【建仁寺の三門】
今回は、風神雷神屏風図で有名な建仁寺の歴史や雑学について話をしていきます。
建仁寺は、京都市東山区にあるお寺。清水寺とか八坂神社とか有名観光地に近い場所にあるので、立地的にとても訪れやすいお寺です。
建仁寺は数ある寺院の中でも珍しい写真撮影がOKなお寺。多くの寺院では、仏像やその他の史料の撮影は禁止されていますが、建仁寺はレプリカが多いので撮影OKらしい。レプリカであっても、写真撮影ができるっていうのはかなり嬉しいですね!
では、本題へ。
建仁寺の歴史〜建仁寺はなぜ建てられた?〜
まずは、建仁寺が建てられた歴史のお話。
建仁寺が建てられたのは1202年。建てたのは、栄西(えいさい)という僧侶。そして、その栄西の支援をしていたのが鎌倉幕府二代目将軍の源頼家(みなもとのよりいえ)でした。
実は建仁寺、京都で一番古い禅宗のお寺。当時の京では、天台宗や真言宗系のお寺の力が強く、禅宗のお寺を建てるのは政治的にかなり難易度の高いことでした。
栄西はそんな困難を乗り越え、苦難の末に建仁寺を建立しました。
栄西は宋で禅宗を学び、日本に始めて本格的な禅宗を伝えた僧侶。(禅そのものは昔から日本に伝わってたけど、禅に特化した宗派として禅宗が伝わったのはこの時が始めて)
禅宗にはいくつかの宗派があり、栄西はそのうちの臨済宗の開祖として有名です。
栄西は元は天台宗の僧侶でしたが、利権にまみれて腐敗する天台宗を立て直すため、留学を決意し、宋で禅の教えを学びます。
しかし、宋から戻ってきた栄西に待ち受けていたのは、天台宗からの弾圧でした。天台宗は、栄西が宋から伝えた禅宗を、既得権益を脅かしかねない新興勢力と見なしたのです。
栄西「違う!禅宗の教えと天台宗の思想は、根本のところでは一緒なんだ。だから、きっと歩み寄れるはずなんだ!!」
こう栄西は弁明します。ちなみに、この時に書かれた本が有名な興禅護国論(こうぜんごこくろん)です。
しかし、そんな願いも虚しく栄西は平安京を去り、新天地を求めて鎌倉へと向かいます。
栄西の「天台宗復興!」のスローガンは、皮肉にもその天台宗によって打ち砕かれたのでした。
しかし、都落ちに見えた鎌倉行きは大成功。栄西の運命を大きく変えることになります。禅宗は、鎌倉の有力武士らに受け入れられ、栄西は禅宗信仰の拠点を手に入れたのです
当時の日本の政治は、朝廷と鎌倉幕府の二頭政治(にとうせいじ。国のトップが2つあること)。そして、両者の関係は完全に鎌倉幕府の方が上。
栄西はこれを利用し、北条政子と二代目鎌倉幕府将軍の源頼家の支援を受けて、京都に念願の禅宗のお寺を建立しようと試みました。
背後に鎌倉幕府が付いていますから、今回ばかりは天台宗とて簡単に栄西を排除することはできません。こうして京都に始めて建てられた禅宗のお寺が建仁寺なのです。
反対勢力がたくさんいる中で建仁寺が建てられたことは、禅宗にとっては大きな大きな躍進でした。ちなみに、同じ時期に浄土宗を開いた法然は弾圧を受け、1207年に讃岐に流されていることを考えれば、栄西はかなり柔軟に対応していることがわかります。
建仁寺と栄西の妥協と苦悩
栄西の念願だった建仁寺の建立。しかし、栄西は建仁寺を純粋な禅宗のお寺にはしませんでした。建仁寺を天台宗と真言宗と禅宗を学ぶ複合的なお寺と位置付けたのです。
建仁寺のあり方をこのように複雑にしたのは、京で強大な勢力を持つ二大宗派、天台宗と真言宗からの批判を抑えるためです。(興禅護国論を書いたのと似た動機です。)
室町時代になると栄える禅宗ですが、当時はまだまだ肩身の狭いマイナー宗派でしかありません。興禅護国論や建仁寺を三宗兼学にしたエピソードは、そのことを如実に物語っています。
沙石集(しゃせきしゅう)という本にはこんな栄西のエピソードも残っています。
とある日、京都は強風に見舞われ、被害を受けた家屋もあった。そんな中、こんな噂が広まった。
「この風は異国の風だ。最近、大袈裟(おおげさ)を着た僧侶がいるが、この僧侶がその広い袖で風を起こしているに違いない!」
【大袈裟は↑の紫のやつ】
栄西は宋から帰国してきた僧侶であり、暗に栄西を否定しているわけです。
この話を受け、朝廷では栄西らの追放令を発令します。朝廷と天台宗は癒着し、腐敗していたんですね。
しかし、栄西はこれに動じることなく、むしろこう弁明書を提出します。
「風は自然がなすものであり、人間にどうこうできるものではない。もし私が風を起こしたのなら、それは私が神以上の存在であることを示しているに他ならず、天孫たる天皇が神以上の存在である私を見捨てることがあるだろうか」
この弁明に天皇は「確かに筋の通った話である」と栄西の意見に理解を示し、栄西に対して「希望があるなら述べてみよ」と尋ねると栄西は「建仁寺を建てたい」と述べ、その後すぐに建仁寺の建立が認められました。
この逸話がどこまで事実かはわかりませんが、当時の弾圧の様子や栄西の秀才ぶりがなんとなく想像できますね。
これ以外にも、鎌倉幕府の支援を受けていることを周囲に見せつけるために、建仁寺の建設工事にあえて鎌倉武士たちを動員したなんて話も残っています。
ここまで来るともはや宗教版の冷戦みたいですね・・・。逸話に残らないような小さな嫌がらせも日常的にあったと思うし、栄西は本当によく耐えたと思う。
建仁寺、ガチの禅宗のお寺になる
栄西が苦難の末、ようやく建立に至った建仁寺。当初は他の宗派への配慮から天台宗+真言宗+禅宗という三宗兼学のお寺でしたが、時代が進むと建仁寺は純粋な禅宗の寺へと変貌していきます。
鎌倉時代中期(1250年ごろ)に南宋から日本にやってきた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)という僧侶が、建仁寺に住職となると、その頃から今のような純粋な禅宗のお寺になりました。
蘭渓道隆は、鎌倉幕府執権の北条時頼や北条時宗からの保護を受けており、この頃になると禅宗は主に鎌倉幕府の有力御家人を中心に広く信仰されるようになっていました。
建仁寺、京都五山に抜擢される
その後も建仁寺は栄え続け、室町時代になると、臨済宗のお寺の格付けが行われ、建仁寺はその第3位に選ばれるようになります。
この臨済宗の寺院の格付けの基準で最も重要視されたのは、室町幕府との関係の深さです。
京都五山の順位は時代によって微妙に変化していますが、
そして、第3位が栄西の建てた建仁寺でした。足利家が建てた寺院の次に名を連ねるあたりに、建仁寺の影響力の強さを感じます。栄西の頃と比べると建仁寺は随分と立派になったものです。
その後、1552年に大火災で寺院が消失すると豊臣秀吉に接近し、建仁寺は再建。江戸時代になると、豊臣秀吉との関係から幕府の強い監視を受けながら存続することになります。
建仁寺の近くには豊臣秀吉の正室、ねねが建てた高台寺がありますが、高台寺は建仁寺の末寺となっています。高台寺と建仁寺の関係にも、豊臣秀吉の活躍は少なからず影響しているでしょう。
建仁寺の歴史をまとめてみる
建仁寺の歴史をまとめると
という感じでしょうか。
時代が進むにしたがって建仁寺は由緒ある立派な寺院に成長し、俵屋宗達(たわらやそうたつ)の風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)のような現代でも今なお輝き続ける芸術品を残すことになったのです。栄西の悲願はこうして達成されたのでした。
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