平将門の乱をわかりやすく丁寧に説明してみる【平家の家族喧嘩】1/3

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いきなりですが、平将門(たいらのまさかど)って知ってますか?

平将門は、平安時代に今でいう関東一帯で超大規模な反乱を起こした武士です。

平将門の凄いところは、「私が関東一帯の支配者になる。(俺が関東の支配する天皇になる)」と宣言したこと。日本の歴史の中で、「別の天皇を擁立してやるぞ!」というクーデターはあっても、「俺が天皇になる!」とクーデターを起こす事例はほとんどありません。(これは日本が血統を超重要視しているから。)

平将門は、おそらく本人は意図してなかったと思いますが、「俺が天皇だ!」と公に言ってしまいました。これは日本にとってとても画期的なことでした。

結局、乱は鎮圧されてしまうのですが、後世の武士たちは、平将門の話を聞き、「鎮圧はされたものの、武士だって『天皇になる!』と言って朝廷をおびえさせるほどの力を持っていることがわかった。それなら、もっと自分たちの権利・意思を尊重しても良いはずだ!」と思ったはずです。

という感じで、平将門はその後の武士たちの行動や考え方にとても強い影響を与えます。後世の武士たちの背中を強く後押ししたというわけです。鎌倉時代の源家、そして江戸時代の徳川家の人たちも、平将門を初代武士の代表格として重要視していました。

また、平将門は日本3大怨霊としても有名で、東京都千代田区には将門の首塚が今も残っており、霊地として有名です。さらに、アニメ「ラブライブ」に登場する神田神社。この神社も平将門が祀られている神社になります。怨霊となったり祀られたりと、将門の存在が、その死後も強いインパクトを与えていたことがうかがえます。

武士という職種の生い立ちを知るには平将門の存在を知ることが不可欠なのです。

では、平将門の乱について見ていきます。時代は930年~940年ぐらいのお話です。

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 平家一門の親族同士の戦い

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上の図は、平将門の家系図。(関係がわからなくなったら上の図で確認しましょう)

一番上の「平高望(たいらのたかもち)」は、昔に関東での大反乱を鎮圧し、平家の名前を世間に轟かせた平家の祖とも言える超凄い人。

さらに、平高望は桓武天皇の血を引いています桓武天皇からは第3世代になります。この天皇からの血筋も、平家が力を持つようになった1つの要因です。

平高望には5人の息子がいました。国香、良兼、良持、良正、良文です。それぞれが関東に領土を持っていました。平将門は、良持の子です。

ちなみに、国香は、平清盛のご先祖様になります。

良持の早死、狙われる遺領

平高望の5人兄弟の中で、将門のお父さんである良持が早く亡くなります。

本来、父が亡くなれば、その遺産は良持の長男だった将門に与えられます。しかし、平高望の5人兄弟のうち、国香、良兼、良正の3人は、良持の遺領を将門から奪おうと企みます。

ここに、将門と叔父たちとの間に争いの火種が1つ生まれました

将門の妻をめぐる良兼との争い

もう1つ問題がありました。将門の妻です。

将門は、良兼の娘を妻としましたが、これに良兼が反対。(なぜ反対したのかは、よくわかっていません。次に出てくる源護の息子に嫁がせたいと思っていたのかもしれません。)

ここにもう1つの争いの火種が生まれました。

裏で糸を引く源護(みなもとのまもる)

さらに事態は複雑化します。

上の図には載っていませんが、国香、良兼、良正の妻はすべて源護という人物を娘でした。つまり、国香、良兼、良正と源護は血縁で結ばれ、共闘関係にありました。

この源護が、将門との対立に関して暗躍していたようです。(なぜなら、源護の娘を娶っていない良文だけは、将門と対立姿勢を取っていないからです。

侮辱されたら実力行使だ!-武士道の精神-

武士たちは、名誉を傷つけられることをひどく嫌い、合戦で白黒をはっきりさせることを好みました。

良持の遺領を巡る対立や、将門の嫁問題を通じて、将門VS国香・良兼・良正の構図が生まれ、合戦が起こるのも時間の問題だったのです。

将門「襲われたらやり返す。勢いあまって国香滅ぼしたわww」

935年、遂に戦いが起こります。仕掛けたのは、源護と平国香。将門を待ち伏せして襲撃しました。

が、襲撃は失敗。逆に将門が源護と平国香を追い詰めます。将門は、逆襲で国香の館まで侵入し、叔父の国香を滅ぼします。死因は、焼死でした。

国香は、平家一門の最年長者であり、平家一族の族長でした。その人物を将門は逆襲によって滅ぼしてしまいます。恐るべし将門・・・。

父の死にも冷静沈着な平貞盛(平清盛のご先祖様)

国香の息子である貞盛は、平安京で父の死について報告を受け、急きょ関東へ駆けつけます。

この時代、「刺し違えてでも復讐すべし!」という風潮が強かったのですが、貞盛は非常に冷静沈着でした。

貞盛は、将門の元に駆けつけ、すぐに「亡き父の土地を奪わないでくれ!」と和睦を持ち掛けます。貞盛は、平安京で官職を得ていたので、親族争いで平安京を空けることで、自分の官位に影響がでるのを嫌ったのです。復讐よりも自分の出世を重要視したということです。

将門の知略。朝廷を味方にする。

国香を滅ぼした次の年の936年。国香の恨み!と言わんばかりに、良兼、良正が大軍勢を率いて、将門に攻め入ってきます。

詳しい行動や戦術はわかりませんが、とにかく将門は強い!!これを迎え撃ち、将門は、良兼・良正らを撃退。

ここで面白いのは、将門はあえて良兼・良正らに逃げ道を与えて逃亡させたことです。

将門は、「攻められたから、やむを得ず追い返した。悪いのは良兼・良正であり、朝廷にその悪事を訴えてやる!」と、戦いを裁判の場へと移し替えていきます。

当時、朝廷のお墨付きをもらうことは、自分の侵略行為に大義名分を与えるため、とても重要なことだったからです。

朝廷裁判での逆転勝利

実は、裏では将門VS良兼・良正(+源護)の間で裁判合戦が行われていました。

きっかけは、最初に説明した935年、将門が「攻められたからやり返したら、国香滅びちゃったわwwwww」と国香を滅ぼしてしまったとき。

良兼・良正は、これを朝廷に訴えていました。将門は不利な立場。

この不利な立場をくつがえすため、936年に良兼・良正が将門に攻め入っていたのをうまく利用することにします。だからこそ、将門は有利な状況だったにも関わらず、あえて良兼・良正を逃がしたのです。ここでこの2人を滅ぼしては、朝廷への心証をさらに悪くしてしまうからです。

結果、将門は軽い罪だけで済み、逆に捕まったことで将門の武勇伝が朝廷内に広がり、将門は有名人となりました。

良兼の死、将門の完全勝利へ

結局、朝廷での訴えの後も、小競り合いが続きますが、938年良兼が病死することで将門の完全勝利に終わります。

将門・国香・良兼・良正と平家一門はそれぞれ関東に広い領土を持っていました。つまり、今まで説明した平家一門の争いは、関東全土を巻き込んだ壮大な私闘だったわけです。

将門は、この戦いに勝利し、関東一体に強大な力を持つようになりました。

この強大な力が、将門が意図しないうちに天皇への謀反(教科書的に言うと平将門の乱)とみなされてしまいます。詳しい話は次回へ続きます!

次:平将門の乱をわかりやすく丁寧に説明してみる【受領との争い】2/3

前:日本刀の由来・起源をわかりやすく【武士と騎馬戦を知る】

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コメント

  1. ほほ より:

    誤字が多いので修正してください。
    色々ありましたが、始めの「関東一体」には驚きました。「関東一帯」ですよね…?

    • mogutaro より:

      ほほ 様

      ご指摘ありがとうございます。誤字・脱字が多い点については大変申し訳ございませんでした。
      誤字脱字が多い点は認識しており、適宜修正しておりましたが、不完全でした。ご指摘いただいた点や他の部分については修正をしました。
      至らぬ点は多々あるものと思いますが、引き続き当サイトの運営に努めて参ります。