【高校生向け】縄文時代の文化・生活を簡単にわかりやすく解説【完全まとめ版】

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もぐたろう
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今回は、縄文じょうもん時代の日本の文化・人々の生活について、わかりやすく丁寧に解説していくね!

この記事を読んでわかること
  • 縄文時代ってどんな時代なの?
  • 縄文時代の日本はどんな様子だったの?
  • 縄文時代の日本人はどんな生活・文化をしていたの?
  • 縄文時代はどうやって終わったの?
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縄文時代とは

縄文時代とは、今から約1万6000年前から弥生時代が始まるまでの約1万年弱の時代のことを言います。

旧石器時代の日本人は、ナウマンゾウなどの大型動物を主食としていて、獲物を追いかけて移動しながら生活をしていました。

・・・ところが、今から1万6000年ぐらい前になると人々の生活スタイルに変化が見られます。

釣りをして魚や貝を食べたり、植物を採集したり、小・中型動物を狩ったりと、いろんな物を食べるようになったのです。

いろんな食べ物を食べるようになると、それに合わせた新しい調理器具が発明されるようになり、そこで登場したのが縄文土器でした。

この縄文土器が使われていた時代のことを、歴史の上で縄文時代と呼んでいます。

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縄文時代の日本の様子

縄文土器が使われるようになっても、しばらくの間は、人々の生活が劇的に変わることはありませんでした。

・・・が、今から約1万年前、日本列島の様子が大きく変わります。何が起きたのかというと、地球の温暖化が一気に進んだのです。

この地球温暖化は、日本の様子を一変させました。

日本各地に広がっていた針葉樹林しんようじゅりんが姿を消して、その代わりに広葉樹林こうようじゅりんが広がるようになり、

ナウマンゾウなどの大型動物が絶滅して、ニホンジカ・イノシシなどの小・中型動物が増えるようになりました。

生物のまめ知識

植物も動物も、それぞれ寒冷地に強い生き物、温暖な気候に強い生き物がいます。

寒冷地では寒さ・乾燥から身を守るため葉が小さい植物が有利だけど、暖かい地域では栄養をたくさん集められる大きい葉っぱの植物がよく育つようになります。

動物の場合、寒冷地では体温が下がらないよう体が大型化する傾向にあり、暖かい地域になると逆に小型化していく傾向があります。

また、温暖化で海水面が上昇したため、日本列島はアジア大陸から完全に切り離されて今みたいな形になって、良好な漁場にも恵まれるようになりました。

日本列島

広がる広葉樹林は、人々に木の実などの自然の恵みを提供し、海水面の上昇は良好な漁場を人々に与えてくれました。

さらに小・中型動物が増えると狩りの方法も代わり、食が多様化したことで動物を追いかけて移動生活を送る必要もなくなりました。

こんな感じで、土器自体が使われるようになったのは約1万6000年前ですが、人々がTHE縄文時代といえる生活スタイルを完成させたのは、温暖化が進んで豊富な自然に恵まれるようになった約一万年前の出来事だったと言われています。

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縄文人の生活

旧石器時代、人々の主食は肉でしたが、縄文時代になると食の多様化が進みました。

もともと主食だった肉に加えて、

ドングリやトチノミなどの木の実

豆類やヤマイモなどの根菜

魚や貝などの水産物

などなどいろんなものを食べるようになったのです。

食べるものが変わると人々の生活も大きく変わりました。

まず、大型動物を追って移動する必要がなくなりました。

なぜなら、近くにある森や海に行けば食料を確保できるようになったからです。

そして、同じ場所に住み続けるようになると、人々はちゃんとした家を欲しくなります。

縄文人
縄文人

今まではどうせ長く住まないからショボい家でも良かったけど、ずっと住むならちゃんとした家が欲しい!!

ってことで地面に穴を掘って、木で骨組みを組み立て、植物で屋根を覆った竪穴式住居たてあなしきじゅうきょという家がブームとなりました。

一つの竪穴式住居には5人くらいが生活していて、人々はいくつも竪穴式住居を建てて、だいたい20〜30人くらいで集団生活をしていました。

同じ場所にいろんな人が住むようになると、近所迷惑にならないよういろんなルールができました。

今でいうゴミ捨てのルールみたいなものもあったようで、遺跡からゴミ捨て場の跡がたくさん見つかり、これを貝塚かいづかと名付けることとしました。

※貝塚のネーミングは、ゴミ捨て場の跡地に腐らずに残った貝殻が大量に山積していたことに由来します。

考古学発祥の地「大森貝塚」

日本で一番最初に発見されたのは、大森貝塚おおもりかいづかという貝塚でした。場所は、今でいう東京都の品川区あたり。

発見されたのは1877年(明治10年)で、発見したのは、動物学の研究のため日本にやってきたモースという研究者でした。

モースは、電車の車窓から景色を見ていたところ、貝殻がたくさんある怪しい地層を発見。

モース
モース

むむっ!あの地層はもしや貝塚では!?

・・・調査の結果、モースの予想は的中し、大森貝塚が縄文時代の貝塚であることがわかったのです。

もぐたろう
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貝塚に残っている残骸は、縄文時代に生きていた動植物や人々の生活を知る貴重な手がかりとなるので、考古学的にとても大事な遺跡なんだ。

当時の日本では、考古学はほとんど行われていませんでしたが、モースの発見をきっかけに、日本でも考古学の研究が本格的に行われることになりました。

そのため、大森貝塚は日本の考古学発祥の地とされていて、その跡地には今も石碑が立っています。

品川区にある大森貝塚の石碑
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縄文土器と磨製石器

食事や住まいが変わると、人々が使っていた道具にも変化が見られます。

その代表的なものが、縄文土器磨製石器です。

温暖化によって豊富に収穫できるようになった木の実には、ドングリのように灰汁あく抜きをしないと食べれないものが多くありました。

灰汁抜きには熱湯が必要なため、大きくて深さもあって熱に耐えられる容器が必要となり、縄文土器が登場しました。

縄文土器の登場によって、「焼く」だけだった調理方法に「煮る」という方法が加わり、そのおかげで灰汁が強い木の実や植物を食べることができるようになりました。

縄文土器の中でも独特な造形で有名な火焔土器

さらに、主食として木の実や豆・ヤマイモが食べられるようになると、これまで使われていた打製石器ではいろいろと不都合が出てきました。

というのも、植物を刈り取ったり魚の皮を剥いだりする頻度が増えると、もっと切れ味がよくて刃こぼれしにくい刃物が必要になったからです。

打製石器は石をうまく打ち砕いて、石の先端や側面を鋭くしたものでしたが、縄文時代になるとこれに改良が加えられます。

石を打ち砕いた後、刃になる部分を研磨することで切れ味と耐久性をUPさせたのです。

この打製石器を研磨してパワーアップさせた石器のことを磨製石器ませいせっきと言います。

磨製石器。研磨して表面が滑らかになっているのが特徴(出典:wikipediacommons

縄文土器と磨製石器は、今でいう鍋や包丁みたいに生活の必須アイテムで、遺跡からもたくさん見つかっているので、縄文時代の代名詞的なアイテムとなっています。

もう少し細かい話をすると、狩りに使われる道具も旧石器時代とは大きく変わりました。

旧石器時代は大型動物が多かったので狩りに必要なのはパワーで、投げ槍なんかが使われていました。

・・・が、縄文時代の動物は小型化して素早くなっていたので、もはや人間の足で追いつくことは難しくなります。

そこで登場したのが弓矢と犬でした。

弓なら素早い動物でもスキル次第で射止めることができ、弓矢の先端(矢じり)には磨製石器が付いていたので、攻撃力もバッチリでした。

さらに足の速い犬を狩りのパートナーにすることで、小型化した動物の素早さに対応することができました。

他にも、釣りのために動物の骨で釣り針を作ったり、漁のために丸太船を作ったりなどなど、食の多様化に合わせていろんなアイテムが登場しました。

三内丸山遺跡

縄文時代の集落の遺跡は、日本各地で見つかっていますが、特に大きくて有名なのが青森県にある三内丸山遺跡さんないまるやまいせきです。

三内丸山遺跡は巨大集落の遺跡で、多くの人が入れる集会場のような竪穴住居が見つかっていたり、ダンボール数万個にも及ぶ遺物が見つかったりと、縄文時代の謎を解く上でとても重要な遺跡となっています。

※その重要性と歴史的な価値から、三内丸山遺跡は令和3年7月に世界文化遺産に登録されました。

三内丸山遺跡(出典:wikipediacommons)
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縄文時代の文化

定住生活は始まって各地に集落ができると、集落同士の交流も行われるようになりました。

原産地が限られているはずの黒曜石こくようせきヒスイが、各地の遺跡から見つかっていることがその証拠となっていて、集落同士の交流があったことを物語っています。

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黒曜石は、当時としては切れ味最強の石だったので人々に重宝され、

ヒスイは、その綺麗な見た目から装飾品や儀式アイテムとして用いられました。

さらに縄文人は、「身の回りのあらゆる自然には霊魂が宿っている。」という宗教的な思想も持っていました。

※「自然に霊魂が宿る」という思想のことを、アニミズムと言います。

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山の神、海の神、森の神・・・とか、いろんなものを神格化していくイメージです。

アニミズムの思想は、日本神話に登場する八百万やおよろずの神にも受け継がれていて、現代に至るまで日本の宗教観に大きな影響を与え続けているよ。

縄文人は、霊魂(自然)による災いを避けたり、豊かな収穫を霊魂(自然)に祈るため、呪術や儀礼を行うようになりました。

縄文時代の遺跡からは、用途がよくわからない土偶どぐう石棒せきぼうなどのアイテムも見つかっていて、これらは呪術・儀礼に用いられたものだと考えられています。

土偶は、人の形をした土人形のこと。女性をモチーフにしたものが多く、「女性」=「出産する」=「生命力の象徴」=「豊かな収穫」という連想で、女性の土偶は豊穣ほうじょうの儀式に使われていた・・・と考えられています。

宇宙人みたいな見た目をした土偶(他にもいろんな姿の土偶があります。)

石棒は、男のペ○スをモチーフにした石のモニュメント。活力の象徴として、子孫繁栄などを祈るために使われた・・・と考えられています。

石棒
儀式で使われていたであろう石棒

ほかにも、特定の歯だけが欠けた遺骨が多く見つかっていることから、縄文時代の人々には抜歯ばっしの風習があって、特に成人になるときの通過儀礼として抜歯が行われていたと考えられています。

また、縄文人のお墓の遺跡からは、手足を折り曲げて体育座りみたいに体を丸めた遺骨がたくさん見つかっていて、葬儀にも何らかの儀礼作法があったと考えられています。

※手足を折り曲げて土に埋める埋葬方法のことを屈葬くっそうと言います。下の体育座りのイラストみたいな感じで手と足を折り曲げて体を丸めた状態で土に埋められました。

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縄文時代の終わり

縄文時代は豊かな自然に恵みによって支えられた時代でもあり、身分格差も少なく、とても安定した時代でした。

そんな安定した時代は約1万年弱続きましたが、紀元前800年頃、再び人々の生活に大きな変化が起こります。

・・・その変化とは、人々が稲作を始めるようになったことでした。

稲作は朝鮮半島から伝わり、九州地方から少しずつ日本全土に広まっていった・・・と言われています。

稲は、栄養があり保存性もバツグンに優れていて、たくさん稲を収穫して保存しておけば、食糧に困ることがなくなるというとても大きなメリットがありました。

・・・が、人々が稲を保管するようになると、よりたくさん稲を収穫するため、土地や人材、道具(鉄とか)の奪い合いが始まり、人々の生活・文化は縄文時代と大きく変わることになったのです。こうして紀元前800年頃から始まった新しい時代のことを弥生やよい時代と言います。

※弥生時代の始まりの時期は諸説ありますが、ここでは高校日本史の教科書「詳説日本史探究」(山川出版社)を参考にしています。

稲をめぐる争いは弱肉強食の世界であり、人々の間に身分格差を生むこととなり、勝ち残った集落のリーダーは絶大な権力を持つようになって、大きくなった集落は小さな国みたいな感じに発展していきました。

こうした時代の変化によって、人々の生活・文化も大きく変わり、縄文時代は終わりを告げることになったのです。

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動画(YouTube)解説

Youtubeでも解説しています。この記事を読んだ後に見ると、理解がめっちゃ深まるのでオススメ◎

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この記事を書いた人
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教育系歴史ブロガー。
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