仏教をめぐる日本最古の戦い!蘇我氏と物部氏

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前回は、蘇我稲目・馬子親子と用明天皇の活躍により、仏教が本格的に日本に浸透していったというお話でした。

ですが、まだ物部氏は存続しています。政治的にも宗教的にも対立した物部氏と蘇我氏。いつかは決着をつけなければいけません。

その決着となるのが、丁未(ていび)の乱(587年)です。あまり有名な戦いではありません(汗)。

ちなみに、古墳の話があまり出てきませんが、まだ古墳時代です。あと少しで飛鳥時代!

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焦る物部氏

用明天皇が即位したとき、物部守屋は焦りました。

「蘇我氏と結びつきの強い用明天皇が即位してしまった。このままでは、政治は蘇我馬子の思いのまま。我々物部一族も滅ぼされてしまう。なんとかしなければ・・・」

そこで、物部氏は別の対抗馬を探すことにしました。そこで出会ったのが穴穂部(あなほべ)皇子です。

上の系図を見てください。崇峻天皇の右下にいます。穴穂部皇子は用明天皇の異母兄弟であり、用明天皇即位時の候補者の1人でした。そして穴穂部皇子自身も即位を強く望んでいました。

しかし、蘇我馬子が推す用明天皇が即位してしまったことにより、穴穂部皇子の望みは絶たれてしまいました。

ここに、蘇我憎しの物部守屋と穴穂部皇子との協力体制ができあがったのです。

ちなみに物部守屋はこんな人物として描かれています。

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なかなかワイルドな感じ!

ところで、この頃の天皇(当時は天皇号は使われず、「大王」という言い方が適切だが、わかりやすくするため天皇とする。)はどうやって決まったのでしょうか。

ちょっと、横道に逸れますが、これを知らないと、なぜ物部氏が穴穂部皇子を支援したのかがわからなくなってしまいます。

血筋を重視する日本の天皇制度

日本は血筋を非常に重要視する民族です。

なぜでしょうか?

これから話す内容がすべてではないと思いますが、その理由の一部にはなっているのかなぁと私は考えています。

天子思想の芽生え

天子思想については、なぜ日本に仏教が伝来したのか!?その秘話に迫るの金官国の話のところで説明しました。

当時の中国から伝わったこの天子思想。中国では、徳があり統治者にふさわしい人物が天から皇帝の身分を授かるという考え方がありました。

この考え方では、一度皇帝になったとしても、その後堕落してしまい、徳がなくなってしまうと、皇帝たる資格を失ってしまいます。これは、革命を起こす大義名分となっていました。

そもそも、天子思想とは革命ありきの思想といえます。徳がないなら徳があるものを皇帝に選びなおせば良いというわけです。

日本では、なぜか徳を中心とする天子思想は受け入れられることはありませんでした。

日本文化と天子思想の融合

日本の天子思想は、徳の代わりに血を重視しました。日本特有の文化と中国の思想を融合させたのです。

日本独特の文化とは、縄文時代~弥生時代に培われたご先祖様を強く崇拝する文化を言います。当時の人々は、一族で行動することが多く、「ご先祖様は亡くなった後も現世に生きる私たちを見守ってくれている!」と考えていたようです。

そして、弥生時代の争乱期を乗り越え、大きな集落が増えていくと次第に集落のリーダーも同じように、先祖崇拝の対象となっていきます。「辛いことがあっても先代のリーダーが見守ってくれている!」というわけです。

そして、崇拝の象徴としてお墓がだんだん豪華になっていき、出来上がったのが古墳です。そうすると、当たり前のようにご先祖様の息子たちも力を持つようになっていきます。ご先祖様を崇拝しているのに、血のつながった息子を馬鹿にするというのはおかしな話です。

このように、血筋を重視する考え方は日本人に根深く浸透しているのです。これは現代にまで通ずる日本の国民性だと私は考えています。

過渡期の天皇制

こうして血筋を重視した天皇観が形成されていくのですが、一方で国が大きくなるにつれ群臣たちの意見も強大なものになっていきました。

雄略天皇の記事でも、書きましたが、倭国は有力豪族の連合体として成り立っており、突出した権力を持つ者がいなかったのです。そんな状況で群臣に逆らうことは、相当の困難が伴ったことは想像に難くないでしょう。

蘇我氏と物部氏のこの時代も同じです。天皇になるには血筋だけでは駄目で、群臣からの擁立が必要だったのです。

奈良時代へ時代が変わるにつれ、譲位(天皇が別の天皇を指名すること)という仕組みができあがり、次第に群臣の擁立が不要となっていきます。雄略天皇の時期に、天皇権力は大いに高まりましたが、有力豪族を無視できるほど強い権力を手に入れるには平城京の時代(700年頃)まで待たなければなりません。

話を戻します。

決着の時。丁未の乱!

きっかけは用明天皇の逝去でした。政治が大きく動きます。

守屋は穴穂部皇子を天皇として擁立しようとしますが、馬子は天皇候補である穴穂部皇子を実力行使で排除します。

覚悟を決めたのか、はたまた堪忍袋の緒が切れたのか、どちらかわかりませんが、馬子は穴穂部皇子をすぐに排除し、その後、物部守屋の討伐へと向かいます。

しかし、守屋は簡単にはやられません。木の上から雨のように矢を注ぎ、馬子軍に大きな打撃を与えます。馬子は一時撤退を余儀なくされました。

物部氏は強いです。物部氏は先祖代々、倭国の軍事に携わってきた一族ですから当然です。(上の絵を見ても強そうですよね?)

ちなみに、馬子は渡来人系の人々をかき集めて兵を集めていました。

一進一退の攻防が続く中、戦況が大きく動きます。守屋が弓矢で射貫かれてしまいます。これが勝敗の分かれ目でした。総大将を失った物部軍は敗北し、兵たちは雲散霧消してしまいます。

用明天皇が亡くなってから数か月の間の出来事でした。

こうして、勝者となった馬子が擁立していた崇峻天王が即位します。丁未の乱により物部氏が滅びたことにより、雄略天皇期から続く有力豪族の淘汰が終了し、大化の改新まで続く蘇我氏一強時代が始まることになるのです。

次回は、遂に聖徳太子の登場です!時代は飛鳥時代に変わります。

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