坂上田村麻呂とアテルイを超わかりやすく説明【アテルイ無双】2/2

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前回(坂上田村麻呂とアテルイを超わかりやすく説明してみた【アテルイ登場まで】1/2)は、780年に起こった伊治呰麻呂の乱をきっかけに蝦夷との30年戦争へ突入していくという話でした。

 

伊治呰麻呂の乱は鎮圧されましたが、その後もゲリラ的な蝦夷の交戦が止まず、対蝦夷戦争は泥沼戦の様相を呈してきます。

 

そして、789年、桓武天皇はこのゲリラ的な反抗を阻止するため、紀古佐美(きのこさみ)を大将軍として軍隊を派遣します。

 

そこに立ちはだかるのが、蝦夷軍の総大将であるアテルイでした。

※アテルイは、漢字で阿弖流為と書きますが難しいのでカタカナ表記で話を進めます。

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巣伏の戦い -アテルイ強すぎで無双状態-

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文字だけだと説明しにくいので、図を描いてみました。汚いけど(汗

 

紀古佐美軍:約10,000人
アテルイ軍:約1,000人

 

紀古佐美軍の方が圧倒的有利です。戦力差は約10倍。しかし、結論から言うとアテルイが大勝利を収めます。

 

なぜ戦力的に圧倒的に不利なアテルイが勝利できたのか?それを上の汚い図を使いながら説明していきます。

 

 紀古佐美、胆沢城を目指す

紀古佐美は、多賀城でしばらく敵の様子を見ていましたが、京にいる桓武天皇から

 

「とっとと東北を攻めんかー!!」と発破をかけられていました。

 

京ではちょうど平城京からの遷都を計画していたところであり、東北遠征が長引けば民が疲弊し、遷都にも重大な影響を及ぼすため、早期に決着を付けたかったのだと思います。

 

アテルイは胆沢(現在の岩手県奥州市)を拠点としており、紀古佐美は、一万の軍を

先発隊6、000
中軍・後軍4、000

 

に分け胆沢めがけて進軍します。ルートとしては、多賀城から北上し、北上川を東へ渡る必要があります。

 

中・後軍に先に北上川を渡らせ、上図の①のように移動しました。

アテルイ軍の奇襲

アテルイ軍は北上川を渡った4、000の兵に対して、

 

な、なんとたった300の兵で勝負を挑みます。

 

ただし、300とはいえ地の利を生かしたゲリラ戦です。少数とはいえ結構強かったんじゃないか?と個人的には思っています。

 

この時のアテルイの目的は勝利ではなく、敵を北におびきよせること。300の兵は奇襲を仕掛けたものの、紀古佐美の圧倒的軍事力の前に後退し始めます。これもアテルイの予定通りの動きです。

 

そして、対岸にいる先発隊6、000と並ぶ程度まで紀古佐美の中・後軍をおびきよせたところで、アテルイは仕掛けます。

 

ここからの展開が、アテルイの凄いところ!

アテルイの作戦は机上では理にかなっていますが、それを10倍の戦力差の中で大成功に収めてしまうあたりに神がかった何かを感じさせます!

アテルイ軍反撃!

紀古佐美は、中・後軍が先発隊と追いついたところで、対岸の先発隊に北上川を東へ渡らせ、援軍を送ろうとしますが、アテルイ軍は対岸への上陸を阻止。

 

瞬間的かつ地の利もあるとはいえ、300VS10、000とか正気の沙汰じゃないぞ・・・。wikipediaでは普通に書いてあるけど、正直どうやって上陸を阻止したのか全く想像できない。凄すぎる・・・。

 

ここが勝負どころと見たアテルイは、さらに伏兵800を紀古佐美の中・後軍4、000と先発隊6、000の阻止のため投入します。

 

アテルイの目的は、挟撃でした。300+800=1、100の兵力で敵軍4、000の進攻阻止と敵先発隊6、000の合流阻止とを神業的にやってのけた後、紀古佐美の中・後軍の背後から400の兵で奇襲を仕掛けます。

 

これで勝敗が決しました。北、南、東にはアテルイ軍。西は北上川包囲網の完成です。

 

おまけにアテルイ率いる蝦夷軍はゲリラ戦術を採っています。紀古佐美の立場に立てば、いつ奇襲があるかわからない不安と恐怖もあったでしょう。

 

これに耐えかねた紀古佐美は、撤退します。が、逃げ道は北上川しかありません。撤退の際には、多くの者が川に流され命を失ったそうです・・・。

 

4、000人の敗北を対岸で見ていた先発隊も敗走している姿を見て、併せて敗走していきます。

 

アテルイ軍1、500人VS紀古佐美軍10,000人はアテルイ軍の圧倒的勝利に終わります

 

世界的に有名なハンニバルやアレキサンダーという名将も、いかに敵を包囲するかに重点を置いていました。包囲が完成した時点で、戦力差はあまり関係なくなるらしいです。

 

アテルイがハンニバルやアレキサンダーを知っているはずはありませんが、アテルイの発想や行動は、これらの名将そのものでした。すごい!

 

日本古代史上、最も頭脳明晰だった武将がアテルイなんじゃないかなぁと私は思っています。

 

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坂上田村麻呂の登場!

紀古佐美の大敗北で白羽の矢が立ったのが、坂上田村麻呂。巣伏の乱から3年後の792年、副大将として東北へ向かいます。

 

坂上田村麻呂は、アテルイの強さを知り、アテルイとの正面衝突を避け、近隣の蝦夷の懐柔に力を入れました。蝦夷に最新の農業技術を伝え、さらに仏教までをも伝えていたのではないかという説さえあります。

 

さらに、坂上田村麻呂には人に好かれるカリスマ性があったと言われています。

 

田村麻呂の伝記が残っているのですが、その中で「怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」と言われており、敵である蝦夷の中にも坂上田村麻呂は信用できるぞ!と思うものも次第に増えてきました。

 

797年、坂上田村麻呂は桓武天皇から征夷大将軍に任じられ、東北制圧の総大将にまでなります。

 

802年、蝦夷の懐柔策がある程度成功したところで、田村麻呂遂に本格的な制圧に向けて本格的に動きます。

 

それが、胆沢城の築城です。胆沢はアテルイの本拠地。胆沢の実効支配を目指していることを胆沢地方にいるアテルイ軍に堂々と知らしめたのです。

 

坂上田村麻呂は、武力が優れていることで有名でしたが、実際には、智謀にも長け、蝦夷の懐柔政策と胆沢城築城で力だけではなく精神的にアテルイを負かすことを考えていたようです。

 

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アテルイ、心が折れる

自分の本拠地の目の前で城が建てられていく様子を目の当たりにしたアテルイ。さらには圧倒的な政府軍の規模に加え、日々少しずつ政府軍に懐柔されていく仲間たち。

 

築城を開始した翌年の802年、アテルイは500人の兵の連れて、坂上田村麻呂の前で降伏をします。

 

アテルイは何をきかっけに降伏したのか?実はよくわかっていません。さらに、802年の降伏までに坂上田村麻呂とアテルイは、幾度か刃を交えているはずですが、その経過もわかっていません。アテルイについて記載されている文献が少ないのが原因です。

 

かなり熱い戦いを繰り広げたのではないか?と思うのですが、実際はどうだったのか・・・。

 

一つだけわかることは、坂上田村麻呂がアテルイのことを敵ながら優秀で人望のある人物であると認めていたことです。

 

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アテルイの最後

坂上田村麻呂は、同年の802年、降伏したアテルイを連れて平安京に戻ります。(既に平城京から平安京へ遷都していた!)

 

平安京の貴族たちは、アテルイに対して処刑を宣告します。

 

が、坂上田村麻呂は反対します。

アテルイは、蝦夷たちも信頼されており、大変優秀な人物である。今後の東北地方の運営はアテルイに任せるべきである。

 

しかし、坂上田村麻呂の願いも虚しくアテルイの命は尽きることとなりました。

 

田村麻呂の懇願は、良きライバルであったアテルイを助けたい!という個人的な想いだけではなく、約10年間、ひたすら蝦夷と向かい合ってきた田村麻呂が導き出した「蝦夷のことは蝦夷で統治すべし」という考えがありました。

 

アテルイを野に放てば、再び乱を起こす可能性はもちろんありますが、アテルイが東北を運営していけば、多くの蝦夷も納得して政府に従ってくれるし、民に負担を強いる軍隊の派遣や強制的な移民も不要になります。

 

田村麻呂は、アテルイが信頼できる人物と見抜き、また、平安京遷都の後遺症と長引く蝦夷遠征で疲弊する民の存在を念頭にアテルイを助けるよう懇願したのです。

 

アテルイは、日本にとって敵か味方か?と言われれば「敵」になるのかもしれませんが、東北地方を支えた偉大な人物であることに変わりはありません。東北地方に縁のある方は、こんな人物が東北にいた!ということを頭の片隅にでも覚えていただければとてもうれしいです!(というか、東北では有名なのかな?)

 

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その後の東北事情

アテルイの処刑は、蝦夷との徹底抗戦を意味します。朝廷としても引き続き軍を派遣しますが、朝廷は次第に財政難に陥り、東北平定は曖昧で不安定な状況のまま放置され結末を迎えます。

 

そのため、蝦夷たちは滅亡したわけではなく、朝廷に服従するものもいれば、反抗を続けるものもいてその後も存在し続けます。

 

これら蝦夷たちは、その後の日本に大きな大きなほんとうに大きな影響を与えていきます。

 

それは、「武士」の登場です。馬に乗り、日本刀を持って戦う姿。それは蝦夷たちの戦闘スタイルを模倣したものと言われています。武士の原点には蝦夷の存在があるのです。

この辺りは、源平合戦の話をするときに再び書こうと思ってます!覚えていれば(汗

 

こうして、東北平定への長い長い第一歩が踏み出されたのでした。

 

桓武天皇の「平安京遷都」と「東北平定」の2大事業のうち、「東北平定」は未完のまま終わったことなります。

 

次回は、再び平安京に目を移して、桓武天皇亡き後の天皇たちの終わらぬ皇位継承争いについて見ていきます。

 

皇位継承を取り巻く争いを解決することは、飛鳥時代から続く日本の最重要課題ですが、壬申の乱のような大戦はなくなったものの、平安時代になってもなかなか解決に至りません。皇位継承問題が上手く(?)解決されるようになるには藤原氏による摂関政治を待たねばなりません。

 

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この記事を書いた人
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コメント

  1. カワムラ より:

    通訳案内士の勉強をしていて、薬子の変を検索したらたどり着きました。本当にわかりやすく、情景が浮かんでくるので頭にバンバン入ってきます。
    今後も拝見させていただきます!ありがとうございます!

    • もぐたろう mogutaro より:

      当サイトをご覧いただきまして、ありがとうございます。
      日本史の面白さを発信できるよう、引き続き素人なりに当サイトを運営していくつもりですので、
      また何かありましたら、ぜひ当サイトをご覧ください!