今回は、1570年に起こった姉川の戦いについてわかりやすく丁寧に解説していきます。
姉川の戦いが起こるまでの流れ
始めに姉川の戦いが起こるまでの時代の流れを、織田信長の視点で確認しておきます。
- 1560年
- 1562年清洲同盟
美濃を攻略するため、背後にいる三河の徳川家康と同盟
- 1567年美濃平定
美濃の斎藤氏を倒す。
- 1568年上洛開始
京から追放された足利義昭の要請を受けて、義昭とともの上洛を目指す。
- 1570年姉川の戦い
織田信長、越前国を手に入れるため朝倉氏への攻撃を開始
織田信長は尾張周辺を平定した後に上京、そして京で将軍や朝廷を味方につけることにも成功します。全てが順調に進む中、織田信長が次のターゲットにしたのが越前国でした。
浅井長政と朝倉義景
次は、姉川の戦いで織田信長と戦うことになる浅井長政と朝倉義景について少しだけ人物紹介をしておきます。
浅井長政
浅井長政は北近江の戦国大名です。
織田信長は美濃を平定する際に、美濃の西に位置する北近江を抑えるため、浅井氏との政略婚を図ります。
織田信長は妹のお市を浅井長政に嫁がせることで、浅井氏と同盟関係を結んだのです。
朝倉義景
朝倉義景は越前国の戦国大名。
浅井氏とは同盟関係を結んでいて、両者には深い関係がありました。
浅井と六角が近江をめぐって争っていた時、朝倉氏が両者の間に入って、浅井氏に有利な内容で争いを仲介した過去があります。
朝倉氏は、勢いを増す六角氏に対抗するため、浅井氏の存続を望んだのです。
六角氏を警戒する点で両者の利害は一致する上に、浅井氏は朝倉氏に大きな恩ができたことから、両者は強固な関係で結ばれることになります。
織田信長とは直接の関係を持っていませんでしたが、織田信長が15代将軍の足利義昭を連れて上洛して以降、織田氏と朝倉氏の間でトラブルが発生し、このイザコザが姉川の戦いへと発展していくことになります。
織田・朝倉・浅井・六角の4氏の勢力関係は以下のとおりです。
【悲報】朝倉義景、織田信長を無視する
1568年9月、織田信長は足利義昭を連れて上洛を果たします。
足利義昭は、1565年に政争に巻き込まれて京を追放されて以来、ずーっと京に戻って自らが将軍になることを目標としていました。その目標が、織田信長のおかげでついに実現しわけです。
ここまで恩を売れば、将軍を手中に収めたも同然ww
上洛後すぐに足利義昭が15代目の室町幕府将軍に任じられると、翌年(1569年)には新居(今の二条城)の築城が行われます。
この時、織田信長は各地の戦国大名に上洛を促す書状を送ります。(以下、超訳したもの)
これは将軍の足利義昭殿からの命令である。
みんな、将軍の新居(二条城)の築城に協力するために京に来てね!
この書状は朝倉義景の下にも届きますが、朝倉義景はこの織田信長の書状を無視して上洛を拒否します。
拒否をした理由は、ハッキリとはわかっていません。
織田の言うことなんか聞く必要ないわww
一方で、誘いを拒否された織田信長は、これを越前国に攻め込む絶好の口実と考えました。
この勢いで勢力を拡大し続ければ、いずれ越後の上杉謙信と対峙することになろう。その足掛かりとするため、越前国はいずれ手に入れなければならない場所。
さらには、越前は美濃と京の間にある国。ここを抑えれば畿内一帯が全て俺のものになる。
タイミングをうかがっていたが、まさか朝倉義景から攻める口実を与えてくれるとは!じゃあ・・・、お望みどおり越前国奪ってやんよ!!
織田信長、越前国に攻め込む
1570年4月、織田信長は「朝倉義景に謀反の疑いがある」として越前攻略戦を開始します。
こうなることは、上洛を拒否した時から想定済だ。
守備は盤石に固めてある。来るなら来い!!
朝倉義景が防衛拠点としたのは、今の敦賀市にある天筒山城と金ヶ崎城。この2城によって織田信長の侵攻を食い止めようとします。
(地理は上の地図を参考にしてみてください)
・・・が、織田側に寝返る者が現れ、2城はあっという間に織田信長に落とされてしまいます。
天筒山・金ヶ崎を落とした織田信長は、侵攻スピードを緩めず、一挙に朝倉義景の本拠地である一乗谷を強襲しようとしますが、ここで大事件が起こります。
浅井長政の苦悩
朝倉義景VS織田信長の戦いで、複雑な立場にあったのが浅井長政です。
浅井長政は織田氏とも朝倉氏とも同盟関係にあり、この両氏が争っている以上、どちらに加担するか(どちらとの同盟を破棄するか)の決断に迫られていました。
浅井長政は、お市を継室としていたことや織田信長の実力を見抜き、織田側に見方をすることを考えますが、父の浅井久政がこれに反対します。あくまで、浅井氏を助けてくれた朝倉氏に加担しようとします。
結局、父の久政に押し切られる形で浅井長政は朝倉義景を援護することを決断します。
お市よ、本当にすまぬ・・・。
そなたの兄上(織田信長)のに矛を向けることになりそうだ。
そして、織田信長が天筒山・金ヶ崎の2城を落として一乗谷へ向かうおうとた矢先、北近江の浅井氏が六角氏と共謀して突如として挙兵。織田軍目掛けて進軍してきます。
浅井長政が裏切っただと・・・!
このままでは、北の朝倉氏と南の浅井氏の挟み撃ちにされる。そうなれば、我が軍は壊滅だ。急ぎ撤退するのだ!!
浅井氏と六角氏は近江を争うライバルでしたが、打倒織田のため共闘することになります。
織田の勢力が強くなりすぎて、内輪揉めしている場合ではなくなったわけです。
浅井長政の同盟破棄に、織田信長は強いショックを受けます。全く想定していない出来事だったんです。
最初に「浅井氏、裏切る!」の報を聞いた際も、虚報であると耳を貸しませんでした。
この時の浅井長政の行動は、完全に信長の虚を衝き、勝利ムードは一転して信長は絶体絶命の大ピンチに陥ります。
この撤退戦で目覚ましい活躍をしたのが木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)です。木下藤吉郎は、最後尾で逃げながら敵と防戦する殿という難しいポジションを任され、この任を見事にこなしました。
織田軍はかろうじて壊滅を免れて京に帰還することができました。壊滅を免れたのは藤吉郎秀吉の活躍によるところが大きく、信長の秀吉に対する評価は急上昇します。
藤吉郎が敵を抑えてくれなかったら、我が軍は本当に壊滅していたかもしれないな・・・。
姉川の戦い
織田信長は京に戻った後、自国の美濃にある岐阜城に入ります。その後、南近江の六角氏を返り討ちにすると1570年6月、次は裏切った浅井長政がいる北近江への侵攻を開始します。
浅井氏の本城は小谷城。難攻不落の山城です。浅井長政は小谷城を拠点に守備を固めます。
小谷城にいる浅井軍を攻めるのは分が悪すぎる。
なんとか浅井軍を平地に引き出すのだ。
1570年6月21日、織田信長は小谷城の城下町を焼き払い、24日には小谷城近くにある横山城を包囲します。
浅井側を挑発して小谷城からの兵を誘い出す作戦です。
その後、徳川家康が織田軍に合流、一方の浅井軍には越前国から朝倉景建が援軍します。
浅井家の命運をかけた戦いだというのに、当主の朝倉義景が来ないとは、舐められたものだな・・・。
当時の朝倉家は統率を欠いており、浅井家を救うために本気で軍を送り込むことができませんでした。(そもそも、送る気すらなかった可能性も・・・)
父の意見を押し切って織田信長に味方していれば・・・、と浅井長政は強く後悔したかもしれませんね。
当時の状況を整理すると以下のような状況です。
姉川を間に挟んで両軍が対峙したことから、この戦いを姉川の戦いと呼びます。
姉川の戦い、開戦!
浅井長政がこの挑発に動じない場合、長期に渡る篭城戦も予想されましたが、6月28日、浅井長政は動きました。
横山城を救援するために小谷城を出て、平野に軍を展開したのです。
こちらの思惑通りに動いてくれて助かるわww
これが織田信長の作戦であることなど承知の上。小谷城の目と鼻の先にある横山城を織田に渡すわけには行かぬ。
上の図のとおり、戦いは2方面で起こりました。
【浅井方面】
織田信長VS浅井長政
【朝倉方面】
徳川家康VS朝倉景建
序盤は、浅井・朝倉軍の優勢に進みます。特に浅井長政は、背水の陣で姉川の戦いに臨んでおり、兵力的に不利な状況の中でも、織田軍を圧倒する猛攻を仕掛けました。
徳川家康の知略
織田・徳川軍が劣勢の中、徳川家康が1つ策を用意します。
敵が勢いづいているのなら、いっそのことわざと朝倉軍に姉川を渡らせてしまおう。
朝倉軍が川を渡り切った後、左右正面から朝倉軍を挟み撃ちにして、これを壊滅に追い込むのだ。
こうすれば、左右正面は我が軍、背後は姉川で敵は逃げ場を失う。まさに背水の陣となるわけだ。
朝倉軍に押され気味だった徳川家康は、無理にこれに対抗することはせず、朝倉軍に姉川を渡らせます。
そして、朝倉軍が姉川を渡り切ると、徳川家康は陣形を素早く変えて朝倉軍を包囲。
左右正面を徳川軍に挟まれた朝倉景建は、撤退しようとするも背後は姉川です。姉川に阻まれて撤退が遅れると、その間に朝倉軍は大打撃を受け、そのまま敗走してしまいます。
でかしたぞ家康!
私は浅井軍に押されておる。浅井軍は数こそ少ないが、士気高く屈強な兵ばかりじゃ。
家康よ、私を援護するのだ。
織田軍と互角に戦っていた浅井長政も、徳川家康が参戦すると情勢不利となり、いよいよ敗北の2文字が頭をよぎり始めます。
浅井長政の逆襲
当主の朝倉義景が来ない時点で悪い予感はしていた。
・・・しかし、ここで負けるわけにはいかぬ!
浅井長政にはまだ一つだけ、策がありました。その策とは、挟撃作戦・・・!!
北から浅井・朝倉軍(朝倉軍は撤退してしまいましたが・・・)が攻め込み、南からは守備に徹していた横山城の兵力、そして佐和山城にいた磯野員昌が織田・徳川軍を攻撃する計画です。
Googleマップ(佐和山城の場所)
織田信長が挟撃されそうな佐和山城をノーマークで放っておくわけがないので、「磯野員昌は横山城にいたのではないか?」という説もあります。
こうして、姉川の近くで激戦が行われますが、結果は浅井長政の敗北。
朝倉軍がもう少し持ち堪えた上で挟撃できていれば、もしかすると結果は変わっていたかもしれません・・。
姉川の戦いは血で血を洗うような大激戦と言われています。
『信長公記』には「さんざんに入り乱れて、黒煙をあげ、しのぎを削り、つばを割って・・・」と記され、「血原」や「血川」と言った地名が激戦地に残っていることからも、その様子を察することができます。
姉川の戦いのその後
姉川の戦いで勝者となった織田・徳川は、その後も浅井の本城である小谷城を攻撃しますが、鉄壁の守備を誇る小谷城まではさすがに攻略できません。
姉川の戦いに勝った織田信長は、その後に横山城だけを奪って撤退することになります。戦いには勝ったものの、朝倉・浅井を滅ぼすことはできなかったのです。
織田信長包囲網
なんとか生き残った浅井・朝倉の両家は、勢いに乗る織田信長と単独で戦っても勝てないことを痛感します。
織田信長に対抗するには、織田に反対する多くの人たちとタッグを組む必要がある。
同感だ。
姉川の戦いの後、浅井・朝倉家は体制を立て直し、織田信長を嫌う以下の勢力と組んで信長に対抗します。
京にいる信長を反織田勢力で包囲する作戦です。この織田信長を倒すための協力体制のことを「織田信長包囲網」と言います。
こうして畿内では、戦国時代の代名詞にふさわしい激しい戦乱へと突入していくのです・・・。
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