クナシリ・メナシの戦いとは?アイヌ最後の蜂起をわかりやすく解説【原因・経過・その後】

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クナシリ・メナシの戦い

もぐたろう
もぐたろう

今回はクナシリ・メナシの戦いについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!1789年に起きたアイヌ最後の蜂起が、どのように江戸幕府を動かし北海道の運命を変えたのか、じっくり見ていこう!

この記事を読んでわかること
  • クナシリ・メナシの戦いの原因(松前藩の場所請負制度とアイヌへの圧政)
  • 1789年の蜂起の経過(マメキリ・サンキチら主要人物の動き)
  • 37人の処刑と和平の結末
  • 江戸幕府が北海道政策を大転換した理由(松平定信・蝦夷地直轄化1799年)
  • 現在も続くイチャルパ(供養祭)と慰霊碑の存在

37人のアイヌが処刑され、表向きは完敗に見えたクナシリ・メナシの戦い。しかし実は——この蜂起が江戸幕府を動かし、1799年の蝦夷地えぞち直轄化というかたちで北海道の運命を変えるきっかけになったのです。敗れたはずのアイヌの声が、その後の日本の北方政策を根本から塗り替えていきました。

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クナシリ・メナシの戦いとは?

3行でわかるまとめ
  • 1789年(寛政元年)に北海道東部(国後島・根室周辺)で起きたアイヌの武装蜂起
  • 71人の和人が殺害され、37人のアイヌが処刑された歴史上「最後のアイヌ蜂起」
  • この事件をきっかけに江戸幕府は蝦夷地を直轄化し、北方政策が大転換した

クナシリ・メナシの戦いは、1789年(寛政元年)に北海道東部で起きたアイヌ民族の武装蜂起です。「クナシリ」は現在の国後島くなしりとう、「メナシ」は現在の標津しべつ羅臼らうす周辺(道東)を指す地名で、この2か所を中心に蜂起が起きたことからこの名前で呼ばれています。

発生した年号から寛政蝦夷蜂起かんせいえぞほうきという別称もあります。

江戸時代、アイヌ民族は北海道・千島列島・サハリン(樺太からふと)などに暮らす先住民族でした。松前藩による支配が強まるにつれ、アイヌの人々は生活・文化・尊厳を次々と奪われていきました。クナシリ・メナシの戦いは、こうした長年の抑圧が限界を超えて爆発した、歴史上「最後のアイヌ蜂起」として位置づけられています。

ゆうき
ゆうき

アイヌって、松前藩に支配される前はどんな暮らしをしていたんですか?

もぐたろう
もぐたろう

もともとアイヌは北海道・千島列島・樺太で、魚・毛皮・鷹などを交易品として自由に生きていた民族なんだ。ロシアや本州の和人とも対等に交易していたんだよ。でも松前藩まつまえはんが力を強めると、その自由な暮らしが根本から奪われていく。クナシリ・メナシの戦いは、そんな抑圧に限界を迎えた「歴史上最後のアイヌ蜂起」として位置づけられる事件だよ!

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アイヌ民族への松前藩の圧政

江戸時代のアイヌ民族
18世紀・江戸時代のアイヌ民族の姿(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

江戸時代の北海道(蝦夷地)では、松前藩が場所請負制度ばしょうけおいせいどというシステムを使ってアイヌを支配していました。松前藩が和人商人(請負人)に蝦夷地の特定区域(場所)での漁業・交易の独占権を与え、アイヌはその商人のもとで低賃金・強制労働を強いられる構造です。今でいえば「アウトソーシング型の搾取システム」ともいえます。

中でも最大の請負人として知られるのが飛騨屋久兵衛ひだやきゅうべえです。飛騨屋は1773年(安永2年)ごろから国後島・根室周辺の場所を請け負い、アイヌに対して過酷な扱いをしたことで記録に残っています。魚や昆布を採らせ、食事もまともに与えず、抵抗すれば暴力を振るうという状況が続きました。

場所請負制度ってなに?

場所請負制度ばしょうけおいせいどというのは、松前藩が和人商人(請負人)に蝦夷地の特定区域での漁業・交易の独占権を与えた制度のことです。アイヌは低賃金・強制労働を強いられ、独自の交易もできなくなりました。飛騨屋久兵衛はその代表例で、特に国後島・根室方面で大規模な経営を行いました。

もともとアイヌは自分たちで交易を行い、生計を立てていました。この制度によってアイヌは「働かされるだけ・自由に売り買いできない」立場に追い込まれていったのです。

商人(飛騨屋)
商人(飛騨屋)

アイヌに魚を採らせりゃいい。賃金?そんなもんは最低限でじゅうぶんだ。逆らったら…わかっておるな?

こうした経済的な搾取だけでなく、和人商人によるアイヌ女性への暴行・毒殺事件まで起きました。アイヌ指導者のひとり、マメキリの妻が和人によって毒殺されたことが、蜂起の直接の引き金になったとされています。これは単なる経済搾取ではなく、文化・尊厳の破壊でもありました。次の章では、そうした怒りがついに蜂起へと爆発する経緯を見ていきましょう。

ゆうき
ゆうき

アイヌって、長い間ずっと我慢してたんですね…それでも蜂起しようと決意したのはなぜ?

もぐたろう
もぐたろう

搾取が限界を超えていたことに加えて、マメキリの妻が毒殺されたことが最後のひと押しになったんだ。「これ以上は黙ってられない」という状況まで追い詰められていた。経済だけじゃなく、大切な人まで奪われたら、もう後には引けないよね。

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クナシリ・メナシの戦いの経過

蜂起の中心人物:
蜂起の中心人物:サンキチ(国後島の惣乙名そうおとな)/マメキリ(国後島の長人・妻が毒殺されたと信じて蜂起を決断)
鎮圧に協力:ツキノエ(クナシリ惣乙名・松前藩側についてアイヌの降伏を促した)

1789年5月、マメキリや惣乙名のサンキチらを中心に、クナシリ(国後島)とメナシ(標津・羅臼周辺)の両地域でほぼ同時に蜂起が起こりました。長年にわたる場所請負制度の搾取、そしてマメキリの妻が毒殺されたとされる事件——積み重なった怒りが、一気に爆発したのです。

蜂起したアイヌたちは、場所の運上屋うんじょうや(商人の詰め所)を次々と襲撃しました。この一連の戦いで71人の和人が殺害されています。蜂起はクナシリ・メナシの2地域にまたがって展開し、松前藩にとって大きな衝撃となりました。

マメキリ
マメキリ

妻を毒殺した和人を許すことはできない…!もう黙って従う時代は終わりだ!俺たちの怒りを知れ!

クナシリ(国後島)のとまりでは、夜明けとともにアイヌたちが運上屋を包囲し、寝込んでいた和人の手代(てだい)や漁夫を急襲しました。長年の怒りが一気に噴き出した瞬間でした。蜂起はクナシリからメナシ(標津・羅臼方面)へと連絡を取りながら広がり、松前藩にとって「北方が一夜で崩れた」事態となりました。

松前藩はすぐに鎮圧軍を派遣しました。同年7月には軍事的な鎮圧が完了し、蜂起は約2か月で終結します。しかしこの事件が幕府に与えた衝撃は、単なる「蜂起の鎮圧」では終わりませんでした。

あゆみ
あゆみ

アイヌってロシアとも交流していたと聞きますが、この戦いにロシアは関係しているんですか?

もぐたろう
もぐたろう

鋭いね!アイヌは千島列島を通じてロシアとも交流があったんだ。この事件の直後に、ロシアのラクスマンが根室に来航するんだよ(1792年)。「アイヌとロシアが手を結んだら大変」と江戸幕府も本気で焦り始めて、北海道政策を大きく転換させていくんだ。

37人の処刑と和平

蜂起が鎮圧された同年7月、松前藩は蜂起の「主謀者」と判断した37人のアイヌを処刑しました。これはそれまでのアイヌ蜂起鎮圧の中でも最大規模の処罰でした。

「和平」交渉という名目が取られましたが、その実態はアイヌ側にとって決して対等なものではありませんでした。松前藩が条件を一方的に提示し、アイヌは受け入れるしかない状況に追い込まれていたのです。この後、アイヌ民族によるクナシリ・メナシでの組織的な抵抗は終わりを迎えます。以後、アイヌによる大規模な武装蜂起は二度と起きませんでした。歴史はこの事件を「歴史上最後のアイヌ蜂起」として記録しています。

蜂起に加わらず松前藩側に降伏交渉を仲介したツキノエ(クナシリ惣乙名)もまた、複雑な立場に立たされていました。「これ以上アイヌの命を失わせてはならない」という判断から松前藩に協力したツキノエでしたが、その選択はその後の歴史の中で「協力者」として評価される一方、「同胞を裏切った」と見なす声も残りました。誰もが難しい判断を迫られた時代でした。

📌 処刑の規模:37人という数は江戸時代のアイヌ蜂起鎮圧の中でも最大規模。全員が実際に首謀者だったかは現在も疑問視されており、「見せしめ」的な側面もあったと歴史学者の間で評価されている。

ゆうき
ゆうき

37人って、本当に全員が首謀者だったんですか?

もぐたろう
もぐたろう

「見せしめ」的な側面もあったと評価されているよ。松前藩としては、これ以上の蜂起を防ぐために厳しい処分を下す必要があったんだ。37人全員が真の首謀者かどうかは今でも疑問視されているよ。この後の「和平」もアイヌ側にとって決して対等なものじゃなかった。

クナシリ・メナシの戦いが変えた北海道の運命

松平定信
松平定信 肖像画(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

クナシリ・メナシの戦いは江戸幕府に大きな衝撃を与えました。しかしそれ以上に危機感を高めたのが、蜂起の3年後——1792年のロシア使節ラクスマンの根室来航です。

当時、ロシアはシベリアを東進し、千島列島を南下する動きを見せていました。そのロシアが日本に通商を求めて根室に現れたのです。「アイヌを搾取し続けた結果、ロシアに引き込まれたらどうなるか」——寛政の改革を主導していた老中・松平定信はこの危機を正面から受け止め、北方政策の大転換に乗り出しました。

松平定信
松平定信

ロシアと手を組まれたら、もう取り返しがつかない!飛騨屋をクビにして、アイヌを大切に扱え!蝦夷地は幕府が直接抑えるぞ!

松平定信の北方政策転換を受け、1798年には幕府の命を受けた近藤重蔵こんどうじゅうぞう択捉島えとろふとうに上陸し、「大日本恵登呂府だいにほんえとろふ」の標柱を設置しました。これは日本が千島南部を自国領と明確に主張する行動です。

そして1799年、幕府は東蝦夷地(現在の道東・千島列島方面)を直轄化しました。松前藩の支配から幕府直轄へ——北海道の位置付けが根本から変わる大転換です。さらに1807年には西蝦夷地(現在の道央・道南方面)も幕府直轄化となり、松前藩による蝦夷地支配は完全に終わりを告げました。

📌 蝦夷地直轄化(1799年・1807年):クナシリ・メナシの戦いとロシアの南下圧力を受け、幕府が北海道を直接支配下に置いた転換点。今日の北方領土問題の歴史的背景の一部をなす。

あゆみ
あゆみ

北方領土問題ってここから始まったとも言えるんですか?

もぐたろう
もぐたろう

直接ではないけど関係は深いよ。日本が北海道を「日本の領土」として明確に意識するきっかけが、クナシリ・メナシの戦いとロシアの南下圧力だったんだ。この時期に幕府が蝦夷地を直轄化して、近藤重蔵が択捉島に「大日本」の標柱を立てたことが、後の日露国境画定の出発点になっていくんだよ。次の章では、今も続くアイヌの供養祭「イチャルパ」について見ていこう!



今に続く記憶—イチャルパと慰霊碑

クナシリ・メナシの戦いで処刑された37人のアイヌを慰めるため、今も毎年9月末に根室半島のノッカマップでイチャルパが執り行われています。「ノッカマップ・イチャルパ」と呼ばれるこの先祖供養儀礼は、1974年にアイヌの人々の手で始まり、現在も途切れることなく続いています。

イチャルパとは、アイヌの伝統的な先祖供養の儀礼のことです。今でいうお盆の供養に近いイメージで、亡くなった先祖の霊を慰め、送り出す儀式です。クナシリ・メナシの戦いから230年以上が経過しましたが、37人の処刑という深い傷は、アイヌの人々の記憶の中で今も生き続けています。

根室・納沙布岬周辺には慰霊碑「横死七十一人之墓」も残されています。71人の和人が殺害された事実を刻んだこの慰霊碑は、和人・アイヌ双方にとって歴史の証人です。また2019年にはアイヌ民族支援法が制定され、アイヌ民族が日本で初めて法律上「先住民族」として明確に認定されました。クナシリ・メナシの戦いから230年——ようやく公的に認められた、長い長い歩みです。

あゆみ
あゆみ

今でもイチャルパって続いてるんですね。根室に行ったら慰霊碑を見に行けますか?

もぐたろう
もぐたろう

1974年から毎年続いているんだよ!230年以上たった今も、忘れてはいけない歴史として受け継がれているんだ。根室を訪れる機会があれば、納沙布岬周辺の慰霊碑もあわせてぜひ立ち寄ってみてね!

よくある質問(FAQ)

1789年(寛政元年)に北海道東部の国後島・根室周辺で起きたアイヌの武装蜂起です。「寛政蝦夷蜂起」とも呼ばれます。松前藩の場所請負制度によるアイヌへの搾取が積み重なり、飛騨屋久兵衛らによる強制労働・暴行に怒ったアイヌが蜂起。71人の和人が殺害され、37人のアイヌが処刑された歴史上最後のアイヌ蜂起として知られます。

最大の原因は松前藩の場所請負制度です。和人商人がアイヌを低賃金・強制労働で酷使し、文化・尊厳を踏みにじりました。特に飛騨屋久兵衛による苛酷な扱いが問題で、アイヌ指導者マメキリの妻が和人に毒殺されたことが蜂起の直接の引き金となったとされています。

マメキリまめきり(国後島の長人・妻が毒殺されたと信じて蜂起を決意)とサンキチ(国後島の惣乙名そうおとな)が蜂起の中心人物です。「惣乙名」はアイヌの村の指導者を指します。クナシリ惣乙名のツキノエは蜂起には加わらず、松前藩と協力して蜂起参加者の降伏を促した人物です。

蜂起鎮圧後、松前藩が主謀者と判断した37人を処刑しました。今後の蜂起を防ぐ見せしめ的な側面もあったと評価されています。37人が全員、実際の首謀者だったかどうかは現在も疑問視されており、アイヌ側の視点から「不当な処刑」と見なす歴史研究者もいます。

1792年のラクスマン根室来航などロシアの南下圧力と相まって、江戸幕府の危機感が一気に高まりました。1799年に東蝦夷地を幕府直轄化、1807年には西蝦夷地も直轄化。事実上、松前藩の蝦夷地支配は終わりを告げました。これが現在の北海道が日本の領土として確立していく歴史的出発点のひとつとなります。

イチャルパはアイヌの先祖供養儀礼です。クナシリ・メナシの戦いで処刑されたアイヌを慰める「ノッカマップ・イチャルパ」は1974年から毎年9月末に根室半島のノッカマップで行われています。230年以上がたった今も、アイヌの人々によって記憶が受け継がれています。

直接の原因ではありませんが、関係は深いです。この戦いとロシアの南下圧力をきっかけに、幕府が蝦夷地を直轄化し、1798年に近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を設置しました。これが「日本が北方の島々を領土と明確に意識した出発点」のひとつとされ、今日の北方領土問題の歴史的背景の一部をなします。

まとめ

クナシリ・メナシの戦いのポイントまとめ
  • クナシリ・メナシの戦い(1789年・寛政元年)は松前藩の場所請負制度によるアイヌ搾取が限界に達して起きた武装蜂起
  • 71人の和人が殺害され、37人のアイヌが処刑された。「歴史上最後のアイヌ蜂起」として位置づけられる
  • ロシアの南下圧力(ラクスマン1792年来航)と相まって、幕府の北方政策が大転換
  • 1799年東蝦夷地・1807年西蝦夷地の直轄化→松前藩の蝦夷地支配が終わり、近代北海道の礎が築かれた
  • ノッカマップ・イチャルパは1974年から今も毎年続き、37人の記憶が受け継がれている

クナシリ・メナシの戦い 関連年表
  • 1773年
    飛騨屋久兵衛が蝦夷地の場所請負を開始(アイヌへの搾取激化)
  • 1789年5月
    クナシリ・メナシの戦い勃発(71人の和人が殺害される)
  • 1789年7月
    松前藩が鎮圧軍を派遣、蜂起が鎮圧される
  • 1789年7月(下旬)
    主謀者37人のアイヌが処刑される(歴史上最後のアイヌ蜂起の終結)
  • 1792年
    ラクスマンが根室に来航(ロシアの南下圧力が表面化)
  • 1798年
    近藤重蔵が択捉島に上陸・「大日本恵登呂府」の標柱を設置
  • 1799年
    江戸幕府が東蝦夷地を直轄化(松前藩管轄から幕府管轄へ)
  • 1807年
    西蝦夷地も幕府直轄化(全蝦夷地が幕府管轄に)

クナシリ・メナシの戦い・アイヌについてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
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アイヌ学入門

瀬川拓郎 著|講談社


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もぐたろう
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以上、クナシリ・メナシの戦いのまとめでした!下の記事で寛政の改革・アイヌ関連・江戸時代の北方政策もあわせて読んでみてください!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「クナシリ・メナシの戦い」(2026年6月確認)
コトバンク「クナシリ・メナシの乱」「飛騨屋久兵衛」「ツキノエ」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年6月確認)
根室市歴史と自然の資料館「1789年クナシリ・メナシの戦い」(2026年6月確認)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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