今回は、明治14年(1881年)に起こったクーデター「明治十四年の政変」についてわかりやすく丁寧に解説していくよ
明治十四年の政変とは
明治十四年の政変とは、伊藤博文が開拓使官有物払下げ事件という政治スキャンダルを利用して、ライバルだった大隈重信を政界から追放した政治クーデター(政変)のことを言います。
明治十四年の政変によって邪魔者を排除した伊藤博文は、国会開設や憲法制定など近代化する日本の基礎を作り上げていくことになります。
結果的に、明治十四年の政変は新しい日本を創り上げるための大きな転換点となりました。(だから教科書にも載っているのです)
大隈重信VS伊藤博文
大隈重信と伊藤博文がライバル関係になったのは、国会(議会)の開設方法をめぐる意見の違いがきっかけでした。
1877年に西南戦争が終結して以降、日本国内では「民衆の声を聞いて、それをちゃんと政治に反映させろ!!」と訴える自由民権運動が全国規模で活発化していました。
政府内に民衆の声を反映させる組織(国会)がないため、主に士族たちが西南戦争で実力行使に走りました。
しかしこれが鎮圧されると、人々は力で政府に対抗できないことを悟り、議会の設置を求める声が大きくなっていきます。
1880年3月、全国各地の自由民権運動参加者が集まる会が大阪で開催され、こんな話しが決まりました。
政府に国会(議会とも言う)の設置を訴えるために、新しい組織を立ち上げよう。
そうだな・・・、組織の名前は『国会期成同盟』がいいな!
準備を進め、いずれ天皇陛下に請願書を提出しよう。
1880年11月には再び国会期成同盟の集まりがあり、そこで「次の集会に、各自が考えた憲法案を出し合おうぜ!」という話になり、憲法をめぐる議論が世間で盛んに行われるようになります。
いきなり憲法の話になりましたが、憲法の話と議会の話は密接に関わっています。
議会の仕組みは憲法で定められるため、「憲法案を考える」=「議会のあり方を考える」となるのです。
福沢諭吉が立ち上げた交詢社・自由民権運動に参加していた植木枝盛などが憲法案を作り、政府のみならず民間でも憲法の議論も活発となっていました。
一方の政府内でも、国会の開設について前向きな検討が進められていました。
と言うのも、日本が富国強兵のために参考にしていた列強国(イギリスとかフランスとか)の多くで国会が導入されていたし、
西南戦争が起こったり自由民権運動が収まらないかったりと国内が不安定なのは「国会がないため(政府に民意を反映できる場所がないため)」であると考えていたからです。
しかし、「国会を開設する必要がある」という点で多くの人々が一致していても、「どんな国会にすべきか?」という点は政府内でも意見が分かれ、国会開設は難航します。
具体的には、「国会の権力と天皇の権力のバランスをどうすべきか?」が論点になりました。
天皇に近い伊藤博文や岩倉具視は、次のように考えました。
国会を通じて民意を政治に反映させることは、安定した内政のためにも確かに必要だ。
しかし、日本は天皇を君主とした国家である。政治の権限は天皇に集中させて、国会の権限は大きく制限すべきである。
一方の大隈重信は次のように考えていました。
国会のあり方は、最強の列強国であるイギリスを参考にすべきだ。
国会に強い権力を与えて、民意を政治に強く反映させる。天皇の権限についてはイギリス国王の「君臨すれども統治せず」の方針を参考に検討すべき!
※さらに自由民権運動に参加する人々(民権派)は、名実ともに国民が完全な主権を持つフランスを参考にすべきだと考えていました。
こうして、大隈重信と伊藤博文は国会のあり方をめぐって対立することになりますが、1880年(明治13年)までは対立が表面化することはありませんでした。
なぜかというと、伊藤博文がこう考えたからです。
意見がまとまらずに国会開設の話が停滞してしまうよりも、まずは政府内の意見をまとめて国会開設を決定することが最優先。
中身の議論は、国会開設が決まった後でも良いだろう。
大隈重信、伊藤博文に喧嘩を売る
・・・しかし、大隈重信のある行動が、伊藤博文をブチギレさせてしまいます。
右大臣だった岩倉具視が、政府の主要メンバーから国会について意見を聞いていた時に事件は起こります。
1881年3月、大隈重信も主要メンバーの一人として、持論を伝えることにしました。
・・・が、大隈重信が持論を伝えた相手は、左大臣の有栖川宮熾仁親王。(名前が長い・・・!)
さらに大隈は、有栖川宮に対して「他の人に私の案を言わないで欲しい」と口止めをしました。
ここで登場したメンバーをえらい役職順に並べるとこうなります。
有栖川宮熾仁親王【左大臣】→岩倉具視【右大臣】→伊藤・大隈【参議】
大隈重信は岩倉・伊藤が自分の案に反対していることを知っていたので、この2人をすっ飛ばして左大臣に持論を認めてもらうことで、国会開設を進めようと考えたのです。
課長と係長が反対してうるさいから、部長と直接話してケリをつけようとした・・・そんなイメージです。無視された課長・係長は、きっと不快な気持ちになるはずです。
有栖川宮「これって岩倉がやってたやつだよな。いきなり私に言われても判断できないし、秘密にするのなんて無理だよなー。岩倉に相談してみるか・・・」
こうして大隈の行動は、1881年5月には岩倉にばれ、6月には伊藤博文にもバレてしまいました。
伊藤は、裏で勝手に話を進めようとした大隈重信、そして5月に事情を知っていながらすぐに連絡をしなかった岩倉具視に対して不満を爆発させ、辞意の文書(退職願のようなもの)を叩きつけました。
私をハブいて話を進めたということは、私はもう政府にいらないということだな。それなら大隈重信の案で好きなように進めたらいいんじゃね?
こんな屈辱的な扱いを受けるのなら、いっそ今の役職など辞めてやるわ!
この伊藤の発言は、一種の脅しです。伊藤は、自分がいないと政府は機能しないと知っていたので、「大隈の言うこと聞くなら仕事辞めんぞコラァ!」と岩倉具視らを脅したのです。
結局、伊藤博文が辞職することはなく、大隈重信の作戦も失敗に終わりました。
開拓使官有物払い下げ事件
上の一件以来、伊藤博文は大隈重信に対して不信感を持つようになります。
大隈重信の案は、民権派(自由民権運動)が掲げる国会案と似ている部分があったな。
もしや、民権派を味方につけて私に対抗するつもりか・・・?
肥前藩出身だった大隈は、政府で幅を利かせている薩長出身者に対抗意識を持っていました。長州藩出身の伊藤博文も、大隈にとってはライバルの一人です。
さらに翌月(7月)、再び大隈重信の周辺で大きな事件が起こります。それが開拓使官有物払い下げ事件です。
この事件によって、政府は世論を敵に回すことになり、民権派は政府を攻撃する絶好の機会を得ました。
さらに、政府内からも開拓使官有物払い下げ事件を非難する声が挙がりました。その声の張本人こそが、トラブルメーカー?の大隈重信です。
こんな汚職事件を政府は許してはダメだ!
関西貿易社への開拓使官有物払い下げは直ちに中止にすべき!!
この大隈重信の態度を見て、伊藤博文はついに大隈重信を政界から追放することを考えるようになります。
大隈め、やはり民権派と結託しているな。今回の件で、不信感が確信に変わった。
俺は知っているぞ。お前が、民権派の意見に理解を示している福沢諭吉と連携していることを。
さらに大隈は、岩崎弥太郎の三菱会社ともズブズブの関係だ。そして、三菱会社は、少し前に開拓使官有物の払い下げを願い出たが政府に断られている。
つまり、大隈は民権派と結びついて私を攻撃しつつ、関西貿易社への官有物払い下げを中止させて、三菱会社に再びチャンスを与えようとしているわけだ。
憲法や国会という日本の根幹を成す問題を議論しているのに、それを政争に利用するとは、大隈め、絶対に許さんぞ。
俺が本気を出せば、お前を政界から追放することなど容易いということを教えてやるよ。
明治十四年の政変
伊藤はすぐに大隈重信追放の計画を練り上げます。
ちょうど1881年7月30日から、大隈重信は明治天皇の地方行幸に同行していました。つまり、大隈不在の今こそが、計画を実行する大チャンスなわけです。
伊藤博文は要人への根回しも行い、着実に大隈追放の準備を進めていきます。
そして1881年(明治14年)10月11日、明治天皇が帰京すると、さっそく天皇の裁可をもらい、以下のことが決まりました。
もともと伊藤博文は明治天皇から絶大な信頼を得ていたし、右大臣の岩倉具視も大隈の行動には否定的だったので、計画は比較的順調に進みました。
こうして、政府内から邪魔者を一斉排除した政変(クーデター)が成功したのです。
大隈重信は、直前に伊藤博文の不穏な動きに気付きますが、時すでに遅く、決定に従って政府を去っていきます。
伊藤め、俺のいない隙にハメやがったな・・・!
私を舐めすぎだ。
あんな強引な方法で私を抑え込めるわけがないだろう。
明治十四の政変の結果
伊藤博文は明治十四の政変を利用して、まずは開拓使官有物払い下げ事件による政府への批判をかわし、政府のイメージUPを図りました。
そのために、世間が非難していた開拓使官有物払い下げを中止を決定し、さらに国会開設の詔を発表しました。
国会開設の詔によって1890年に国会を開設することが明記されました。
詔とは、天皇の発表のことです。そして天皇の発表は絶対なので、1890年の国会開設はこの詔によってほぼ100%確定しました。
ついに政府が国会開設に向けて動き始めた。自由民権運動での声がやっと政府にも届いたんだ。天皇陛下の名前で発表が出されたんだから、政府が嘘をついていることもありえない!
開拓使官有物払い下げも中止になったし、政府もよくやってるじゃん!
おまけに、大隈重信を追放したおかげで、国会について政府内で意見が対立することもなくなり、伊藤博文は腰を据えて国会開設の準備を進めることができるようになりました。
開拓使官有物払い下げ事件から始まった一連の出来事ですが、終わってみれば、伊藤博文が大隈重信を返り討ちにして、全てが伊藤博文の有利に働く結果となりました。(このあたりの政治手腕はさすがです・・・!)
明治14年の政変後の日本
国会開設の詔が発表されたことで、「国会の開設を政府に求める!」という国会期成同盟は役目を終えることになりました。
民権派が次に行うべきは、「国会開設に向けた選挙への準備」です。国会開設が決定しても、「どんな国会を開設するか?」という大事な議論が残っています。
1881年10月18日、国会期成同盟の集まりが開かれ、そこで国会開設に向けて自由党を結成することが決まりました。
一方、政府から追放された大隈重信も、まだまだ諦めません。
政府が俺を無下にするのなら、私も政党を立ち上げて、イギリス流の国会を求めて声をあげていくぞ!
1882年、こうして大隈重信も立憲改進党を立ち上げます。
政府内では、伊藤博文の「国会は設置するが、権限を制限する」という方向で国会開設の準備が進みます。
1882年、伊藤博文は自分の案に似ているドイツの憲法を研究するため、ドイツへ訪問。
グナイスト、シュタインといったドイツの学者たちから知見を得て、確信を持ちます。
やはり私の考えは、間違っていなかった。
ドイツの国会・憲法を参考に、新しい日本を創生していくぞ!!
こんな感じで明治十四年の政変をきっかけに、
・民権派
・追放された大隈重信一派
・伊藤博文を中心とする明治政府
が、三者三様のやり方で国会開設に向けて大きく動き始めました。
こうして完成した国会(帝国議会)がどんなものだったのかは、以下の記事で紹介していますので、気になる方は合わせて読んでみてくださいね。
コメント