今回は、1560年に今川義元と織田信長が戦った桶狭間の戦いについてわかりやすく丁寧に解説していきます。
織田と今川 〜因縁の関係〜
桶狭間で衝突する今川義元と織田信長ですが、実は今川氏と織田氏は親の代から争いを続ける因縁の関係にありました。
その両氏の最終決戦が桶狭間の戦いとなります。
というわけで、本題に入る前にまずは、今川VS織田の戦いの歴史をおさらいしておきます。
織田信長と今川義元の支配地は、それぞれ
でした。
そして、両者はこの間にある三河をめぐって長い間、争いを続けていたのです。
この争いは、織田信長の父親である織田信秀の時代から続く因縁の争い。
信秀が三河に攻め込むと、三河の有力者だった松平広忠は遠江の今川義元に助けを求めます。こうして、織田氏と今川氏は三河の松平氏をめぐって争うことになりました。
ここまでが1540年代の話になります。
今川義元は援軍の見返りとして松平広忠の息子を人質として駿河に送ることを命じます。松平氏の援助を口実にそのまま三河を実効支配する魂胆です。
そして、この時に人質になった人物こそが、後に江戸幕府を開くことになる徳川家康(当時は竹千代)でした。
1551年、息子の織田信長が家督を継ぎました。しばらくは、織田一族の内乱に明け暮れることとなり、一方の今川義元はその間、着実に三河を支配下に収めます。
そして、三河の安定統治が達成された1560年、今川義元は三河の西にある尾張を次のターゲットに定め、進軍を開始します。
三河を平定し、隣国の武田・北条とは同盟関係(甲相駿三国同盟)を組んでいるし背後も安泰だ。
今こそ、圧倒的な力で織田を捻り潰してやるわ!
桶狭間の戦い前夜
次に桶狭間の戦い当時の、織田・今川の状況を確認しておきます。
舞台となるのは、今の名古屋市付近。三河を平定した今川義元は、じわりじわりと尾張を侵略し始め、尾張にある鳴海城と大高城を最前線の拠点としていました。(さらに、大高・鳴海城の背後には沓掛城があります)
一方の織田信長は、これ以上の尾張侵略を阻止しようと、大高・鳴海城の周辺に丹下・中島・善照寺・鷲津・丸根の5つの砦を築いて防御を強化します。
当時の状況を地図で整理すると以下のようになります。
*海岸線が今と昔でかなり違うので、当時の状況と地形が完全に一致するわけではありません。
青色:織田氏の拠点
赤色:今川氏の拠点
鷲津・丸根砦によって大高・鳴海城間をシャットアウトし、孤立した二つの城を個別に叩く・・・というのが織田信長の作戦です。
ちなみに、織田信長の当時の居城だった清洲城は、鳴海・大高城との距離がわずか20kmほどしかありません。
5つの砦を今川氏に突破されれば、次は清洲城が標的となるわけで、織田信長は非常に危機的な状況にありました。(しかも今川義元の方が軍勢が多い・・・!)
桶狭間の戦い、始まる
1560年5月、今川義元は織田側の5砦を陥落させて尾張のさらに深部を侵略するため、45,000の軍を率いて出陣します。
桶狭間の戦いに動員された今川義元の兵力は諸説あって、はっきりとした数字はわかっていません。
45,000というのは「信長公記」と呼ばれる史料を参考にした兵力ですが、これは誇張されていて、実際はもっと少なかっただろう・・・とも言われています。
いずれにしても言えるのは、兵力だけ見れば今川義元が圧倒的に上だったということです。
5月18日、今川義元が鳴海・大高城の後方に位置する沓掛城に到着。ここで軍議が開かれます。
まずは、孤立化した大高城を救うため、丸根砦と鷲津砦を攻略する。
丸根城は徳川家康(当時の名は松平元康)
鷲津城は朝比奈泰能に任せる。
さらに徳川家康には、丸根城を攻める前に孤立して飢えに苦しむ大高城への食糧補給を頼む。
一方、「今川軍、接近!」との知らせを受けた織田信長は、軍議を開くこともせず、何もしないまま5月18日を過ごします。
この時、織田信長が軍議を開かなかった理由はわかりません。
考えられる理由としては・・・
・軍議の情報が今川側に漏れることを恐れた。(織田側が劣勢だったので、裏切り者が現れることは当然予想された)
・織田信長の性格的に軍議を開いても他人の意見を聞かないので、そもそも軍議を必要と考えていなかった。
あたりだと思われます。
敦盛の舞
5月19日の朝3時、今川義元が丸根・鷲津砦への攻撃を開始。
この知らせを受けた織田信長は、すぐに出陣の準備を・・・と思いきや、大好きだった敦盛の舞を踊り始めます。
人間50年、下天のうちを比べれば、夢まぼろしのごとくなり、ひとたび生をえて、滅せぬもののあるべきか
舞を終えると急ぎ支度をし、わずか6騎で出陣してしまいます。この時、織田信長は、正面衝突では兵力差的に勝ち目がないとみるや、今川軍本陣へ奇襲を考えていました。
織田信長は熱田神宮を集合場所として、味方兵力を集め、熱田神宮から善照寺に向かいます。
桶狭間の決戦
5月19日午前10時頃、織田信長が善照寺に到着します。この時の織田信長の兵力は約2,000ほどだったと言われています。
同じ頃、今川軍は丸根・鷲津砦を攻略。沓掛城にいた今川義元は、安全になった大高城へ移動を開始します。
今川義元が、沓掛城から大高城に向けて移動し、しかも桶狭間という場所で休憩している・・・と言う情報をキャッチすると、いよいよ織田信長が動きます。
みなよく聞くのだ。敵は夜中に兵糧を消費し、大高城・鷲津砦・丸根砦での移動や戦いで疲れ切っている。
一方でこちらは準備万端の新手だ。古い言葉に『小軍ナリトモ大敵ヲ怖ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ』というのがある。
この一戦に勝てば、ここにいる者の家の功名は末代まで残ることだろう。今こそ心を1つにして全力で敵を討つのだ!
こう言って味方の士気を鼓舞すると、約2,000の兵を率いて奇襲ポイントへ向かいます。
今川義元が休憩をとった桶狭間、そして織田信長が向かった奇襲ポイント。この2つの正確な場所は実は今もわかっていません。
一つ言えるのは、沓掛城→大高城へ向かうルートのどこかということだけ。したの地図で示している場所はあくまで目安と考えていただけると幸いです。
この時、連戦連勝の知らせを受けていた今川義元は完全に油断していました。
私の前では、あの織田信長でさえ手も足も出ない。
実に心地よい気分ぞww
5月19日13時頃、織田信長が奇襲の機会をうかがっていると、突然大雨が降り出します。(雹だったとも言われています。)
チャンスは今!
雨に乗じて今川本陣をめがけて突っ込むのだ!!!今川義元の首だけを狙え!!!
雨が降ると相手に行軍の音を悟られず、視界も不良となるので、相手に気付かれにくく、奇襲をするのにはとても好都合でした。
休憩中で軍を整えていなかった今川義元は大軍を活かせず、300騎ほどの親衛隊と共に織田軍に応戦しますが、最後は織田家の家臣である毛利新介によって討ち取られました。
こうして織田信長は、圧倒的な戦力差を「本陣を強襲して直接総大将の首を討ち取る」という神がかり的な方法で覆してしまいました。
この本陣強襲で一番重要なのは「作戦が今川義元にバレないこと」です。少しでも今川義元の警戒が強まれば、作戦の成功率は一気に下がってしまいます。
前日に軍議を開かなかったり、当日にいきなり6騎で出陣したりという一見意味不明な行動も、情報漏洩を防ぐためだったと考えれば、なんとなく腑に落ちますね。
おまけに、尾張は織田信長のホームです。地の利は織田側にありました。そして、当日に雨が降ったことで運も味方しました。まさに「運ハ天ニ在リ」です。
今川義元が討たれると、今川軍は総崩れ。鳴海・大高城は織田信長の手に渡り、今川軍は多くの兵を失いました。
桶狭間の戦いのその後
今川氏は関東の名門一族です。その今川義元が、誰ともわからぬ若造(織田信長)に討たれたという知らせは多くの人々に衝撃を与えます。
松平(徳川)・今川・織田のその後に少しだけ迫ってみましょう。
徳川家康(松平元康)
丸根砦を攻略した後、大高城を守っていた徳川家康は、いったん三河の岡崎城に入ることになります。
徳川家康は、今川義元の死をきっかけに三河での勢力回復を狙い、次第に織田信長に接近するようになります。
今川氏
今川義元が亡くなると、嫡男の今川氏真が家督を相続しました。
しかし、桶狭間の戦いで多くの家臣を失った今川氏はボロボロ。領地をまとめることすらままならなくなり、三河では徳川家康が松平家旧領を回復し独立してしまいます。
その後、今川氏の領土は、徳川家康と武田信玄に少しずつ侵略され、今川氏は没落していくことになります。
織田信長
今川氏に大勝利したといえ、当時の信長は尾張統一や美濃の斎藤家との争いの途中でした。この自らの戦況を挽回するために信長は、三河で独立を果たした徳川家康に同盟を要請。1562年に清洲同盟を締結させます。
清洲同盟により背後の憂いを無くした信長は1565年に尾張統一、1567年には美濃を平定し、「天下布武」を掲げて天下統一に向けて動き出します。
これまで戦国武将たちからは比較的ノーマークだった織田信長ですが、桶狭間の戦い以降、全国から注目を集める有力戦国大名へと大変貌。
戦国の世を動かす中心人物となり、本能寺の変で討たれるまで、天下統一に向けて歴史に名を残す大活躍をすることになるのです。
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