今回は、平安時代に登場する皇后と中宮の違いについて解説します。
皇后と中宮は、どちらも天皇の正妻を意味する言葉です。
正妻とは数いる女性たちの中から選ばれた1人のことを意味するはずなのですが、平安時代中期には皇后と中宮で正妻が2人いた時代がありました。意味がよくわからないかもしれませんが、この記事を読み進めていただければ事情をわかっていただけると思います。
中宮はそもそも正妻という意味ではなかった
歴史を遡っていくと、天皇の正妻(妃)という意味に相応しいのは中宮ではなく皇后の方です。(皇后という言葉は、今でも使われています)
そもそも中宮とは本来、「皇后が住むところ」という意味であり、正妻を指す言葉ではありませんでした。
しかし、平安時代中期の政治争いの中で、「正妻が一人じゃ物足りないから、中宮って言葉も正妻ってことにして正妻を2人にしたろ」という荒唐無稽なトンデモナイことを考えた男がいました。
それが、あの有名な藤原道長とその兄の藤原道隆でした。
藤原道隆「娘を皇后にしたいから裏技使うわww」
当時のお国のトップたちは、以下の方法で権力を手に入れようと熾烈な政争を繰り広げていました。
と言う流れ。これがいわゆる摂関政治と呼ばれるやつです。
藤原道隆も同じことを考えましたが、ダメでした。天皇の皇后のポジションに既に藤原遵子(ふじわらのじゅんし)と言う人物がいたからです。
もう少し詳しく話すと、皇后には仕組みがあって、
と言う感じで、最大三代までポジションがありました。太皇太后は、前々代なので高齢なことが多いため、空きが出やすく、太皇太后がいなくなれば、繰り上がりで
となり、皇后のポジションが空くんですが、この時はこのサイクルが詰まっていて、こんな感じになっていました。
天皇 | ||
太皇太后 | 昌子内親王 | 朱雀天皇 |
皇太后 | 藤原詮子 | 円融天皇 |
皇后 | 藤原遵子 | 円融天皇 |
(藤原道隆が狙ったところ) | 一条天皇 |
藤原道隆は一条天皇に娘を嫁がせたいですが、ルール上、三人の誰かがいなくならなければ、それは不可能でした。
藤原道隆「ルールが邪魔をするなら、ルールごと変えてしまえばいい」
と言うわけで、「中宮」を「皇后」と同じ意味だとする強引な解釈で娘を一条天皇に嫁がせてしまったのです。このトンデモ理論に、当時の朝廷には批判の声もあったと言われています。
これが「中宮」が「皇后」と同じ意味を持つようになった由来です。藤原道隆は、酒好きの豪快な男だったようで、このエピソードからそんな人柄が溢れ出ています。
藤原道長「同じ天皇に正妻二人いてもいいやろ」
そして、藤原道隆のトンデモ理論をさらに発展させたのが、弟の藤原道長!
1000年、藤原道隆の娘である藤原定子は一条天皇の正妻(皇后)になっていました。
藤原道長は、娘の藤原彰子を一条天皇の正妻にしようと考えますが、既に藤原定子がいます。悩んだ道長は閃きました。
藤原道長「前に兄が『中宮』って言う便利な制度を作ってくれたよなぁ・・・。せや!『中宮』として娘を嫁がせて一条天皇の正妻にしたろ!正妻が二人いてよくわからん状況になるけど、まぁいいやろ。」
と言うわけで娘の彰子を「中宮」として一条天皇に嫁がせてしまいます。兄の道隆も豪快な人物なら、弟の道長も兄に劣らぬほど豪快な人物です。
一条天皇は「皇后」の藤原定子と「中宮」の藤原彰子と言う二人の正妻を持つことになってしまいました。この状況は「一帝二后」と呼ばれ異例の状況として、歴史上でもとても有名です。(道隆の頃は、「皇后」と「中宮」がいても嫁ぎ先は別の天皇でした)
ちなみに、一条天皇・藤原定子・藤原彰子の三角関係は、誰がどう見ても感動するほどの綺麗な三角関係でした。ドロドロの三角関係はよくあっても、綺麗な三角関係は大変珍しいです。
皇后と中宮の違いまとめ
たまに、中宮と皇后を混在している文章を見かけますが、天皇の正妻(妃)を表現したいのなら一般的には「皇后」を使うのが普通です。上の経過を見ても明らかですね。
皇后と中宮についてまとめると
といったところでしょう。政争の具として生まれたのが中宮と言えそうです。
平安時代は有職故実に重きを置いた政治が行われていたと言いますが、権力者にとって不利なことはトンデモ理論でコロッとルールが変わってしまうあたり、今も昔も変わらぬ政治の闇を感じます。
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