今回は、鎌倉仏教の一つである時宗の開祖「一遍」について、わかりやすく丁寧に解説していきます。
一遍、没落武士の家の生まれる
一遍は、1239年2月15日、伊予国道後(今の愛媛県松山市)で河野家というお家の息子として誕生しました。
河野家は、源平合戦の際に壇ノ浦の戦いなどで活躍した功績を持つ由緒ある一族でした。
しかし、1221年に起こった承久の乱で一族が敵味方に分かれて争うことになり弱体化。昔のような力を失い、河野家はすっかり没落してしまいました。
一遍は、そんな没落武士の家庭に生まれたのです。幼い頃は、松寿丸と呼ばれていました。
一遍、出家して浄土の教えを学ぶ
一遍は、10歳のときに母を亡くすと父の勧めで出家しました。
出家した後は太宰府に向かい、聖達という人物の弟子となり浄土の教えを学びました。
太宰府で浄土の教えを約10年ほど学んだのち、1263年に父が亡くなると地元の伊予に帰国し、俗世に戻りました。
そして地元の伊予で7〜8年を過ごしたのち、一遍は再び出家。各地への遊行を始めます。
*「遊行」とは、僧侶が布教や修行のために各地を巡り歩くことです。
この7〜8年の一遍の生活は、記録が残っておらず謎に包まれています。
1つハッキリと言えそうなのは、この7〜8年の間に一遍が俗世を離れて出家したいと思うような何かがあった・・・ということだけです。
謎が多い故に、再度出家したきっかけについてはいろんな説が残されています。
・・・もしかすると、他にもいろんな説があるかもしれません。
一遍、新しい宗派(時宗)のヒントを得る
再び出家した一編が最初に向かったのは信濃国にある善光寺というお寺でした
善光寺で参籠したあとは、再び地元の伊予に戻り、念仏に明け暮れる生活を送ります。そして1274年、一編は修行・布教活動のため流浪の旅に出ることを決心しました。
全ての財産を捨て一族とも別れ、寂れた伊予自宅をわずか3人の同行で旅立ちます。ここから、一遍の僧侶として新しい生涯が始まったのです。
一遍が最初に向かったのは今の大阪市にある四天王寺というお寺。聖徳太子とゆかりの深い、由緒あるお寺です。
四天王寺は当時、融通念仏という念仏がとても盛んなお寺であり、一遍もこれに強い興味を示しました。
四天王寺の次に向かったのは高野山でした。高野山は空海(弘法大師)ゆかりの地であり、当時は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える僧侶たちが多く集まっていました。
そして高野山の僧侶たちは、人々に念仏を勧めるため、念仏を唱えた人に念仏札を渡す・・・ということを実践していました。
一遍「ほほぅ、これは面白い!私も念仏札を作って渡してみよう!」
高野山の僧侶を見た一遍は、自らも念仏札を作って、念仏を唱えた人たちに渡すことにしました。
ここで登場した「融通念仏」「念仏札」は、後に一遍が開く時宗にも強く反映されています。流浪の旅の中で、一遍は念仏の新しい可能性を感じたのです。
一遍、新しい教え(時宗)に目覚める
次に一遍が向かったのは高野山のさらに南にある熊野の山岳地帯でした。熊野の山々は、仏の化身として神々が住んでいるという神聖な地です。
(補足)「仏の化身として神々が現れる」という考え方のことを本地垂迹説と言います。
念仏札を渡しながら高野山から熊野へ向かった一遍ですが、熊野で衝撃的な事件が一遍を襲います。
・・・というのも、一遍がとある僧侶に「念仏を唱えましょう」と勧めたところ、完全論破された上に念仏を拒否されてしまったのです。
一遍「さあ、念仏を唱えて、この念仏札を受け取るのです」
僧侶「いや、今は仏様のことを信じる気分じゃないから無理。気持ちがないのに、念仏だけ唱えたら、それはそれで浄土の教えに反するだろうしね。」
一遍「あなたには仏教を信じる心がないのか?」
僧侶「仏教の教えを疑っているわけではない。ただ、心から仏様を想う気持ちが起こらないのだ。これは事実であるから、どうしようもない」
気付けば、周りには野次馬が集まっていました。
一遍(ここで僧侶の言い分を認めると、周りの人たちにも念仏は不要と思われてしまう・・・。)
一遍「信心がなくても良いから、念仏札だけでも受け取りなさい」
強引な方法で、なんとかメンツを保てた一遍ですが、この事件は一遍に大きなショックを与えました。
一遍「私は融通念仏の功徳を信じて疑わなかったが、あの僧侶の言うことも一理あるかも知れぬ。私はこれから念仏とどう向き合っていけば良いのか・・・」
その答えは、熊野に宿る神様が教えてくれることになります。ある日、一遍が熊野本宮大社という場所で瞑想をしていると、山伏の姿をした神(仏の化身)が現れ、一遍にこう言います。
熊野の神「一遍よ、なんとよくない方法で念仏を勧めているのか。そもそも、そなたが念仏を勧めることは、人々の往生には無関係ないのですよ。
南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるというのは、阿弥陀如来が決定していることであって、あなたが念仏を人々に勧めるからではありません。
信心があってもなくても、心が浄でも不浄でも、その人が極楽浄土に行けるかどうかは阿弥陀如来様が決定することです。(そして、阿弥陀如来様はきっと全ての人を救ってくれる)
ですから、相手に信心が無くても関係ありません。あなたはただ、どんな人であってもそのお札を配り続ければ良いのです。」
このお告げを聞いた一遍は、「この信託を授かった後、私はいよいよ浄土の教えの深意を分かったような気がします」と言って、この時から自分の名を一遍に改めました。
*この記事では、わかりやすいようにこの事件以前でも「一遍」で統一しています。
この事件は、一遍が新しい浄土の教えに目覚めたきっかけと考えられており、一遍が時宗を開いたのもこの時だと言われています。
踊り念仏を始める
この後、一遍は、薩摩から奥州にかけて、16年間の遊行を続けました。遊行を続ける中で、同行する時衆(時宗の信者のこと。ダジャレではありませんよ)も少しずつ増えていきました。
1279年、一遍は今の長野県佐久市で、輪になって念仏をとなえながら踊る、踊り念仏を始めました。
踊り念仏自体は、一遍が新しく考えたものではありません。踊り念仏は平安時代の中期に空也という僧侶が始めたもので、「仏教を信じれば、極楽浄土へ行ける喜びが踊りや歓喜となって現れるだろう」という考え方がありました。
空也が亡くなった後も、踊り念仏は仏教の正式な作法とはならなかったものの、民衆たちに広まりました。
一遍は、この踊り念仏を極楽浄土へ行くための正式な作法として布教することを考えたのです。
すると、これが民衆たちに大受け。踊り念仏は時宗の代名詞とも言える作法となり、多くの人々を魅了しました。
踊って歌う(念仏する)だけで来世が保証されるのですから、多くの人を魅了しないわけがありませんよね。中には、ただ踊って歌ってスッキリするだけの人もいたことでしょう。
しかし、それで良いのです。熊野での神託にあったように、念仏を唱えることに仏教を信じる・信じないは関係ありません。そこから先は阿弥陀様が決めることです。
踊り念仏は、「信心がない人にどうやって念仏を唱えさせるか」を考え抜いた結果だった・・・とも考えることができます。
そう考えると、念仏に楽しさや高揚感を取り入れた踊り念仏というのは実に理にかなった方法です。
一遍の発想力と既存文化を融合させる柔軟性は、現代の我々も見習わないといけないかもしれませんね。
時宗の教え
ここで、一遍が開いた時宗について少し紹介しておきます。
時宗は「阿弥陀様に極楽浄土に連れてってもらう!」という浄土系の教えです。
この点は、同じ鎌倉仏教である浄土宗・浄土真宗と共通しています。
では、浄土宗・浄土真宗・時宗の何が違うかというと、「どうすれば阿弥陀様に極楽浄土へ連れてってもらえるのか?」という方法論が違うのです。
詳細を全部すっ飛ばして本当に簡単な違いをまとめると、以下のような感じになります。
「信じるだけ」「唱えるだけ」というのは極端な表現かも知れませんが、浄土真宗は信じる心を重んじ、時宗は念仏そのものを重んじる傾向にありました。
さらに時宗には、他の浄土系宗派にはない大きな特徴が2つありました。
「空也の教え」・「融通念仏」・「真言宗系の僧侶が配布する念仏札」など各地で見聞した信仰を、1つの体系にまとめあげたのも、時宗の大きな特徴の1つです。
さらには、日蓮宗が唱える「南無妙法蓮華経」は「南無阿弥陀仏」と同じだからOK的なことも言っており、かなり柔軟性に富んだ宗派だったりもします
一遍の晩年
遊行を続ける中、一遍は1289年に阿波国(現徳島県)で病に倒れ、同年に兵庫で亡くなりました。
一遍は自分の死期が近いことを悟ると、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ(お釈迦様や私の教えはみな尽きてしまい、全ては南無阿弥陀仏になる)」と言って、わずかな経典を残して、全ての本を燃やしてしまいます。
「南無阿弥陀仏と唱えることこそが私の信仰(時宗)の全て」と考えていた一遍は、開祖として自分の考えを著書に残すこともなく、信徒(時衆)たちを組織化して教団を作ることもしませんでした。
その生涯は、自分の信念を貫き、人生の大半を念仏に捧げた生涯でした。(なんとなく、法然の生涯と重なる部分があると思います)
一遍が亡くなると、教団を持たない時宗は一度崩壊してしまいますが、弟子の他阿弥陀仏という人物が時宗の教団化を行うことで再興し、紆余曲折を経て現代にまで至っています。
一遍の生涯まとめ【年表付】
- 1239年一遍、伊予国で生まれる
- 1248年母が亡くなり、出家。大宰府などで浄土教を学ぶ
- 1263年父が亡くなり、地元(伊予国)に帰国
- 1271年再び出家
- 1274年遊行の旅へ
熊野本宮大社で神のお告げを受けて、真の浄土の教えに気付く(これをもって時宗が始まったとされる)
- 1279年信濃国にて踊り念仏を始める
- 1289年一遍、亡くなる
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