山背大兄皇子はどんな人?わかりやすく紹介!【蘇我入鹿による殺害事件】

643年、聖徳太子の息子だった山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が蘇我入鹿の手によって討ち滅ぼされてしまいます。今回は、この山背大兄皇子殺害事件について紹介しようと思います。

山背大兄皇子とは

山背大兄皇子は、あの有名な聖徳太子の息子です。実は、蘇我氏と天皇の血を引いており推古天皇亡き後の次期天皇の最有力候補でした。ところが、時の権力者だった蘇我蝦夷はなぜか蘇我氏の血を引いていない古人大兄皇子を擁立します。理由は不明ですが、血筋的には蘇我氏と親密なはずの山背大兄皇子ですが、蘇我蝦夷とは馬が合わなかったようです。

結局、政治情勢が不安定化するのを避けるため繋ぎ役として推古天皇亡き後は皇極天皇が即位することになります。

聖徳太子の息子だけあり、山背大兄皇子は非常に人望の厚いとても聡明な人物でした。優秀であるが故に、山背大兄王じは天皇を傀儡とし政治を思いのままに操っていた蘇我蝦夷・入鹿から非常に危険視されていました。この辺りの細かい経緯は、以下の記事を参考にどうぞ。

今回は、乙巳の変というクーデターで殺害されてしまったあの有名な蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子について紹介しようと思います。 ...

山背大兄皇子殺害事件

慎重な性格だった蘇我蝦夷は山背大兄皇子との直接の対立は避け、様子見状態が続いていたのですが、643年に息子の蘇我入鹿が政治を担うようになると状況は一変します。

蘇我入鹿には、父蝦夷のような慎重さや冷静さはなかったようで、危険分子である山背大兄皇子を早急に排除してしまうと考えました。こうして643年11月、突如として山背大兄皇子の宮殿は蘇我入鹿の兵らに襲撃されることになりました。

ちなみに、山背大兄皇子の宮殿は斑鳩宮と言って、今でいう法隆寺の夢殿で有名な東院伽藍に建てられていました。

【法隆寺の夢殿】

643年、この場所で山背大兄皇子と蘇我入鹿との間で武力衝突があったのです。蘇我入鹿の強襲に、山背大兄皇子はわずかな兵で戦うことしかできず、近くの山に逃げ込みます。斑鳩宮はこの時焼かれてしまいます。

山背大兄皇子の伝説

山に逃げ込み山背大兄皇子の側近たちは再起を図ろうと試みます。山背大兄皇子に好意を持っている者は多くいたし、まだまだ挽回が可能だったのです。特に側近たちが注目していたのは東国(今でいう中部地方付近と思われる)の人々でした。

側近たちは山背大兄皇子に「東国で兵を集め、一気に蘇我蝦夷・入鹿を攻めこみましょう!」と提案します。ところが、山背大兄皇子は次のように述べてこの提案を拒否してしまいました。

「確かにその案を採用すれば、蘇我入鹿を倒すことは容易い。しかし、それでは東国を巻き込んだ大規模な戦となってしまう。私のために民を疲弊させてはいけません。」

山背大兄皇子は、この最後に言って家族と共に自害します。こうして、最後まで民のことを想い続けた山背大兄皇子は亡くなり、聖徳太子の血統は断絶することになってしまいます。

・・・とはいえ、上の山背大兄皇子の発言はおそらく逸話です。聖徳太子は昔から非常に人気のある人物で、現代でも1万円札に載ったこともあるほどに人気ぶりです。聖徳太子自身、長年の人気のおかげで色々と美化された逸話が多いのですが、その息子である山背大兄皇子についても長期にわたる聖徳太子ブームによって作られた逸話が多いのでは・・・?と考えられているのです。

私は、本当のところは蘇我入鹿の奇襲に対して何もできないままに山背大兄皇子は自害するしかなかったのでは?と考えています。

乙巳の変(大化の改新)へ

この蘇我入鹿による山背大兄皇子殺害事件は、当時の一大事件でした。聡明だった山背大兄皇子をなんの大義名分もなく殺した蘇我入鹿への世間の目は非常に冷たいものでした。この事件を機に蘇我蝦夷・入鹿は世間を一気に敵に回すことになってしまったのです。

蘇我入鹿の山背大兄皇子殺害は、早計であり、まさに愚行と言うにふさわしい行為でした。父の蘇我蝦夷でさえ、「入鹿よ、なんてことをしたのだ・・・。これでは自分の命を危うくするぞ」と落胆する有様。

こうして、「朝廷を私物化し、暴挙の限りを尽くす蘇我氏を許してはいけない!」という世論が醸成されていきました。

中臣鎌足、立つ

そして、蘇我蝦夷・入鹿の専横をこれ以上許してはいけない!と立ち上がった人物こそが、645年に起こる乙巳の変の首謀者である中臣鎌足でした。

山背大兄皇子殺害事件は、蘇我氏への不満を我慢していた人々が蘇我氏へと反旗をひるがえす大きなきっかけとなったのです。

まとめ

山背大兄皇子は非常に聡明な人物であり、蘇我氏の血を引くにも関わらずなぜか蘇我蝦夷・入鹿から疎まれます。これは山背大兄皇子が天皇になってしまうと、蘇我氏がわがまま勝手に政治ができなくなってしまうからでは?なんて説もあるほどです。

しかし、優秀すぎるが故に、蘇我蝦夷・入鹿によって殺されてしまったという事実はなんとも皮肉な話です。

多くの人に愛されている聖徳太子の息子ということもあり、山背大兄皇子のその悲しき生涯は多くの人を魅了し続けてきました。蘇我氏排斥事件である645年の乙巳の変が起こったのも山背大兄皇子殺害事件が直接のきっかけになっています。。山背大兄皇子は、直接歴史の表舞台に登場する機会は少ないですが、当時の歴史の流れに大きな影響を与えた重要人物だったのです。

【次回】

今回は、645年起こった蘇我氏排斥事件、有名な乙巳の変(大化の改新)について紹介したいと思います。 乙巳(いっし)の変と大...

【前回】

今回は、乙巳の変というクーデターで殺害されてしまったあの有名な蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子について紹介しようと思います。 ...

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