤原時平は見逃しませんでした。時平は、自分の妹の藤原穏子を新たに醍醐天皇の妃にしようと考えます。
妃は誰だ!?宇多上皇VS醍醐天皇・藤原時平
藤原穏子を醍醐天皇の妃にすべきかどうか?
この論争の始まりが、間接的な菅原道真左遷の原因となります。その経過を見ていきます。
阿衡の紛議がトラウマな宇多上皇
宇多上皇は、藤原穏子が妃となることについて反対します。
宇多上皇のスタンスは一貫して「藤原氏の力を弱め、従来の天皇親政を目指す。」というもの。阿衡の紛議で藤原氏の強大さを目の当たりにし、再び藤原氏が力をつけることにトラウマを持っていました。
そして、菅原道真は宇多上皇に抜擢された人物なので、菅原道真としても本人がどう思っていたかは別として宇多上皇と同じ藤原穏子の反対派に属することとなります。
藤原氏と協力して安定した国政を行いたい醍醐天皇
醍醐天皇は、宇多上皇とは正反対の考え方を持っていました。
実は、天皇と上皇の意見が真っ向から対立した事件は以前にもありました。
薬子の変(平城太上天皇の変)です。(詳しくは、薬子の変とは。超わかりやすく解説【平城上皇と嵯峨天皇の戦い】)
薬子の変の際は、天皇と上皇の対立が実力行使寸前まで発展しましたが、今回の宇多上皇と醍醐天皇の対立は意外な結末を迎えることになります。
宇多上皇、出家-菅原道真、後ろ盾を失う-
宇多上皇は、譲位後も政治に強い影響力を持つ一方で、仏教に熱中していきます。
そしてついに899年、出家して法皇となります。
出家により、宇多法皇は、お寺に居ることが多くなり次第に政治への影響力が薄れていきます。
藤原時平は、このチャンスも見逃しません。宇多法皇の影響力を100%排除するための最後の仕上げとして、宇多法皇の側近的ポジションだった菅原道真を政治世界から追放することを考えます。
昌泰(しょうたい)の変 -菅原道真、大宰府へ左遷-
901年、菅原道真は自分の娘婿(宇多天皇の子なので血筋的にも天皇になる資格を有している)を醍醐天皇の代わり即位させようと謀反を企んだとされ、政治的地位を失墜させられ、大宰府へ左遷されてしまいます。
これに併せて、菅原道真に近い人物も朝廷内から一掃されてしまいます。
こうして、藤原穏子をめぐる争いは、醍醐天皇・藤原時平の大勝利に終わり、藤原氏は再び天皇家の外戚の地位を取り戻すことになります。
菅原道真の左遷をめぐる様々な説
菅原道真の左遷は、一般的に醍醐天皇・藤原時平が菅原道真を追放し、宇多勢力を一掃するために仕組まれた冤罪であると考えられています。
が、単純にそうとも言い切れない事情もあったりして、実は真相についてははっきりしていません。
醍醐天皇は関係なくて、単に藤原時平と菅原道真の不仲が原因で冤罪となったという説もあれば、菅原道真の娘婿は宇多天皇の息子であり天皇になりうる人物であったことから、冤罪ではなく本当の出来事だった・・・なんて説もあります。
真相はどうあれ、左遷させられた菅原道真はその2年後の903年、亡くなります。
清涼殿落雷事件 -怨霊となった菅原道真-
菅原道真が亡くなった後、醍醐天皇の付近では様々な不幸が起こります。
909年:菅原道真と対立していた藤原時平が39歳の若さ亡くなる。
923年:醍醐天皇の息子が亡くなる。
925年:醍醐天皇の孫が亡くなる。
930年:清涼殿(朝廷内の建物)に雷が落ち、菅原道真に反対していたものが命を落とす。その3か月後、醍醐天皇自身が崩御する。
特に、最後の落雷は、清涼殿落雷事件とも言われ、その様子が絵巻でも伝わっています。(この記事の一番上の写真。)
そして、その圧倒的な祟りの凄さから菅原道真は日本3大怨霊の1人と言われています。
菅原道真は雷神!?天神様の信仰の始まり
清涼殿落雷事件から、菅原道真の怨霊は雷神として恐れられます。
そして、菅原道真の祟りを鎮めるために建てられたのが、今も京都に残っている北野天満宮です。菅原道真の怨霊に対する畏敬の念は、菅原道真のことを天神様という神様とみなす、天神様信仰を生み出しました。
この信仰は各地に広まり、日本各地で天満宮が建てられます。天満宮は天神様を祀るための建物なのです。天神様は、災害が起こるたびに恐れられ信仰されてきました。
そもそも、怨霊とは何か?という点について気になる方は、完璧ではないですが、怨霊って一体何なの?平安時代の怨霊事情【菅原道真・平将門・崇徳天皇】をご覧ください。
天神様から学問の神様へ -怨霊信仰の衰退-
天神様として各地で恐れ、信仰された菅原道真ですが、時代を経ていくにつれ次第に「災いをもたらす」という点が忘れ去られていきます。これは、時代が進むにつれて、怨霊を本気で信じることが少なくなってきたことに起因するものだと思います。
しかし、各地に作られた天満宮は健在です。そうすると、菅原道真が生前、優秀な官僚であり、学識で文才もあったことがピックアップされ、気づいてみると学問の神様として崇められるようになっていたのです。
怨霊信仰の衰退により、畏敬の対象から学問の神様へと変化していったのです。
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