太宰府天満宮に関する記事第2弾です。前回は、太宰府天満宮と菅原道真の歴史を中心にお話をしました。
今回は、太宰府天満宮に関する豆知識を紹介したいと思います。キーワードは「梅」と「牛」です。
菅原道真といえば梅の花!
菅原道真といえば、梅の花が有名です。生前の菅原道真は梅の花を特に好んでいたため、菅原道真=梅の花という関係が出来上がりました。実際に、太宰府天満宮に行くと大量の梅の木を見つけることができます。
梅好きだった菅原道真は、生前に梅の花に関する歌を多く残しています。
菅原道真の梅の歌を知ろう!
というわけで、有名な菅原道真の歌を2つほど紹介しましょう。
菅原道真の神童っぷりがわかる歌
うつくしや
紅の色なる
梅の花
あこが顔にも
つけたくぞある
「梅の花の赤いのはなんと美しいのだろうか。顔につけてしまいたいほどだ!」と梅の花の美しさを表現した歌です。
この歌、なんと菅原道真が5歳の時に詠んだ歌です。つまり現代でいえば、保育所や幼稚園の年長組の子供達になります。菅原道真は学問の神様としても有名ですが、この歌から菅原道真の神童っぷりがわかります。
無実の罪で左遷させられた哀愁漂う歌
東風(こち)吹かば
匂ひおこせよ
梅の花
あるじなしとて
春な忘れそ
「春の東風が吹いたら、梅の香りを私の元まで届けておくれ梅の花よ。私がいない(太宰府へ行ってしまう)からと言って春に花を咲かせるのを忘れてはいけないよ」
太宰府への左遷が決まり、京(平安京)に咲く梅の花に別れを惜しんだ歌です。梅に対する愛情と、ストレートには表現されていませんが菅原道真の無念の気持ちが伝わってくる歌です。この歌はとても有名な歌で、太宰府天満宮に行くと↓のように石碑が立っています。
菅原道真が左遷させられた経緯を知るとこの歌の重みがわかるようになります。菅原道真の太宰府への左遷に関する話は前回の記事を参考にしてください。
飛梅(とびうめ)伝説
この歌から、とある伝説も生まれました。「菅原道真に会いたいと願う梅の花が本当に京から太宰府へ飛んできて、その花が太宰府の地で芽をつけた!」というものです。そして、その飛梅から芽をつけた梅の木は現在も存在しています。
【太宰府天満宮のパンフレット】
上は、太宰府天満宮のパンフレットです。その中の2番の梅の木が飛梅伝説で知られる梅の花です。あくまで伝説ですので、本当か嘘かはわかりません(多分作り話でしょう)。しかし、梅の木の樹齢が1000年以上であることは確認されており、菅原道真の時代にも存在していた梅の木であることに間違いはありません。
菅原道真の話を抜きにしても樹齢1000年以上の木を見る機会はあまり多くないと思うので、太宰府天満宮に行かれる際はぜひ注目してみてください!
菅原道真と御神牛
太宰府天満宮に行くと上の写真のように牛の像が置いてあります。菅原道真と牛には実は密接な関係があるのです。
私が説明したいことは、実は写真の御神牛の説明に全て載っています・・・。繰り返しかもしれませんが、一応、説明をしたいと思います。
菅原道真のお墓
太宰府天満宮は、当初はただの菅原道真のお墓でした。菅原道真死後、菅原道真は怨霊だの天神だのと多くの人に信じられるようになるにつれ、「菅原道真をちゃんと祀らなくては!」という風潮が生まれ、お墓の上に築き上げたのが太宰府天満宮です。
菅原道真の遺体は、牛車によって運ばれていましたが、疲れてしまったのか牛が急に横たわり始めました。そして、この牛が横たわった地に菅原道真の遺体が埋めれられました。つまり牛が横たわった場所=現在の太宰府天満宮なわけですね。
なぜ、牛の横たわった地に菅原道真の墓が作られたのか?という点は、「菅原道真の遺言」という説と「菅原道真の遺体を運んだ人が牛が動かないので困る果ててその地に遺体を埋めた」という説があるようです。
上の写真を見る限り、太宰府天満宮の公式見解は、菅原道真の「牛が動かなくなったところを私の墓とせよ」という遺言によるとされているようです。
まとめ
菅原道真は、死後、多くの人々の信仰の対象となりました。菅原道真が生きていた時代は日本における怨霊信仰ブームがピークに達した時代です。菅原道真の左遷による不遇の生涯が、菅原道真の怨霊信仰を生み、怨霊信仰ブームが過ぎ去った後も怨霊としてではなく菅原道真自身が神として崇められ信仰の対象となりました。
平安時代の怨霊信仰については、以下の記事で触れています。
このような経過から、菅原道真には数多くの伝説が残されています。(伝説の多さは、菅原道真信仰の深さを物語っています。)この記事で紹介した梅と牛の話もそんな伝説の一部です。
梅の話と牛の話。菅原道真の生涯の話とセットで知っておくと、太宰府天満宮観光がより楽しいものになるでしょう。デートで行くのなら良い話のネタになるかも?
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