

今回は、1853年に黒船4隻を率いて日本にやってきたペリーについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
ペリーといえば、「大砲をチラつかせて日本を脅した怖い軍人」というイメージが強いかもしれません。
しかし実は、ペリーは出航の何ヶ月も前から日本について徹底的に研究し、過去に失敗した外交官たちの記録まで読み込んでいた超がつくほどの勉強家でした。しかも、ペリーの本当の目的は「日本を支配すること」ではなく、もっと現実的なものだったのです。

知れば知るほど「ペリーって実はすごい人だったんだ」ってなると思うよ。ただの乱暴者じゃなくて、計算ずくの戦略家だったんだ。
ペリー来航とは?簡単にまとめると
ペリー来航とは、1853年(嘉永6年)にアメリカの東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが、黒船4隻を率いて浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に来航した出来事です。
ペリーはアメリカ大統領の国書を携え、日本に鎖国をやめて開国するよう要求しました。翌1854年、この圧力に屈した江戸幕府は日米和親条約を締結し、日本は約200年続いた鎖国に終止符を打つことになります。
ペリー来航は幕末の始まりとされ、ここから日本は大政奉還・明治維新へと続く激動の時代に突入していきました。

でも、そもそもペリーはなんで日本に来たの?アメリカと日本ってすごく離れてるし、わざわざ来る理由があったのかな・・・?

いい質問だね!実はペリーが日本に来た理由は、「日本が好きだったから」とかではなくて、非常に現実的な理由があったんだ。詳しく解説していくね。
なぜペリーは日本に来たのか?アメリカが開国を求めた理由
ペリーが日本に開国を求めた理由は、大きく分けて3つあります。
■捕鯨基地の確保
19世紀のアメリカでは、鯨油がランプの燃料として大きな需要がありました。当時のアメリカは世界最大の捕鯨国で、捕鯨船は日本近海のオホーツク海まで出向いてクジラを獲っていたのです。
しかし、アメリカから日本近海までは非常に長い航海になります。途中で水・食料・燃料を補給できる場所がどうしても必要でした。

今でいうガソリンスタンドみたいなものだね。長い航海の途中で燃料補給できる港がないと、船は帰ってこれないんだ。
さらに、捕鯨船が嵐で遭難した場合に乗組員を保護してもらう必要もありました。当時、日本に漂着したアメリカ人漁師が鎖国政策のもとで厳しい扱いを受けていたことも、アメリカが日本の開国を求める理由のひとつでした。
■太平洋航路の中継地
もうひとつの大きな理由は、太平洋を横断して東アジア(特に中国)と貿易するための中継地が欲しかったということです。
実はアメリカは1850年ごろまで、東アジアへ行くためにアメリカ東海岸→大西洋→イギリス→アフリカ→インド洋→アジアという、とんでもなく遠回りなルートを通っていました。

ところが1848年、アメリカが米墨戦争(アメリカ=メキシコ戦争)に勝つと、西海岸のカリフォルニアを獲得します。そうすると、新しい航路として太平洋ルートが登場しました。

太平洋ルートならイギリスの勢力圏を通らずに東アジアに行けるので、アメリカにとっては大きなメリットがありました。
しかし、太平洋はあまりにも広大です。一気に横断するのは難しく、途中で蒸気船の石炭を補給する中継地がどうしても必要でした。その有力候補が、まだどの国の植民地にもなっていなかった日本だったのです。

つまりアメリカにとって日本は、「クジラ漁の補給基地」と「太平洋横断の中継地」として、めちゃくちゃ便利な場所だったんだね。好きとか嫌いとかじゃなくて、非常に現実的な理由だったんだよ。
■アヘン戦争の衝撃と開国への圧力
ペリー来航の背景には、国際情勢の変化もありました。
1840〜42年のアヘン戦争で、イギリスが清(中国)を圧倒的な軍事力で屈服させたのです。この知らせは日本にも伝わり、江戸幕府は大きな衝撃を受けました。幕府は「外国船を砲撃して追い払え」という異国船打払令を撤回し、天保の薪水給与令を出して、外国船に水や薪を与える方針に転換しています。
イギリスが清(中国)に対して起こした戦争(1840〜42年)。アヘンの密貿易を取り締まった清に対し、イギリスが軍事力で反撃。清は惨敗し、不平等な南京条約を結ばされました。「アジアの大国・清ですらイギリスに勝てない」という事実は、日本を含むアジア諸国に大きな衝撃を与えました。
アメリカも、イギリスやロシアに先を越される前に日本を開国させたいという思惑がありました。つまり列強同士の競争もペリー来航の背景にあったのです。
ペリーの来航と巧みな外交戦略
■ペリーの航路と準備
ペリーは日本に向かう前に、日本についてさまざまな文献を読んで徹底的に調査を進めました。オランダ商館の報告書、日本語の辞書、シーボルトの著作まで取り寄せ、日本の政治体制・軍事力・国民性を分析していたのです。
さらに、ラクスマンやビッドルなど、過去に日本へ来た外国人がことごとく開国を断られた経緯も研究しています。特に1846年のビッドルが、穏やかに交渉した結果あっさり追い返されたことに注目しました。

ペリーは「穏やかに頼んでも日本は絶対に聞かない」っていう過去の失敗パターンを学んだ上で、「じゃあ真逆の強硬策でいこう」と方針を決めたんだ。相手を知った上での戦略だったんだよ。
調査の結果、ペリーはこう結論づけました。

日本は頑なに開国を拒否していて、もはや話し合いなど意味がない。上から目線の超高圧的な態度で、脅しながら強引に開国させるしかない。
ペリーは東インド艦隊司令長官として、アメリカのアジアにおける主力海軍を指揮する立場にありました。しかも、アメリカ本国と日本は距離的に連絡が難しいため、外交上の細かい判断もすべてペリーの裁量に委ねられていたのです。

つまりペリーは、軍事力と外交権という超強大な権限を手にしていたってわけなんだ。今でいうと、軍の司令官と外務大臣を一人で兼任しているようなイメージだね。
1852年11月、ペリー艦隊はアメリカ東海岸のノーフォークを出航。大西洋→喜望峰(アフリカ南端)→インド洋→東南アジア→琉球を経由して、約8ヶ月の航海の末に日本を目指しました。
■1853年、黒船4隻が浦賀に来航
1853年(嘉永6年)7月8日、ペリー率いる4隻の軍艦が浦賀沖に姿を現しました。

艦隊は蒸気船2隻と帆船2隻で構成されていました。
ペリー艦隊の4隻
蒸気船:サスケハナ(旗艦)・ミシシッピ
帆船:プリマス・サラトガ
蒸気船は黒い煙を吐きながら進む巨大な軍艦で、日本人が見たことのないような異様な存在でした。これが「黒船」と呼ばれるようになった由来です。


なんで長崎じゃなくて浦賀に来たの?鎖国のときは長崎の出島が外国との窓口だったはずだよね?

それはペリーの計算なんだよ。長崎に行くと、オランダを通じた従来の外交ルートに回されてしまう。でも浦賀は江戸のすぐ近くだから、幕府の首脳に直接プレッシャーをかけられるんだ。
■徹底的に脅して判断力を失わせる
黒船の大砲を浦賀に向けたまま、ペリーは日本側にこう迫りました。

まずはアメリカからの国書を受け取れ。そして回答をよこせ。受け取りを拒否したら、どうなるかわかってるよな?俺は戦ってもいいんだぜ?
日本側は「船の中で話しましょう」「長崎に行ってもらえますか」とあの手この手でペリーを止めようとしますが、ペリーはすべて無視。交渉の場にすら立とうとしなかった江戸幕府を、強引に交渉の場へ引きずり出したのです。
7月14日、ペリーは久里浜に上陸し、幕府の役人に正式に国書を手渡しました。

考える時間も必要だろうから、待ってやる。だが、必ず回答をよこせよ。
国書を渡した後、ペリーは少しだけ東京湾の測量を行い、わずか10日ほどで日本を去りました。次にペリーが向かったのは琉球王国です。ペリーは日本と同時並行で琉球王国にも開国を要求していました。

ペリーは「もし日本が開国を拒否したら、琉球王国をアメリカの支配下に置いて、さらに日本を追い詰めよう」なんてことも考えていた・・・と言われています。
江戸幕府の対応
■阿部正弘の苦悩
ペリーが去った後の江戸幕府は大パニックでした。しかもペリーが日本を離れた約1ヶ月半後には、今度はロシアのプチャーチンが長崎にやってきて「開国しろ」と迫ってきたのです。
この困難な状況の中で幕府の方針を決める中心人物となったのが、阿部正弘でした。

老中首座(今でいう総理大臣のような存在)として、ペリー来航への対応を指揮した人物。わずか25歳で老中に就任した切れ者で、この難局を戦争を避けながら乗り切ろうとしました。安政の改革でも中心的な役割を果たしています。
正直、この時の日本は完全に詰んでいました。
問題:アメリカに日本を乗っ取られそうだから開国はしたくない。でもアメリカを追い払って鎖国を続ける軍事力もない。おまけにロシアまでやってきた。
この詰んだ状況を打破すべく、阿部正弘は幅広い人たちから意見を求めるという異例の行動に出ます。大名だけでなく、朝廷にまで意見を求めたのです。しかし、一発逆転の妙案はもちろん出てきませんでした。
■開国か攘夷か
この時、意見は大きく2つに分かれていました。
①開国やむなし派:「アメリカに勝てない以上、開国を受け入れるしかないのでは・・・」
②攘夷派:「いやいや、外国人は断固追い払うべきだ!ペリーの黒船だって頑張れば沈められるはず!!」

攘夷っていうのは、「外国人を追い払え!」っていう考え方のこと。ペリー来航をきっかけに攘夷の声は一気に高まって、過激な行動をとる人たちも増えていくんだよ。
しかし、いくら豪語したところで、日本にはペリーの最新鋭艦隊を撃退できる技術力も軍事力もありません。
こうして、阿部正弘の現実的な判断により、日本は戦争を避けることを最優先とし、アメリカに対して門戸を開く(開国する)ことを決めました。

ここまでの流れを整理すると、①アメリカが太平洋航路の中継地を求める → ②ペリーが黒船で浦賀に来航 → ③幕府が開国か攘夷かで揺れる → ④戦争回避のため開国を決断という因果関係になるよ。テストでは「なぜ開国したのか」を聞かれることが多いから、この流れをしっかり押さえておこうね。
日米和親条約の締結
■ペリーの再来航と条約交渉
1854年(嘉永7年)2月、ペリーは日本の回答をもらいに再びやってきました。本来はもう少し遅く来る予定でしたが、アメリカ本国で「ペリーはやりすぎだ」と批判が増えてきたので、早めに決着をつけようとしたのです。
今回の艦隊は前回の4隻から大幅に増えた7隻。日本をさらに威嚇するため、浦賀を通り過ぎて東京湾を奥まで進み、横浜まで入り込んできました。
幕府が「浦賀まで戻ってくれませんか」と頼んでもペリーは無視。「早く回答をよこせ」と強引に日本に迫ります。

こうして1854年3月31日、横浜村(現在の横浜市中区)で日米和親条約(神奈川条約)が締結されました。
■条約の主な内容
日米和親条約の主な内容は以下の通りです。
①日米友好関係の樹立:日本とアメリカは友好関係を結ぶことを明記
②下田と箱館(函館)の2港を開港:アメリカ船への水・薪・食料・石炭の補給を認める
③漂流民の救助・保護:遭難したアメリカ人を助けて引き渡す
④最恵国待遇:日本が他の国に与えた有利な条件は、自動的にアメリカにも適用される
⑤下田への領事駐在の許可:調印から18ヶ月後にアメリカ領事の駐在を認める

最恵国待遇ってなに?テストに出そうだけど、意味がよくわからない・・・。

最恵国待遇っていうのは、「一番いい条件を自動的にもらえる権利」のこと。たとえば、日本がイギリスと「貿易OK」って約束したら、自動的にアメリカも「貿易OK」になるんだ。アメリカは何もしなくていいから超お得。逆に日本からするとプレッシャーがすごいよね・・・。
■日米修好通商条約への布石
ペリーは「両国の友好のもと、貿易も認めろ」と通商(貿易)の要求もしましたが、これだけは江戸幕府がなんとか拒否しました。
一方のペリーも、下田と函館への寄港が実現すれば太平洋航海の安全が確保できるため、これ以上の強引な要求は控えました。押して引いてのバランス感覚も完璧で、ペリーは本当に優秀な外交官でした。
こうして通商条約は先送りとなりましたが、これは1858年の日米修好通商条約で結ばれることになります。

日米修好通商条約は、日本にとってめちゃくちゃ不利な不平等条約だったんだ。これがまた幕末の大きな問題になっていくんだよ・・・。
ペリー来航が日本に与えた影響
■幕末の始まり
ペリー来航と日米和親条約の締結は、日本に計り知れない影響を与えました。
まず、ペリー来航をきっかけに国内の世論が「開国やむなし派」と「攘夷派(外国人を追い払え派)」に大きく分裂し、激しく対立するようになりました。
攘夷の思想はやがて「尊王攘夷」(天皇を敬い、外国を追い払おう)という運動へと発展し、幕末の政治を大きく揺さぶることになります。
ペリー来航後に起きた主な出来事
・1858年:日米修好通商条約の締結(不平等条約)
・1858年:安政の大獄(大老・井伊直弼が反対派を弾圧)
・1860年:桜田門外の変(井伊直弼が暗殺される)
・1864年:禁門の変(長州藩と会津・薩摩の公武合体派が京都で衝突)
・1866年:薩長同盟 → 1867年:大政奉還 → 1868年:王政復古の大号令
よく「幕末」と言いますが、一般的に幕末はペリー来航(1853年)から始まるとされています。それほどにペリーが日本に与えた影響は大きく、ペリー来航によって日本は根本から変わってしまったのです。
■安政の改革
日米和親条約によってひとまずアメリカとの戦争を避けた阿部正弘は、次にこう考えました。
「このままでは欧米諸国に日本を乗っ取られてしまう。国力を強化しなければならない」
そこで阿部正弘は、安政の改革と呼ばれる一連の改革を断行しました。軍事力の強化、人材の登用、造船所の建設など、日本の近代化に向けた取り組みが始まったのです。

もし日本の歴史を大きく変えた外国人ベスト3を選ぶとしたら、ペリーは確実に入るだろうね。それくらい、ペリー来航は日本にとって大きなターニングポイントだったんだ。
テストに出るポイント&覚え方
ペリー来航(1853年):「いやでござんす(1853)ペリーさん」
→ 鎖国していた日本が「いやでござんす」と嫌がっているイメージ
日米和親条約(1854年):「一番やっし(1854)い条約」
→ 通商は認めていないので、不平等条約としてはまだ「やさしい」方
ペリー来航をもっと知りたい人におすすめの本

ペリー来航についてもっと深く知りたい人のために、おすすめの本を紹介するよ!
よくある質問(FAQ)
ペリーが日本に来た主な理由は2つです。①捕鯨船の補給基地として日本の港を使いたかった。②太平洋を横断して中国と貿易するための中継地が欲しかった。どちらもアメリカの国益に直結する現実的な理由でした。
ペリー来航は1853年(嘉永6年)で、江戸時代の末期にあたります。一般的に「幕末」はペリー来航から始まるとされています。
主な内容は、①下田と箱館(函館)の2港を開港して水・食料・石炭を補給、②アメリカの漂流民を救助・保護、③最恵国待遇をアメリカに付与、④下田に領事を置くことを許可、の4点です。なお、貿易(通商)は認めていません。
ペリー来航は日本に大きな影響を与えました。①約200年続いた鎖国が終わり日米和親条約で開国、②国内が開国派と攘夷派に分裂し幕末の動乱が始まった、③阿部正弘による安政の改革が始まり近代化への第一歩を踏み出した、の3点が主な影響です。
長崎に行くとオランダを通じた従来の外交ルートに回されてしまうため、ペリーはあえて浦賀を選びました。浦賀は江戸(幕府の中枢)に近く、幕府の首脳に直接圧力をかけることができるからです。
日米和親条約(1854年)は港の開放と友好関係を結んだ条約で、貿易は認めていません。日米修好通商条約(1858年)は貿易を全面的に認めた条約で、関税自主権がない・領事裁判権を認めるなど日本に不利な不平等条約でした。
まとめ

以上、ペリー来航と日米和親条約のまとめでした!ペリー来航の後、日本がどうなっていくのか気になる人は、下の記事もあわせて読んでみてください!
- 1840〜42年アヘン戦争。イギリスが清を破る。日本にも衝撃が走る
- 1848年米墨戦争の結果、アメリカがカリフォルニアを獲得。太平洋航路が現実化
- 1852年11月ペリー艦隊がアメリカ東海岸ノーフォークを出航
- 1853年7月ペリー、黒船4隻で浦賀に来航。幕府に国書を渡す
- 1853年8月ロシアのプチャーチンが長崎に来航。開国を要求
- 1854年2月ペリー再来航。今回は7隻で横浜まで入り込む
- 1854年3月日米和親条約を横浜村で締結。下田・箱館の2港を開港
- 1854年〜阿部正弘が安政の改革を断行。軍備強化・人材登用を進める
- 1858年日米修好通商条約を締結。安政の大獄が始まる
- 1867〜68年大政奉還・王政復古の大号令。江戸幕府が滅亡し明治時代へ
Wikipedia日本語版「黒船来航」「マシュー・ペリー」「日米和親条約」「阿部正弘」「米墨戦争」
コトバンク「日米和親条約」「阿部正弘」「禁門の変」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史B』
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