奈良と言えば、東大寺!東大寺と言えば奈良の大仏!
奈良で一番有名な観光地が東大寺ではないでしょうか。
しかし、せっかく東大寺に行って「大仏すげー!」だけじゃもったいない!
というわけで他の人より100倍東大寺を楽しむための豆意識を教えたいと思います!
奈良の大仏の正式名称は、廬舎那仏(るしゃなぶつ)
奈良の大仏の正式名称は、廬舎那仏(るしゃなぶつ)と言います。
廬舎那仏は、宇宙(世界)そのものを表す絶対的な仏さまです。
実は、京都観光の前に知っておきたい仏像の豆知識という記事の中で、仏の中で一番偉いのは「如来(にょらい)」といい、如来にはさらに、
・釈迦如来
・阿弥陀如来
・薬師如来
・大日如来
の4つがあり、さらに大日如来が他の3如来よりも上に立つ絶対的存在であることを説明しました。
廬舎那仏は、大日如来と同じ仏さまになります。超すごい仏さまってことです!!
奈良の大仏は大日如来であり、凄い大仏であるというのはわかりました。しかし、なぜこんなに大きな仏像を造ったのでしょうか?
国を仏教で護るぞ!-聖武天皇の決意-
時代は奈良時代、平城京の時代です。
なぜ仏教で国を護ろうと思ったのか
仏教の経典は無数にあります。聖武天皇は、「金光明最勝王経」(こんこうみょうさいしょうおうきょう)という経典の内容を深く信仰していました。
金光明最勝王経の中に、仏教が国を護ってくれるという教えがあったため、聖武天皇はそれを実行しようとしたのです。
災難続きの治世。遂に聖武天皇吹っ切れる
聖武天皇の治世は、災難の連続でした。
・信頼していた長屋王という人物が政争に伴う謀略により自害してしまった
・天然痘の流行により多くの人々が亡くなった
・九州で反乱が起こった(藤原広嗣の乱。藤原広嗣は日本で最初の怨霊として有名)
※長屋王については、聖武天皇はなぜ東大寺の大仏を造ったのか-長屋王の悲劇-
※天然痘、藤原広嗣については、日本で最初の怨霊!?藤原広嗣の乱をわかりやすく解説!-聖武天皇はなぜ東大寺の仏像を造ったのか-
を参考にどうぞ。
特に九州で起こった乱の後の聖武天皇は、政治にほとんど興味を持たなくなり、仏教に深く傾倒していきます。抗うことのできない自然や世の流れに対する諦観があったのだと思います。
また。私の個人的な意見ですが、聖武天皇はおそらく責任感の強い潔癖症な人物だっただろうと考えています。
そんな人物が、仏教にのめり込んで何をしたか・・・それが奈良の大仏の造立です。やることが極端!!
独裁者ぶり満載の大仏造立の詔
745年、聖武天皇は大仏造立の詔を発表します。
詔(みことのり)は、ざっくりと公式発表を表す意味。
その詔の中で聖武天皇はこのような発言をします。
「国中の銅を溶かして仏像を造立し、山を削り仏堂を建立することで皆とともに悟りの境地に達しようではないか。世の金と権勢はすべて私のものである。そして、その金と権勢があれば仏像を造るのは容易いが、それでは駄目だ。人々を無理やり働かせたのでは、皆が悟りの境地に至ることはできない。であるから、自ら率先して造立の協力をお願いしたい。役人たちも労働を強制してはならない。」
この発言、どう感じますか?仏教に対する熱意もありますが、聖武天皇が絶対的君主として日本に君臨していたことがわかりますね。
知っておいてほしい奈良の大仏の闇の部分
しかし、聖武天皇の考えは所詮絵空事です。
実際には、大仏造立のため多くの民が動員され、負担を強いられました。
平城京は多くの餓死者であふれていたと言います。結局、聖武天皇は、政治に無関心となり、民の実情など考えもせず、絶対君主の立場から独りよがりに仏教を信仰していたのでした。
大仏にお願いごとをするときは、今から1300年前に苦しむ民がいたことを忘れてはいけません。
忘れちゃいけない大仏造立の救世主!行基(ぎょうき)
そんな有様ですから、大仏造立には圧倒的に人手が不足していました。
そこで登場したのが行基と言う僧です。
行基は貧しい民のために田畑の開拓や橋の建設などを行い、民に密着した布教に努めていました。行基は人々からの大変慕われ、行基は常に多くの人びとを従えて行動していたと言います。
その行基が大仏造立に加わるということは、行基に従う多量の人々もが加わるということ。行基の参加により大仏造立は現実味を帯びてきます。
(行基については、学校では教えてくれない日本の聖人、行基の話-聖武天皇、東大寺の大仏造立へ-という記事で紹介しています。詳しく知りたい方はご覧ください。)
しかし、行基は大仏の完成を見ることなく亡くなってしまいます。749年でした。行基の死から3年後の752年、大仏は遂に完成するのです。
焼けても焼けてもよみがえる奈良の大仏
現存する奈良の大仏は、造立当初のものではありません。
2回ほど焼失してしまいますが、その都度再建されています。
一回目の焼失:源平合戦
1180年、源氏と平氏の戦いで平氏によって全焼。
しかし、重源という僧が東奔西走の活躍で寄付を集め、大仏を再建します。
そして1185年、再建を果たしますが、立ち合いの場には、源頼朝や北条政子、後白河上皇と言った名だたる有名人たちが集まりました。
民を苦しめて造った仏像とはいえ、聖武天皇の信念とその規模は多くの人々を魅了し、信仰の対象とされていたのでしょう。
第2回:戦国時代
1567年。時代は戦国時代前半と言ったところでしょう。
東大寺は畿内をめぐる覇権争いの戦場と化しました。
東大寺の入り口、南大門です。ここが戦場となり銃撃戦が繰り広げられました。
戦火は、大仏殿にまで広がり、再び大仏は焼失してしまうことになります。
時代は戦国時代、焼失した東大寺は長い間放置状態でした。復旧は戦国時代を終えた徳川時代まで待たなければなりません。
1709年にようやく大仏殿が再建されます。破壊されてから100年以上経った後でした。これが今我々が見ることのできる現存する大仏殿と大仏になります。
しかし、100年を絶った後でも人々が再建のため尽力したのには、やはり奈良の大仏に対する厚い信仰が戦国時代、江戸時代にもしっかりと残っていたということでしょう。
なぜ東大寺が造られたのか?
もっと詳しく知りたいという方や時代背景を知りたいという方は、次の記事をご覧ください!
1~4の順に連載シリーズになっています♪
- 聖武天皇ははぜ東大寺の大仏を造ったのか-聖武天皇即位の裏話-
- 聖武天皇はなぜ東大寺の大仏を造ったのか-長屋王の悲劇-
- 日本で最初の怨霊!?藤原広嗣の乱をわかりやすく解説!-聖武天皇はなぜ東大寺の仏像を造ったのか-
- 学校では教えてくれない日本の聖人、行基の話-聖武天皇、東大寺の大仏造立へ-
まとめ
実は、東大寺にはもう一つ隠れ名スポットがあります。ぜひ、こちらの記事も併せてご覧ください!
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東大寺を観光する方向けに、観光前に絶対に知っておきたい東大寺の歴史や仏教の知識について書いた本になります。「東大寺に行くけど、東大寺のことなんて何も知らないよ!」っていう方にはぜひご一読していただきたい一冊です。何も知らない方でもわかりやすいよう書いたつもりです。このサイトでも東大寺について書いていますが、電子書籍(Kindle)ではより詳しく解説を行なっています。色々と知ってから東大寺を訪れると、東大寺観光が一層興味深いものになることでしょう。
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