今回は、1853年月に黒船4隻を率いてやってきたペリーのお話です。
ペリーの黒船来航は、一般的にこんな風に説明されることが多いです。
1853年、ペリーは日本に開国を求めるため、黒船に乗ってアメリカからやってきた。ペリーの圧力に屈した江戸幕府は、1854年に日米和親条約を結び、遂にアメリカに対して門戸を開いた。これが、明治維新まで続くことになる幕末の動乱の始まりとなる。
この記事では、ペリーの話をもうちょっと深いところまで解説してみようと思います。具体的には以下の3点について解説していきます。
そもそも、なぜアメリカは日本に開国して欲しいのか。
日本を開国させるための巧みなペリーの外交術
日米和親条約を結び開国したことで日本はどんな影響を受けたのか
では本題へ。
ペリーが日本に開国を求めた理由
いきなり結論からになりますが、ペリーが日本に鎖国を求めた理由は「日本は船を寄港させるのにとても便利な場所だったから」です。
アメリカにとって、日本は次の2つの点で非常に魅力的な場所でした。
1 アメリカでブームだったクジラ漁の狩猟場がオホーツク海で、近い日本に寄港できると安心だしメチャクチャ助かる。
2 太平洋を横断して東アジアに行きたいけど、どこかに休憩地点が欲しい。そう考えた時、日本の立地がメチャクチャ良い。(後にフィリピンもアメリカの標的にされる)
という、非常に現実的な理由でした。2番目の理由は少し補足をしておきます。
実はアメリカは1850年ごろまで、東アジアへ行くためにこんなルートを通っていました。アメリカの東海岸→イギリス→アフリカ→アジアというルートです。
ところが1548年、アメリカがメキシコとの戦争に勝つと西海岸のカリフォルニアをゲット。そうすると、新しい航路として太平洋ルートが登場します。太平洋ルートだとイギリスのことを気にしなくて良くなるので、アメリカでは航路の開拓が進められます。
しかし、一気に太平洋を横断するのは難しい。そこで途中で燃料を補給したり、休めるような場所が必要になります。その有力候補が、まだどの国の植民地にもなっていなかった日本でした。
ペリー「日本よ覚悟しとけ。徹底的に脅してやるからな」
ペリーは日本に向かう前に、日本について様々な文献を読んで調査を進めます。日本のことがわかってくると、ペリーはこう思うようになりました。
日本は頑なに開国を拒否していて、もはや話し合いなど意味がない。上から目線の超高圧的な態度で、脅しながら強引に開国させるしか方法はない。
ペリーは水軍の所属で、東インド戦艦司令長官という立場にありました。アメリカのアジアにおける主力海軍です。しかも、アメリカと日本では距離的に連絡が難しいので、外交上の細かい話も全てペリーの裁量に委ねられました。
つまり、ペリーは軍事力and外交権という強大な権限を手に入れたことになります。これも、ペリーが高圧的な態度をとることができた理由の1つとなっていきます。
ペリーの交渉術「徹底的に脅して怯えさせて、判断力を失わせる」
1853年6月3日、ペリー率いる4隻の黒船が浦賀に来航します。黒船の大砲を浦賀に向けたままペリーは日本に上陸しました。
「ペリーさん、まずは船の中で少し話をしましょう」
「あのー、日本では外交の話は長崎でするって決まってるんで長崎に行ってもらっていいすか?」
と、あの手この手でペリーを止めようとするもペリーは全て無視。
まずは、アメリカからの国書を受け取れ。そして、その内容について回答をよこせ。国書の受け取るを拒否することは絶対に許さん。もし拒否したら、どうなるかわかってるよな。俺は戦ってもいいんだよ?
こうして、交渉の場にすら立とうとしない江戸幕府を、ひとまず交渉の場に立たせることに成功します。ペリーの作戦勝ちです。
6月9日には幕府に正式に国書を渡して、その後少しだけ東京湾の測量をした後、ペリーは日本を去ります。
考える時間も必要だろうから、一年だけ返事を待ってやる。
そして、次にペリーが向かったのは琉球王国でした。当時、ペリーは日本と同時並行で琉球王国にも開国を要求していたんです。
1854年1月、ペリーは再び日本にやってきます。本来はもう少し遅く来日する予定でしたが、アメリカ本土で「ペリーはちょっとやりすぎだよ!」と批判も増えてきたので、サクッと日本を開国させてしまおうと思ったのでした。
手元にある本では、この時ペリーは「もし日本が開国を拒否したら、琉球王国をアメリカの支配下に置いて、日本をさらに恐怖に陥れてやろう」みたいなことを考えていたと書かれています。マジでやりすぎだよペリー・・・。
江戸幕府の対応
ペリーが最初に日本に滞在したのはわずか10日ほどでした。しかし、江戸幕府を恐怖に陥れるには十分すぎる時間でした。
しかも、ペリーが日本を離れて一ヶ月くらい経つと、次はロシアからも「開国しろや」と使者がやってきて、対応に追われる江戸幕府はもうグチャグチャ。
そんな中、幕府の方針を決める中心人物となったのが老中の阿部正弘(あべまさひろ)と言う人物でした。(この時将軍だった徳川家定は問題児すぎて蚊帳の外でした・・・)
正直、この時の日本は詰んでました。
「アメリカに日本を乗っ取られそうだから、開国はしたくない。でもアメリカを追い払って鎖国を続ける国力もない。おまけにロシアまでやってきた。」
というのが日本の現状です。
この詰んだ状況を打破すべく、阿部正弘は幅広い人たちから意見を聞きますが、一発逆転の天才的アイデアはもちろんなし。この時の意見は大きく2つに分かれていて・・・
「アメリカに勝てない以上、開国を受けれるしかないのでは・・・」
「いやいや、やってみないとわからないから!ペリーの黒船だって頑張れば沈められるはずだから!!!」
というものでした。後者は外国を徹底的に排除しようとする 攘夷(じょうい)という思想で、ペリー来航以降、過激な行動をする者も増えていきます。(こうした過激派を弾圧したのが1858年に行われた「安政の大獄」です。)
しかし、いくら豪語したところで、日本にはペリーの最新鋭艦隊を沈められる技術力も財力もありません。
こうして、阿部正弘の現実的な判断により日本は戦争を避けることを最優先とし、アメリカに対して国交を開く(開国)することを決めました。
日米和親条約
1854年1月、日本の返事をもらいにペリーが再びやってきました。ペリーは、日本を威嚇するため、浦賀港(今の横須賀市)を通り過ぎて東京湾を進み、横浜まで入り込んできました。
幕府が「すみません・・・浦賀まで戻ってくれませんか?」と言ってもペリーは無視し、「早く返事をしろ」と強引に日本に迫ります。ペリーの上から目線外交は、初志貫徹していて一切の隙がありません・・・。
こうして結ばれたのが日米和親条約です。内容はまとめるとこんな感じ
日本とアメリカは友好関係を結ぶ。「日本とアメリカはズッ友!」っていうのを条約に明記しました。(ただし、アメリカは背後に大戦艦を構えながら・・・)
日本はアメリカの遭難船を助けるし、航海に必要な水や燃料も補給する。そのために、下田と函館に限ってアメリカ船の寄港を認める。
アメリカに最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)を与える。
簡単に言うと「もし他の国がアメリカより良い条件で条約を締結したら、自動的にアメリカにもそれが適用される。他の国が頑張って日本から良い条約を引き出せば、アメリカは何もする必要なし。逆に日本は、どこか一国とでも不利な条約を結ぶと、最恵国待遇を武器に他の国も一気に不利な条約を押し付けてくるからプレッシャーがヤバい」と言う、当時流行っていた鬼畜外交の1つ。
ペリーは「両国の友好の下、(日本に不平等な)貿易も認めろ」と通商の要求もしますが、これだけは江戸幕府がなんとか拒否することができました。
一方のペリーも、「とりあえず下田と函館に寄れれば安全にアジアへ航海ができるぞ!」というわけで、これ以上の強引な要求は良くないと考えました。ペリーは本当に優秀な司令官だったのでしょう。押して引いてのバランス感覚も完璧です。
こうして通商条約だけが先延ばしされて、まずは日米和親条約が結ばれました。ちなみに、通商条約は1858年の日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)で結ばれることになります。
いよいよ日本は幕末へ
日米修好条約によって、ひとまずアメリカとの戦争を避けることに成功すると、阿部正弘は「日本を強くしなければ、このままズルズルと欧米諸国に国を乗っ取られてしまう」と考えて、国を強くするための様々な改革を断行します。これを歴史上では安政の改革と呼びます。
また、ペリー来航以降、国内の世論が大きく「穏便派」と「過激派(攘夷派)」に分かれ、両者が激しく対立すようになります。1858年には攘夷派を弾圧した安政の大獄が起こり、1864年には攘夷派と穏便派が京で戦争を起こし攘夷派が敗北する事件も起きています。(これを蛤御門の変とか禁門の変とか言います。)
こうしてペリー来航によって日本は幕末〜明治維新までの激動の時代を歩み始めることになります。よく江戸時代の終わりの頃を「幕末」と言いますが、一般的に幕末はペリー来航から始まるとされています。それほどにペリーが日本に与えた影響が大きく、ペリー来航により日本が大きく変わってしまったからです。
なので、幕末について勉強したり、知りたいと思ったらまず最初に始まるのがペリーのお話なのです。もし、日本の歴史を大きく変えた外国人ベスト3を選ぶとしたら、ペリーは必ずその中に入るでしょうね。
以上、ペリー来航のお話でした。
おしまい
コメント
大変勉強になります。
ところが1548年、アメリカがメキシコとの戦争に勝つと・・・
の行は1848年ではないでしょうか。気になったので連絡させていただきました。
すごすぎ!
書き方のおかげでわかりやすかったです