丁未の乱とは?蘇我馬子と物部守屋の対立をわかりやすく【崇仏論争の結末】

蘇我稲目と物部尾輿の間で起こった仏教や政治をめぐる対立は、次世代に引き継がれ、次はそれぞれの息子だった蘇我馬子物部守屋が対立することになります。

蘇我馬子と物部守屋との対立は、587年に起こる丁未の乱にまで発展し、蘇我馬子の勝利で幕を閉じることになります。今回は、そんな丁未の乱について紹介します。

反蘇我派の敏達(びだつ)天皇即位

【今回登場する人物たちの系図】

*人間関係がわからなくなったら、上の系図を参考にしてください。赤枠の人物が主要人物です。

欽明天皇が亡くなった後、敏達天皇が即位します。572年の話です。欽明天皇は蘇我稲目の娘を妃とし、蘇我氏とは緊密な関係を築いていましたが、敏達天皇は事情が全く違います。

敏達天皇は蘇我氏との血縁関係はなく、むしろ蘇我氏の影響力が増大するのを恐れ、蘇我氏反対派の立場に立ちます。

蘇我・物部両者の対立は、欽明天皇の頃は蘇我氏優勢でしたが、敏達天皇が即位すると一転して物部氏有利の展開になっていきます。

蘇我馬子の嘆き ー排仏運動その2ー

敏達天皇の時代は、蘇我馬子にとっては不遇の時代と言えるかもしれませんが、それでも私的な仏教信仰を諦めることはありませんでした。父、蘇我稲目の頃、排仏運動により弾圧された仏教信仰でしたが、再び仏教信仰を始めたのです。

しかし、蘇我馬子が仏教信仰を始めると再び民の間で疫病が流行し始めます。父の蘇我稲目の頃と全く同じです。敏達天皇と物部守屋は、疫病の流行を異国の神を信仰したことに対する八百万の神の祟りだとし、再び排仏運動を行います。

こうして、再び多くの仏像や仏塔が破壊されました。

しかし、蘇我馬子は諦めません。敏達天皇の治世では表立って何かをすることはできませんでしたが、次期天皇を蘇我氏寄りの人物にすべく裏で動いていたようです。そして敏達天皇死後、親蘇我派の用明天皇が即位することで、再び蘇我馬子を息を吹き返します。

用明(ようめい)天皇即位と穴穂部皇子(あなほべのみこ)

585年、敏達天皇が亡くなり翌年の586年に用明天皇が即位します。用明天皇は蘇我馬子が強く推していた天皇であり、蘇我馬子の裏工作が功を奏した形です。

しかし、用明天皇即位には強く不満を持つ者もいました。それが穴穂部皇子です。用明天皇とは異母兄弟であり、天皇即位を強く望んでいましたが、蘇我馬子の圧力により即位した用明天皇によってその望みが絶たれてしまったのです。

朝廷内は用明天皇と穴穂部皇子の対立により不穏な空気が漂います。穴穂部皇子は、同じく蘇我馬子・用明天皇に不満を持つ物部守屋と結びつくことで情勢はさらに複雑化します。

こうして、蘇我馬子と物部守屋との政治的・宗教的対立は、用明天皇と穴穂部皇子をも巻き込んだ皇位継承問題という大問題にまで発展していきます。

穴穂部皇子は用明天皇死後の次期天皇になれるよう物部守屋と共に虎視眈々と準備を整えます。一方の蘇我馬子は用明天皇死後も、親蘇我派の人物を即位させ、安定した朝廷運営を実現しようと、穴穂部皇子を排除する準備を整えていきます。

用明天皇の時代、両者はお互いに息を潜め、準備を進めていきます。そして、幸か不幸か用明天皇は即位後わずか2年で亡くなってしまいます。587年でした。そして、用明天皇が亡くなることで、蘇我馬子と物部守屋の対立は一気に表面化することになります。

巧妙な蘇我馬子の策

用明天皇死後の次期天皇をめぐる蘇我馬子・物部守屋の対立ですが、蘇我馬子は実に巧妙な策を用います。

用明天皇と穴穂部皇子の対立は、いわば「次期天皇は、小姉姫の血筋と堅塩姫の血筋、どちらを選ぶのか?」という問題に帰結します。用明天皇は堅塩姫の息子、穴穂部皇子は子姉姫の息子であり、蘇我馬子は堅塩姫の血筋を重用したことになります。

つまり、穴穂部皇子の下には小姉姫の血筋を引く多くの者が加わっていたのです。そして蘇我馬子はそんな穴穂部皇子勢力を分断することを考えました。

泊瀬部皇子(はつせべのみこ)の擁立

蘇我馬子は、穴穂部皇子の対抗馬としてなんと穴穂部皇子の弟の泊瀬部皇子を擁立します。泊瀬部皇子の擁立によって、小姉姫派で一致団結していた穴穂部皇子派を分断しようと考えたのです。

この蘇我馬子の選択は、実に効果的な一手でした。堅塩姫に執着せず、政争に勝ち抜くため、最善の手段を導き出した蘇我馬子は、相当の策士だった・・・と私は考えています。

こうして、泊瀬部皇子を擁立する蘇我馬子VS穴穂部皇子を擁立する物部守屋という構図が出来上がり、両者の対立は最終局面を迎えます。

丁未(ていび)の乱 蘇我馬子VS物部守屋

587年4月、用明天皇が崩御します。その後、先手を打ったのは蘇我馬子でした。587年6月、蘇我馬子は炊屋姫(かしきやひめ。後に推古天皇となる人物)に命じ、穴穂部皇子を討伐させます。こうして穴穂部皇子の不穏な行動を事前に防ぐことに成功します。

ちなみに、すんなりと穴穂部皇子が殺された背景には、穴穂部皇子の人望のなさに理由があると思われます。実は穴穂部皇子は、以前に炊屋姫を犯そうと襲ったことがあります。さらに、これを防がれたことにムカついた穴穂部皇子は、亡き敏達天皇の寵臣を殺害している過去があるのです。そのため、朝廷内での評判は良くなかったことでしょう。ちなみに襲おうとした炊屋姫はかなりの美人だったようです・・・。

物部守屋は、穴穂部皇子を討たれたことで後ろ盾を失います。用明天皇死後、たった2ヶ月で物部守屋は窮地に立たされたことになります。

物部守屋、滅ぶ

587年7月、穴穂部皇子を討った蘇我馬子は次の標的を宿敵の物部守屋に定めます。蘇我馬子は、物部守屋邸に兵を派遣しました。

当時の情勢は、多くの者が蘇我馬子・泊瀬部皇子側に加戦し、物部守屋側が圧倒的に不利の立場でした。もはや穴穂部皇子という後ろ盾を失った物部守屋に勝つ見込みはありませんでした。

しかし、劣勢とはいえ物部守屋は代々軍事や警備を担当していきた一族です。簡単にはやられません。木の上から雨のように矢を注ぎ、馬子軍に大きな打撃を与えます。馬子は一時撤退を余儀なくされました。一進一退の攻防が続く中、戦況が大きく動きます。前線で戦っていた物部守屋が弓矢で射貫かれてしまったのです。これが勝敗の分かれ目でした。総大将を失った物部軍は敗北し、兵たちは雲散霧消してしまいます。

用明天皇崩御後、たった3ヶ月で穴穂部皇子・物部守屋勢力は敗北し、蘇我馬子は587年8月、擁立していた泊瀬部皇子を即位させます。崇峻(すしゅん)天皇の登場です。

まとめ

物部守屋の没落により、朝廷内の政治勢力は蘇我氏一強の様相を呈してきます。この事件以後の日本の政治は、645年の蘇我氏排斥事件「乙巳の変」が起こるまでの間、天皇と蘇我氏の微妙なパワーバランスの下行われることになります。

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