面白ほどわかる佐賀の乱!簡単にわかりやすく徹底解説【原因・経過・結果と江藤新平と島義勇の活躍を知る】

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佐賀の乱を描いた浮世絵

今回は1874年に起こった佐賀の乱さがのらんについてわかりやすく解説していきます。

教科書では佐賀の乱について以下のように書かれています。

佐賀の乱とは?

1874年、征韓派前参議の一人、江藤新平えとうしんぺいは郷里の佐賀の不平士族に迎えられて征韓党せいかんとうの首領となり、政府に対して反乱を起こした。(佐賀の乱)

教科書ではサラッと書かれているだけですが、この記事では以下の点を中心にもう少し詳しく佐賀の乱について迫ってみたいと思います。

  • そもそも江藤新平ってどんな人?
  • なぜ江藤新平は佐賀の乱を起こした?
  • 征韓党って何?
  • 佐賀の乱の経過は?
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佐賀の乱の首謀者、江藤新平

佐賀の乱の首謀者である江藤新平

佐賀の乱の主役は、その首謀者である江藤新平。というわけで、まず最初に簡単に江藤新平の紹介をしておきます。

江藤新平は佐賀県(旧肥前藩)出身で、佐賀の乱を起こした当時は40歳ぐらいでした。

佐賀県は明治政府の樹立に大きく貢献していたので、政府の要職には佐賀県出身の人物が多く抜擢されていました。そして、その一人が江藤新平でした。(後に内閣総理大臣になる大隈重信も佐賀出身!)

江藤新平はその秀才ぶりから政府内で目まぐるしい出世を遂げ、1872年には司法省のトップとなり、1873年には明治政府の最高機関(正院)の一員である参議まで上り詰めます。

・・・が1873年10月、江藤新平は突如として参議を辞任します。明治六年の政変という政治クーデターにより敗北したからです。

【明治六年の政変とは】

征韓論をめぐって起こった明治政府内の政争。征韓論に賛成していた西郷や江藤たちが敗北して、政界を去った。もちろん征韓論も白紙撤回となった。

ちなみに、征韓論は「朝鮮と戦争しようぜ(武力で国交を求めようぜ)!」という考え方。廃藩置県を始めとする政治改革で没落した士族を動員することで、士族の不満を国外に向けさせるとともに、士族救済を目指すことが主な目的でした。

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江藤新平「俺が佐賀の反乱を止める・・・!」

1874年1月、江藤新平は征韓論の白紙撤回をきっかけに地元の佐賀で士族たちを中心に反乱が起こりそうだ・・・という話を聞き、佐賀へ戻ることにしました。

江藤新平
江藤新平

俺が佐賀へ戻り、士族たちの反乱を止めてくる!

当時、明治六年の政変で辞任した人たちに対して「(不穏な行動を起こされたら困るから)東京に残留しろ」と政府からの命令がありましたが、江藤新平はそれを無視して佐賀へ戻ります。

板垣退助
板垣退助

江藤よ、地元を憂う気持ちはわかる。しかし、少し落ち着くんだ。

政府の命令に背けば、「謀反の意思あり」と難癖つけられて逆に政府側に攻める口実を与えてしまう可能性だってある。それこそ政府の思う壺であるぞ。

佐賀に戻ることには、多くの人が反対しましたが、それでも江藤は静止を振り払って佐賀へと向かいます。

ただ、江藤新平の「佐賀の反乱を未然に防ぐ」という帰郷理由は建前で、実際のところは最初から士族たちと共に佐賀で反乱を起こすつもりだったのかもしれません。というのもこのわずか一ヶ月後に、江藤新平は乱の首謀者となり佐賀の乱を起こすことになるからです。

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征韓党と憂国党

疑問に思った人もいるかもしれませんが、なぜ「征韓論が白紙撤回=佐賀で反乱」になるのか少し説明しておきます。

佐賀県には、政府のあり方をめぐって大きく2つの考え方があって、それぞれ征韓党憂国党ゆうこくとうという組織まで創設されていました。

征韓党

士族たちを救うため征韓論に賛成する人々の集まり。明治六年の政変までは江藤新平が征韓論の実現のために活躍していたので、政府に期待をしていた。

憂国党

「今の明治政府は士族を虐げるダメ政府だからぶっ潰すべき!」と考える人々の集まり。もちろん、政府に反対する活動をしていた。

征韓党は政府支持派で憂国党は政府反対派なので、佐賀県内では征韓党VS憂国党で対立が続いていたのですが、江藤新平が参議を辞任したことで征韓党の考え方が一変。

征韓党「征韓論が白紙撤回されて、江藤新平もいない明治政府はもはや敵でしかない・・・。」

こうして征韓党も政府反対派となり、共通の敵(明治政府)を持つようになった両者は次第に協力し合うようになります。

そんな中、江藤新平は佐賀に戻ると征韓党から大歓迎され、すぐに征韓党のトップとなります

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佐賀の乱、起こる

1874年2月1日、憂国党の党員が政府関係者を襲う事件が起こります。

明治政府の実質的トップにいた大久保利通はこの事態を深刻に受け止めました。

大久保利通
大久保利通

今回の事件自体は些細な事件であり問題ではない。

問題なのは、これが波及し薩摩や福岡などに広がり大規模な反乱になることだ。それだけは絶対に避けなければならない。

そのためには、些細な事件であってもこれを完膚なきまでに叩きのめし、反乱分子への見せしめとするのだ・・・!

大久保の判断は迅速で2月4日には、熊本の鎮台ちんだいに反乱分子の鎮圧を命じます。東京では、大久保利通が佐賀の乱の全権を任され、遠征軍の派遣を決定。17日には遠征軍が博多に到着しました。

【鎮台】

陸軍のこと。現代風に言うと「師団」。熊本の鎮台=熊本師団

さらに、憂国党を説得するため同じ佐賀出身で人望のあった島義勇しまよしたけという人物を佐賀へ派遣します。

・・・しかし、佐賀へ向かう途中、政府役人の佐賀の士族たちを軽んじる態度にブチギレ。佐賀に戻ると、なんと説得するはずだった憂国党のトップとなり、江藤新平率いる征韓党と協力し、政府へ徹底抗戦することを決めます。

政府を見限り、憂国党のトップに立った島義勇

2月16日、征韓党と憂国党が挙兵。政府軍が立て籠っている佐賀城を攻め落とし、佐賀の乱の初戦を勝利で飾ります。

しかし、これは戦いの始まりに過ぎません。次に戦うべき敵は博多に上陸した遠征軍と熊本の鎮台。

憂国党と征韓党は二手に分かれ、これを迎え撃ちます。

江藤新平は佐賀の乱を起こした理由を次のように述べています。

江藤新平
江藤新平

明治政府は、閣議決定までしていた征韓論を白紙撤回した。これは許されることではない。

私は、幕末に国を憂いて江戸幕府と戦った長州藩(長州征討のこと)のように、国のために戦うのである。

江藤新平にとって、困窮する士族に仕事を与え人々を救うはずだった征韓論が否定されたことは「政府が士族を見捨ていた」に等しい行為でこれを厳しく非難したのです。

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佐賀の乱の経過

初戦で勝利した江藤新平らでしたが、快進撃はここまで。迫ってくる熊本鎮台と政府遠征軍の前に、江藤新平らは苦戦を強いられることになります。

兵力的に不利だった江藤新平らは善戦をしますが、政府軍を破ることができません。2月22日、要所の朝日山あさひやまを政府軍に攻略されると、後退を余儀なくされ、その後も敗北が続きます。

赤いアイコンが朝日山。緑のアイコンが佐賀城。

江藤新平
江藤新平

くそっ!このままでは勝てない・・・!

一度撤退し、不平士族を多く抱えている鹿児島県に加勢を求めよう。

こうして征韓党は解散。江藤は数名を引き連れて密かに鹿児島県に入り込み、協力を要請しますが、これは拒否されます。

その後も海を渡り四国の高知へ向かい、協力を要請するもこれも断られ、3月に江藤新平は政府に捕らえられることとなります。

おそらく、協力を得られなかったのは江藤新平にとって大きな誤算でした。大久保利通が懸念していた「佐賀が挙兵すれば、各地で人々が立ち上がるはず・・・」という思惑を江藤新平も持っていたはずですが、政府の迅速な対応によりこれは阻止されてしまったのです。

特に鹿児島県では佐賀の乱が起こると、これに呼応して反乱が起こらぬよう西郷隆盛が帰郷して対応に当たっていました。江藤と同じく明治六年の政変で辞任した西郷は、江藤と同じく政府への不満を持っていましたが、武力で解決することを望まなかったのです。

一方の憂国党は、征韓党が勝手に解散したことに大激怒。元々犬猿の仲だった憂国党と征韓党はうまく連携することができませんでした。

島義勇
島義勇

江藤め・・・勝手なことをしやがって!

その後憂国党は孤軍奮闘しますが、最初に攻め落とした佐賀城を逆に政府軍に奪われ敗北。3月7日に憂国党のトップだった島義勇は捕らえられ、佐賀の乱は集結しました。

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佐賀の乱の事後処理

佐賀の乱は、大久保利通の迅速な判断と行動によりわずか一ヶ月ほどで鎮圧。大久保が危惧していた他県への波及も、政府の圧倒的軍事力を見せ付けることで未然に防ぐことに成功します。

4月、首謀者の江藤新平・島義勇の処罰に関して裁判が行われます。

江藤新平は元々司法省のトップで裁判制度の整備などを実施していました。そして今、江藤新平は皮肉にも自ら整備した裁判制度によって自分自身が裁かれようとしていました。

この時、裁判に当たったのは司法省の河野敏鎌こうのとがまという人物。江藤新平の昔の部下でした。ところが、河野敏鎌は江藤に弁明の機会をほとんど与えず、死刑宣告を突き付けます。裁判と言いつつ、最初から結論が決まっていた暗黒裁判だったんです。

厳しく訊問する河野敏鎌に対して、江藤はこうブチギレたとも言われています。

江藤新平
江藤新平

敏鎌!!それが恩人に対する言葉か・・・!!!!

おそらく江藤新平が憤慨したの河野敏鎌の態度だけではありません。自ら創設した裁判制度が機能せず、刑罰は全て政府の上層部で決められ、罪人に対しては恫喝まがいの訊問が行われ弁明の余地すら与えないものであることに強く失望したのだと思います。

江藤に怒鳴られた河野敏鎌。怒鳴られてからは、江藤の裁判には関わらなくなったらしい・・・(汗

4月13日、江藤新平と島義勇は斬首され、佐賀の乱は終わりました。

江藤と島は反乱こそ起こしましたが、明治政府で大きな実績を持つ人物であり、その人物を斬首したことには批判も多くあったと言われています。実際、佐賀県では、江藤と島は明治維新で大きな功績を残した佐賀の七賢人に選ばれています。

参考URL佐賀県観光情報ポータルサイトあそぼーさが「佐賀の七賢人」

江藤新平の話が多めになりましたが、島義勇の話も少しだけ。

島義勇は、北海道の開拓に大きな功績を残しています。今では政令市にまで発展した札幌市の基礎を築き、北海道(特に札幌)の歴史に名を刻んでいます。

島義勇は北海道で開拓使判官という役職に就任しており、札幌では「判官さま」というお菓子まで売られています。死んでもなおお菓子として名前が残るなんて、生前の島義勇もきっと人々から愛されていたのでしょう。

参考URL神宮茶屋店 (判官さま)(六花亭.com)

江藤は佐賀の乱を各地に波及させることに失敗しましたが、少しの時間を経て、各地で佐賀の乱と似たような出来事が次々と起こります。乱の波及は起こらなかったのではなくて、単に時差があっただけだったんです。

佐賀の乱後の怒涛の反乱ラッシュ!
  • 神風連しんぷうれんの乱(1876年10月):熊本県の士族たちが反乱
  • 秋月の乱(1876年10月):福岡県の士族たちが反乱
  • 萩の乱(1876年10月):山口県の士族たちが反乱
  • 地租改正反対一揆(1876年12月):三重県付近で、当時最強クラスの農民一揆
  • 西南戦争(1877年):鹿児島県の士族たちが反乱

結局、明治政府が士族を追い込めば追い込むほど、士族は立ち上がらざるを得なくなります。まさに「窮鼠猫を嚙むきゅうそねこをかむ」状態です。

良いか悪いかは分かりませんが、結果的に佐賀の乱は士族たちをさらに追い込み、これが次の反乱を起こす遠因となってしまったのです。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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