今回は、1900年に結成された立憲政友会という政党についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
最初に立憲政友会の簡単な概要を載せておきます↓
立憲政友会が結成された理由
伊藤博文が立憲政友会を結成した理由には、1898年に登場した日本初の政党内閣でもある隈板内閣の存在が大きく関係しています。
この記事を読み進めてわからない点があれば隈板内閣の記事をまず読んでみてくださいね。
というわけで、立憲政友会が結成された理由を時系列で整理しておきます。
- 1898年1月伊藤博文、3回目の内閣総理大臣就任(第三次伊藤内閣)
前任の松方正義が、議会と対立して法案や予算を成立できなくなり心が折れて辞任。
その後を託された伊藤博文は、議会との対立解消を目指す。
- 1898年6月隈板内閣の成立
伊藤博文は議会との対立を解消できず辞職。
その代わりに、議員が内閣の要職を兼任する政党内閣が登場する。
憲政党の議員で、要職に就いた大隈重信と板垣退助の「隈」と「板」をとって、この政党内閣を隈板内閣と言います。
- 1898年10月山県有朋、2回目の内閣総理大臣就任(第二次山県内閣)
隈板内閣を担っていた憲政党が内部崩壊。政党内閣は、議員と内閣の要職を兼任する内閣なので、党が崩壊すると内閣も崩壊。
代わりに政党に属さない山県有朋が内閣総理大臣に就任
- 1900年伊藤博文、立憲政友会を結成
自ら政党(立憲政友会)を結成して、内閣と議会の関係解消を目指した。
伊藤博文が最初に政党を作ろうと考えたのは、1898年の第三次伊藤内閣の時です。
第三次伊藤内閣に託された重要な任務は、(第二次)松方正義内閣でズタボロになった議会との関係を回復することでした。
伊藤博文には、この状況を打破するための腹案がありました。
内閣と議会の意見が真っ向から対立するのは、この2つの組織の構成メンバーが全く別の人間であるからだ。
問題を解決するには、議会で多数を占めている政党議員に内閣を兼任させて、議会と内閣の構成メンバーを同じにすれば良いのだよ。
※このような内閣のことを政党内閣と言います。
1898年6月に政党を立ち上げることを表明すると、政府重鎮の反対を受けてこれを断念。伊藤博文に一番反対したのは、政党嫌いで超然主義の立場をとる山県有朋だったと言われています。
隈板内閣と伊藤博文
政党立ち上げに失敗すると、同じ6月に伊藤は内閣を辞任。
次の内閣総理大臣を決める必要がありますが、伊藤博文でさえ不可能だった「議会との関係回復」を任せられる人物がいるはずもなく、人選がすすみません。
伊藤博文は、帝国議会と内閣の仕組みを大日本帝国憲法に定めた張本人です。その伊藤が無理なら、議会との関係改善を図れる人物は簡単には見つかりません。
そこで、伊藤博文は「議会の大多数を占める憲政党代表の大隈重信はどうか」と提案。政党に内閣を任させることに不安を持っていた明治天皇を説得した上で、強引に大隈重信を内閣総理大臣にしてしまいました。(この剛腕さは伊藤博文らしいです)
伊藤博文としては自分が立ち上げた政党ではなくても、別の政党が内閣を担ってくれれば議会と内閣の関係は回復するはずだし万事OK!と考えていたのです。
・・・が、憲政党は内部の派閥争いで自滅し、1898年10月に隈板内閣は解散。そして、超然主義の山県有朋が内閣総理大臣に就任します。
すると、次第に内閣と議会の関係が再び悪化。状況が松方・伊藤の頃に戻ってしまいました。このままでは、内閣の法案や予算が成立せず、国政が再び停滞してしまうことになります。
立憲政友会の結成
そこで、伊藤博文は再び政党を結成すること決意しました。すると、山県有朋に対抗したい憲政党が伊藤博文に接近。
憲政党は、「伊藤博文が新しい政党を立ち上げるなら、俺たち全員そっちに移籍するよ」と協力姿勢を示したのです。
おまけに政府の超重要人物だった伊藤博文には、広い人脈があります。政府内の官僚派閥や財界(特に三井財閥)の人々らの大小の協力も得ながら、伊藤博文は1900年9月ついに立憲政友会を結成します。
ちなみに、立憲政友「党」ではなく立憲政友「会」にしたのは、政治色を薄くして政治に脚を突っ込むことに不安を持つ官僚や財界人の抵抗を少なくするためだった・・・と言われています。
しかし、内閣総理大臣だった山県有朋がこれを邪魔してきました。山県有朋は1900年10月に内閣を解散し、次期政権を伊藤博文に丸投げしてきたのです。
立憲政友会と一言に言っても、その中には様々な意見を持った人たちがいます。伊藤博文の最初の仕事はそれらの意見をまとめることでした。
しかし、山県有朋が内閣を解散し、伊藤博文に次期政権を押し付けたことで、伊藤博文は立憲政友会の内部をまとめきれないまま、内閣を結成することを強いられました。
これこそが山県有朋の狙い。立憲政友会がグダグダのまま、伊藤博文を内閣総理大臣とし、立憲政友会が内部崩壊することを期待したのです。まさに、肉を切らせて骨を断つ戦法ですね。
この山県有朋の戦法は効果テキメンで、1901年には立憲政友会内で対立が起こり伊藤博文は内閣総理大臣を辞職することになります・・・。
桂園時代へ
1901年に伊藤博文が内閣総理大臣を辞職した頃から、政界にも世代交代の動きが見られます。
政府の2大重鎮だった伊藤博文・山県有朋は、裏から強い影響力を持つようになり、内閣総理大臣のような政治の表舞台には登場しなくなります。伊藤博文は1903年に、立憲政友会の代表(総裁)も辞めています。
そして、山県有朋VS伊藤博文の争いは、それぞれの後継者である桂太郎VS西園寺公望という構図へ変わり、1904年に起こった日露戦争をきっかけに両者は強調路線へ。その後、桂太郎と西園寺公望が交代で政権(内閣)を担当する桂園時代が到来することになります。
立憲政友会はその後、何度か分裂を繰り返しますが、政党自体は戦争中の1940年に「日本中が一致団結するために、全ての政党を合体させるぞ!」と大政翼賛会が結成されるまで存続しました。
立憲政友会は、原敬・高橋是清・田中義一・犬養毅など内閣総理大臣を次々と輩出する影響力のある政党の1つとなりました。
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