今回は、江戸時代にアイヌと和人との間で採用された商場知行制と場所請負制についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
この2つの制度、名前も中身も似ていてややこしいですが、アイヌと和人の歴史を追うことでスッと理解できるようになります!
商場知行制って何?
江戸時代の藩主たちは、家臣たちへの褒美として土地を与えるのが普通でした。家臣たちは与えられた土地を農民たちに耕させて、そこから得たお米で生計を立てていました。
つまり、お米が今でいうお金のような使われ方をしていたんです。
ところが、蝦夷地(今の北海道)にあった松前藩はこの仕組みが適用できませんでした。なぜなら、寒すぎてお米の収穫が難しかったからです。
そこで松前藩は、家臣たちに褒美として土地ではなく、「アイヌと交易をする権利」を与えることにしました。この仕組みのことを商場知行制と言います。
まとめると、
商場知行制は、寒くてお米が収穫できない松前藩のために考え出された特別な制度
だったのです。
商場知行制の具体的な仕組み
松前藩は家臣が自分勝手に交易をしないよう、家臣たちに交易できる地域を割り振って交易場所を制限しました。
この家臣たちが交易できる場所のことを「商場」と言います。
商場は、北海道全域に広がっていました。
家臣Aさんは、北海道のネムロ地域。
家臣Bさんは、北海道のトカチ地域。
という要領で、松前藩は家臣たちに北海道各地に商場を設定して、それを与えたのでした。
商場を家臣に与えて(知行して)、家臣は商場での交易で利益を手に入れる。これが「商場知行制」と呼ばれる難しい言葉の由来です。
商場知行制は具体的には、次のような仕組みになっていました。
- STEP1家臣たちが松前藩から商場を貰う
- STEP2家臣たちは、アイヌが欲しがるものを本州の商人から買う
アイヌの人たちは製鉄技術を持っていなかったので、鉄製品が大人気でした。
- STEP3家臣たちは、本州の商人から手に入れた品を持って、船で自分の商場へ向かう
- STEP4商場でアイヌと交易する
- STEP5交易で手に入れたものを売って利益をゲット!
毛皮とか昆布とか本州では手に入りにくい物が人気でした。
シャクシャインの乱
商場知行制は、松前藩の視点ではとても助かる制度でしたが、アイヌはこの制度に苦しめられることになります。
松前藩が家臣に商場以外での交易を禁じると、当たり前ですがアイヌも特定の松前藩家臣としか交易できなくなります。
商場知行制が始まるまでは、アイヌたちは自分の意思で和人と交易できたのに、松前藩の勝手な都合で自由な交易を封じられてしまったのです。
これにアイヌたちは強い不満を持つようになり、この不満がアイヌ内部の部落争いをきっかけに爆発。1669年、北海道全体を巻き込んだアイヌの大反乱が起こります。これが有名なシャクシャインの乱です。
乱は松前藩によって鎮圧され、アイヌの立場はますます弱くなっていきます。
場所請負制って何?
シャクシャインの乱でアイヌが敗北した後、1700年代に入ると商場知行制は大きく変わり、場所請負制という制度へと進化しました。
ここで少し上に戻って、もう一回だけ商場知行制の仕組みを見てください。
よーく見てみると、STEP2~4は「物を仕入れて、仕入れた値段より高く売る」というまさに商売そのものです。
商売を最も得意としたのは、当然ながら商人です。逆に商売が大の苦手だったのが、武士の人たち、つまり松前藩の家臣たちでした。
と、色々とミスを重ねるうちに、家臣たちの中には借金まみれになって苦しむ者まで出る始末。本来、褒美として与えた商場だったのに、これでは本末転倒です。
そして、この問題を解決したのが場所請負制でした。場所請負制は簡単に言うと、商場知行制のSTEP2~4を全部商人たちにお任せした仕組みのことです。
- STEP1家臣たちが松前藩から場所(商場)を貰う
商場は「場所」とも言われていました。
- STEP2家臣たちは本州の商人たちに商場での交易を請負わせる
- STEP3商人たちがアイヌとの交易で利益を得る
- STEP4家臣たちは、場所で稼がせてあげた代償として商人から手数料を得る。
この手数料を運上金と言います。
家臣たちは自分で商売をすることをやめ、場所での交易を商人に請負わせる。これを場所請負制と言います。
この制度は、商人にとっても松前藩家臣にとってもwin-winでした。
北海道で採れる昆布やサケ・ニシンは、本州の人々に大人気でした。
特に春になるとニシンが大量に漁獲され、わずか一夜で一年暮らせるだけの漁獲量が採れることも。
たった一夜で巨万の富を稼ぐニシンはもはや「魚であるけど、魚にあらず」、本州で収穫される米やお金と等しい価値を持ちました。
ニシンは漢字で、魚に非ずと書いて「鯡」と書きますが、この漢字の由来もここから来ているのではないか・・・という説もあるほどです。
ふむふむ、商場知行制を実践してみて、それを改良したのが場所請負制というわけだね。
場所請負制の闇
ここまでの話だと、商人も家臣もwin-winで場所請負制はとても素晴らしい制度に見えます。
しかし、場所請負制で被害を被った人たちもいました。それがアイヌです。
本州から来た商人は松前藩の家臣たちと違い、アイヌとの交易を通じて限界まで利益を追求します。
商人にとってアイヌとの交易は、金儲けこそが全て。そこで商人は、アイヌとの交易だけでは飽き足らず、アイヌたちを酷使するようになります。
商人たちは、漁獲や漁獲した魚の加工のためアイヌたちを低賃金で無理やり働かせ、その生活を踏みにじりました。
アイヌは基本的に和人には逆らえません。シャクシャインの乱が鎮圧されて以降、アイヌは力で和人には勝てないことを知っています。
さらに、アイヌも和人との交易を通じて生計を立てていました。その交易も和人の商人たちが主導権を握っていたため、商人に逆らえば生活ができなくなっています。
商人は、このようなアイヌの弱みを巧みに利用したのです。
アイヌの女性たちが和人たちの妾にされることは日常茶飯事で、時には夫を持っていた女でさえ遊女にする和人もいたと言われています。(繰り返しますが、立場のアイヌが和人の要求を断ることは非常に困難なことでした)
しかも、松前藩にとってはアイヌは無知なほうが利用しやすいので、アイヌは日本語や文字を習うことも禁じられていました。
後に北海道を探索することになる最上徳内は、アイヌに愛情を注ぎ日本語を教えたことで、異端扱いされ、松前藩から危険人物とみなされます。
それほどまでに松前藩のアイヌへの差別は徹底したものだったのです。
場所請負制の廃止とその後
1800年代に入ると、北方からロシアが北海道を狙い始めます。
すると、日本はアイヌを酷使している場合ではなくなってきます。なぜなら、日本を憎むアイヌたちがロシアと手を組むかもしれないからです。
そんな外交事情もあって、1800年代に入ると場所請負制を通じた松前藩によるアイヌへの迫害が、江戸幕府から問題視されるようになります。
こうしてアイヌの待遇はロシアのおかげで改善されましたが、場所請負制の闇が完全に消えることはなく、ロシアが撤退すれば再び迫害が始まるなど不安定な状態が続きます。
その後、明治時代になって日本が本格的に北海道を開拓し始めると、1868年、場所請負制は廃止。
北海道に和人が大量に移住するようになると、アイヌの居場所は失われ、場所請負制の制度だけではなく、アイヌそのものが存亡の危機に立たされ、現代に至ります。
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