難波宮への遷都。古代日本人はなぜ遷都を繰り返すのか

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乙巳の変により皇極天皇は、日本史上初の譲位を実施。軽皇子が孝徳天皇として即位することとなります。

その後、孝徳天皇は飛鳥にあった都から難波宮(なにわのみや)へと遷都します。

今回は、大化の改新による政治改革の1つとして難波宮への遷都について取り上げようと思いますが、その前に、そもそもなぜ日本人は都を頻繁に変えたのか?という点について触れたいと思います。

日本人が作った都は平安京や平城京だけではありません。数多くの都が作られました。

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都は天皇が神々から地上の支配を委託された場所

日本は中国の天子思想の影響を受け、日本独自の天子思想を築き上げていきました。天子思想については、以下の記事を参考にどうぞ。

前回は雄略天皇の話をしました。雄略天皇は、武力を背景に倭国を統一しつつありました。時代は進み、500年~60...

日本独自の天子思想の下、当時の日本では次のような流れで天皇即位の手続が行われたと考えられています。

(1)群臣からの擁立

(2)即位式(壇を作り、その上で天にいる神から地上の支配の委託を受ける。)

(3)壇を設けた場所に都を造る

(2)は、西洋でいう王権神授説に近いものがあります。

前回説明した「譲位」という制度がなかった時代、天皇になるには天の神からの委託を受けなければなりませんでした。

そして、委託をうけた神聖なるその土地に天皇が住む都を作るのが通常の流れでした。

つまり、天皇は、代替わりごとに都を定めなければならなかったのです(前天皇と同じ土地で即位する場合もある)。

推古天皇による小墾田宮(おはりだのみや)の建設

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(小墾田宮のイメージ図)

難波宮の説明をする前に、推古天皇が建設した小墾田宮(おはりだのみや)についてちょっとだけ説明したいと思います。(完璧な余談ですが・・・)

603年、推古天皇は即位した豊浦宮(とゆらのみや)から小墾田宮(おはりだのみや)へ遷都しました。場所は、現代でいう奈良県の明日香村。豊浦宮も小墾田宮も同じ現在の明日香村に位置しています。

これは、600年に派遣した遣隋使たちがフルボッコにされ、日本では新しい国づくりをしなければ!と大忙しだった時期に相当します。(詳細は聖徳太子物語第3話

小墾田宮は建設のタイミング的に、600年に行われた遣隋使の派遣の際に、隋の都を参考にしながら建設されてたものと考えられています。

朝廷(庭)の創設

小墾田宮は隋を真似て作った、天皇を主役とした政治と儀礼の場です。その中心となるのが朝庭です。上図でいうと真ん中の広場ですね。

官僚たちは、毎朝、朝庭に来て大殿(大極殿)にいる天皇に向かって謁見しなければなりませんでした。

よく時代劇などで耳にする「朝廷」という言葉。その起源は、実は「朝庭」だったんです。時代が進むにつれ、次第に庭は朝堂院という建物に代わっていき「朝庭」ではなく、「朝廷」という言葉が出来上がっていったのです。

臣下が天子と謁見する際、必ず天子は南側を向き、臣下と対面しなければなりませんでした。これは中国の天子思想に由来するものです。余談ですが、天子が南を向くと必ず北側が背中になりますよね?「背」という字に北という文字が入っている理由は、この天子南面思想だと言われています。

そのような場を創出したのが、小墾田宮だったのです。隋にフルボッコにされた反省を見事に生かした都と言えます。

超巨大な難波宮

さて、話を孝徳天皇の難波宮に戻します。

孝徳天皇も天皇の代替わりにあたり、新たな都の建設を計画します。難波宮です。難波宮は、現在の難波宮跡公園の位置にありました。発掘の結果、巨大な都であることが判明しています

どれぐらい大きいかと言うと、この記事のトップの写真があの有名な平城京の大極殿(天皇が居るところ)ですが、これよりもさらに大きい大極殿が難波宮に建設されていたことがわかっています。あの平城京を上回るものですから相当な大きさですよね。

なぜ巨大なのか

難波宮はそれまでの都と比べ、突出した大きさを誇っていました。

なぜ巨大な都を作る必要があったのか?

蘇我氏の没落により、日本を隋のような中央集権国家へと推し進めることが可能となりましたが、それに先立ち、天皇の権力・権威を具現化した形で人々に知らしめようとしたのです。難波宮の建設は、聖徳太子の頃から続けられていた天皇を中心とした国づくりをさらに推し進めるための象徴として建設されたというわけです。


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