今回は、1868年3月に公布された五榜の掲示についてわかりやすく解説していきます。
最初に教科書風に五榜の掲示の概要を紹介しておきます。
この記事では五榜の掲示について以下の点を中心に解説を進めていきます
五榜の掲示の内容
いきなり本題に入りますが、五榜の掲示が掲げられた理由は、
江戸幕府が滅んで天皇親政の新政府が樹立した今、民衆たちにやってはいけない5つの禁止事項を広く知らしめるため
でした。
つまり、五榜の掲示とは5つの禁止事項ということです。そして、その5つの禁止事項がこちら↓
【五倫】
儒教で重んじられていた
と呼ばれる5つの道徳のこと。
儒教を保護していた江戸時代では、この5つの道徳は大事なものとされていた。
五榜の掲示は、新政府が民衆に対して発令した初めての禁止令となりました。
ただ、五榜の掲示に掲げられている禁止事項は江戸時代の頃から禁止されている事項ばかりで、真新しい内容はほとんどありません。
五榜の掲示と五箇条の御誓文の関係
五榜の掲示が掲げられた前日、これとは別に五箇条の御誓文が公布されました。
どっちも5つで紛らわしいですが、中身はまったくの別物。
旧来と変わらぬ禁止項目を並べる五榜の掲示と、新しい政治にむけた5大方針を示す五箇条の御誓文では、月とスッポンほどの違いがあります。
「陰(ネガティブ)」の五榜の掲示に対して、「陽(ポジティブ)」の五箇条の御誓文というイメージです。
五榜の掲示と五箇条の御誓文の内容からわかることは、
当時の新政府は民衆の変革には否定的で、政治改革はあくまで上層部の主導で行われた
ということです。
明治維新は確かに日本史上屈指の大変革です。しかし、それはあくまで日本の政治を担う上層部同士の権力争い。フランス革命のように民衆が主導となり下から突き上げるような改革ではありませんでした。
むしろ、新政府は世直し一揆のような下からの突き上げを恐れており、それが五榜の掲示の内容に現れています。
外国人「キリスト教は邪教じゃないぞ」
五榜の掲示にある「3 邪教のキリスト教を信仰したらダメ」は、掲示するとすぐに外国人からクレームが入りました。
私たちの信仰するキリスト教を「邪教」って言うのは流石に酷くない?
やめて欲しいんだけど?(怒)
これを受けて新政府は、
邪教のキリスト教はダメ!
から
邪教とキリスト教はダメ!
と内容を変更しました。当然、こんな改正では外国人たちは納得しません。
屁理屈みたいな変更ですが、新政府にとってキリスト教の禁止はどうしても譲れなかったのです。
江戸時代初期の頃から、キリスト教の布教は外国が日本に侵略する隙を与えるものとして、弾圧されてきた歴史があります。それは明治時代になっても変わりませんでした。
五榜の掲示が掲げられた頃から、キリスト教徒が多くいた浦上(今の長崎市)では大規模なキリスト教弾圧(大浦教徒弾圧事件)が起こり、多くのキリスト教が過酷な弾圧を受けることになります。
五榜の掲示、廃止へ・・・
その後、主に「キリスト教禁止」について外国から強い反対によって、1873年に五榜の掲示は廃止となります。
五榜の掲示の廃止によりキリスト教はようやく黙認され、浦上で行われていた凄惨な弾圧は終わりを告げ、キリスト教徒らは、今では長崎の観光名所となっている大浦天主堂を建設しました。
また、1873年にもなると新政府の組織も成熟し、政策を打ち出す際に掲示を立てるだけ・・・ということも無くなっていきました。
天皇からの命令である詔勅や、太政官布告という形で公布した各種法令により政策が打ち出されるようになり、五榜の掲示の役目は早々と終えることになります。
最後に、五榜の掲示に関する時系列をまとめておきますす
- 1868年3月14日
- 1868年3月15日五榜の掲示
- 1868年5月頃浦上のキリスト教とへの弾圧が始まる
- 1873年五榜の掲示、廃止
諸外国からの反対により廃止。新政府の政策は「地租改正条例」というような法令、「大教宣布の詔」のような詔勅(天皇からの命令)によって実行されることになり、五榜の掲示は役目を終える。
キリスト教弾圧が収まる。
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