一条天皇と藤原道長の関係をわかりやすく【彰子と定子】

前回の記事では一帝二后で有名な一条天皇の2人の正妻、藤原定子と藤原彰子のお話をしました。

前回の記事 前回の記事では、藤原道長の話をしました。そして、最後に藤原道長が圧倒的な権力を手に入れるこ...

今回は、視点を少し変えて、一条天皇と藤原道長の関係について解説してみようと思います。

一条天皇と藤原道長の関係

実は一条天皇と藤原道長の関係については、今でもはっきりしたことがわかっていません。(人によって意見が分かれている。)なので断言的なことはあまり書けませんが、憶測や通説を交えながら説明をしてみようと思います。

一条天皇の苦渋の選択 ー藤原道長の内覧宣旨ー

一条天皇と藤原道長の関係を探る最初のイベントは、995年、藤原道長の内覧宣旨(ないらんせんじ。内覧を許す旨の天皇からの文書)です。

内覧って何?という方は、まずは以下の記事をご覧ください。

【藤原道長】 藤原道長は、平安時代中期に天皇の外戚という立場を利用し、最高権力者として権勢を振るった人物です。平安時代...

関白を巡る対立 ー道長VS伊周ー

995年当時、前関白である藤原道兼という人物が亡くなったため、次の関白を誰にするのかが朝廷内で問題になっていました。当時の候補は、藤原道長と藤原伊周(これちか)で2人は関白の座を巡り対立関係にありました。

一条天皇との関係は、道長は叔父、伊周は従兄弟の関係でした。(詳しくは下図を参考にしてください。前の記事の使い回しですが・・・)

関白は、天皇の補佐役ですから、一条天皇もどちらを関白にすべきか悩んでいました。なぜ悩むかというと、2人とも関白としては問題があったからです。

伊周は当時22歳、内大臣という役職で父も摂関職の経験者だったので次期関白の有力候補なのですが、その人柄・資質に問題がありました。一方の道長は30歳、伊周より年上ですが、大納言という役職で伊周の内大臣よりも下の役職でした。摂関職は、大臣級の人物がなることが通例だったので、そもそも道長にはその資格がありませんでした。

一条天皇の母、藤原詮子

一条天皇がどちらを関白にしようか悩んでいる時、猛烈に道長推しをする人物がいました。それが、一条天皇の母である藤原詮子(せんし)という人物です。詮子は、道長とは兄弟で姉と弟の関係でした。詮子は、道長のことが大好きだったようで、一条天皇、つまり息子に道長を関白にするよう強く斡旋をしました。

詮子は、一条天皇の母として政治に頻繁に口出しをしていたようで、当時のとある貴族の日記にも「母は政治介入しすぎ!」という内容が残されています。そんな強い詮子の要望もあり、次期関白は藤原道長に決定しました。

当時、道長は大納言で関白にはなれなかったので、関白の持つ権限のうち内覧という強力な権限のみを道長に与えたのです。

こうして一条天皇と藤原道長の長い長い関係が始まるわけですが、何とも微妙な始まり方です。最終的に詮子の圧力で道長に決まったので、あまり一条天皇の意向が見えてきません。少なくとも「母の圧力で決められてしまった」という想いは一条天皇にあったかもしれません。

道長と伊周の話は次の記事で詳しく紹介しているので、知りたい方はどうぞ〜

今回は、長徳の変という事件について説明します。この事件の意義は、長徳の変によって藤原道長のライバルだった藤原伊周が没落したこ...

一条天皇と藤原道長の政治

一条天皇の治世は優秀な人物を多く輩出し、「枕草子」や「源氏物語」といった朝廷文学も栄えた時代であり、評判の良い時代でした。歴史を学ぶ上で、一条天皇が悪く言われることは滅多にないですし、むしろ名君や賢帝なんて呼ばれることが多いです。

一条天皇の治世が良き時代となった最大の理由は何か?私は、一条天皇の絶妙な政治的バランス感覚にあると思っています。絶大な権力を誇った藤原道長に屈することも対立することもなく、うまい具合に二人三脚で政治を行うことができていたようです。(とは言ってもこれは表面的な話で、一条天皇が内心どう考えていたかはわかりません)

自ら政策立案する一条天皇

999年、内裏(天皇の住居)で火災があり、内裏再建計画が立てられました。朝廷内では、一条天皇の命により陣定(じんのさだめ)という会議が開かれ、倹約・賄賂の禁止・贅沢禁止・神事・仏事の円滑な運営などについて決まりごとが作られました。

そして、この翌年(1000年)、藤原行成という貴族の日記に一条天皇がこんなぼやきをした記録が残されています。

一条天皇「前年に新しいルールを作ったけど、取り締まりが緩すぎてみんな守ってくれない。これは検非違使(けびいし。今でいう警察)が手を抜いているからだ!」

この話を受け、検非違使の代表者は新たに取締り案を天皇に提示し、裁可を求めました。999年のルール作りがどのように行われたのかは不明ですが、ルールがうまく機能していないことを一条天皇が嘆いている様子から、少なくとも天皇が自ら主体性を持って政治運営をしようという強い意思を感じることができます。道長に逆らえずに動いてるだけでは?とも思いますが、綱紀粛正の内容について、そのようなことは考えにくいのかなと私は思います。

藤原道長を頼る一条天皇

自ら積極的に政治に関わる一方で、藤原道長を信頼している様子も伺うことができます。

当時の官職の人事は、毎年、天皇の前で高官たちが集まって決定することになっていましたが、1005年、藤原道長は「思うところがあって今年の人事会議は辞退したい。他の人たちで決めていただきたい。」と一条天皇に話をしました。

ところが、一条天皇は道長の要望を拒否します。「人事会議には必ず参加してもらわないと困る。もし道長が来ないのなら、来れるようになるまで会議は行わない」と。

一条天皇には、どうやら道長の人事について相当に信頼していた節があります。道長は絶大な権力を持っていたため、変なしがらみがなかったのかもしれません。

一条天皇は究極の調整能力を持つ男

こんな感じで、一条天皇と道長の関係はお互いに一辺倒の関係ではなかったようです。

繰り返しですが、道長とこのような関係を築けたのは、一条天皇の優れた政治的バランス感覚にあると私は思っています。そして、政治的バランス感覚とは、つまりは人間に対する深い洞察力とも言えると思います。

一条天皇は、他人が思っていること・考えていること・感じていることを敏感にキャッチし、「どうすれば、事が穏便に運ぶのか?」を考えるプロだったのだと私は考えています。まさに今でいう政治家に求められる能力ですね。

こう考えると、前回の記事で紹介した、藤原定子と藤原彰子との微妙な関係性にも納得できるし、政略婚とはいえお互いに愛情を感じていたことも納得できます。(なぜなら、空気を読むのがうまい人はモテる!!)

前回の記事 前回の記事では、藤原道長の話をしました。そして、最後に藤原道長が圧倒的な権力を手に入れるこ...

一条天皇の影の功労者 〜藤原行成〜

そんな一条天皇の非常に困難な政治的調整を影から強く支えた人物がいます。それが藤原行成という人物です。

続きは次回の記事へ・・・

一条天皇と藤原道長の関係の中で一番、興味深いのは前回の記事でも説明したように定子の子と彰子の子、どちらを天皇にするか?という議論でしょう。

定子の子を天皇にしたい一条天皇と彰子の子を天皇にしたい藤原道長、トップクラス級の困難度を持つこの問題。解決するために暗躍してくれたのが藤原行成でした。

一応、三后の話をしている途中のつもりなのですが、少し横道に逸れて次回は一条天皇の活躍を支えた影の功労者である藤原行成について話をしようと思います。三蹟で有名な人物ですが、かなり興味深い人物だったのであえて紹介してみることにします。

【次回】

藤原道長が生きていた平安時代中期の貴族の時代。この時代は、「貴族たちの日記」という超貴重な史料がたくさん残っているため、現代...

【前回】

前回の記事 前回の記事では、藤原道長の話をしました。そして、最後に藤原道長が圧倒的な権力を手に入れるこ...

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