【花園天皇】
今回は、ちょっとマニアックな文保の和談(ぶんぽうのわだん)について紹介しようと思います。
文保の和談は鎌倉時代末期、皇統が両統迭立となって揉めた時に鎌倉幕府と朝廷との間で行われた皇位継承に関する話し合いのことを言います。
1317年の話で、時代的には後醍醐天皇が活躍する少し前。文保の和談は両統迭立時代の皇位継承がいかにグダグダだったかを物語る事件の1つでもあります。
文保の和談と両統迭立
まず最初に「両統迭立」ってなんでしょうか。別の記事から引用してきます・・・
両統迭立とは「一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態」を言います。
となります。
次に鎌倉時代後期の歴代天皇を以下の系図でご覧ください
後嵯峨天皇の後、皇統が2つに分かれて、後伏見天皇(93代)以降は2つの皇統から交代で天皇が即位しているのがわかると思います。これが両統迭立。
両統迭立となった詳しい経過は、以下の記事で紹介していますのできになる方はどうぞ。
文保の和談と鎌倉幕府
承久の乱以降、皇位継承の決定権は鎌倉幕府が握ることが一般的になりました。
なので、両統迭立時代の天皇はこんな感じで決められました。
持明院統「鎌倉幕府さん、お願い!次の天皇は持明院統から即位させて!」
大覚寺統「いやいや!持明院統は2回連続で天皇即位させたしょ?次はこっちの番だから。鎌倉幕府さんもそこんとこわかってますよね!なんとかお願いします!」
鎌倉幕府「(俺はどっちでもいいんだが、めんどいから)じゃあ、次の天皇は大覚寺統からな」
上のはテキトーに書いたんですが、まぁこんな感じで皇位継承が揉めると鎌倉幕府に訴えるという流れが確立しつつありました。
この時の鎌倉幕府のスタンスはわかっていません。「意図的に皇室を分断させて朝廷の力を削いだ説」と「いちいち俺(鎌倉幕府)に言ってくるなよー。めんどいから勝手にやってくれ説」の2つの説があります。この記事では「めんどくさい説」で話を進めます。
文保の和談が行われたのは1317年、花園天皇の在位9年目の年でした。花園天皇の父だった伏見上皇が亡くなって、皇位継承の問題が再び活発になった時でした。
皇位継承に巻き込まれ、強制的に仲介をしなければいけなくなった鎌倉幕府。この陰鬱な仕事に嫌気が差したのか、幕府は朝廷に使者を派遣して以下の3つの提案をしました。
この鎌倉幕府の提案を朝廷がどう受け止めたのか、はっきりしたことはわかっていませんが、3番については揉めたんじゃないかと言われてます。
というのも、後醍醐の次に邦良親王が即位すると、大覚寺統が2人連続で即位することになるからです。これでは持明院統の人たちが納得するわけがない!
在位期間10年って決めるわけだから大覚寺統で2人連続即位するということは持明院統は20年も次の機会を待たないといけません。流石にこれじゃあ納得できませんよね。
ちなみに、なぜ後醍醐→邦良親王と連続して大覚寺統が即位する案を幕府が提示したかというと、おそらく後宇多上皇の意図を汲んだ結果だと思います。
後宇多上皇は、二条天皇→邦良親王こそが正統な血筋と考えていて、後醍醐天皇は邦良親王が成長するまでのつなぎ役としてしか考えていませんでした。
以上の幕府の提案から始まった一連の話し合いのことを文保の和談と言います。
文保の和談のその後
文保の和談ですが、その後、話し合いの内容はほとんど守られることはありませんでした。
守られたのは、花園天皇が在位10年目の1318年に後醍醐天皇に譲位したことだけ。
そして、後醍醐天皇は「私こそが天皇家の家督にふさわしい!」と邦良親王への皇位継承を拒否。
そして、揉めている間に病弱だった邦良親王は亡くなってしまいます。
そのため邦良親王は飛ばして量仁親王が光厳天皇として即位しますが、その後、後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を始めたことで、文保の和談の話はもはや無いも同然に。
文保の和談が無視されると両統迭立どころか、大覚寺統と持明院統それぞれが自己の正当性を主張し始め、皇統は南朝と北朝に完全に分断。南北朝時代が始まってしまうのです。
・・・という感じで文保の和談は、当時のグダグダ感がよーくわかるマニアックな出来事の1つだったのでした。
コメント