今回は、鎌倉時代初期に仏師として大活躍し、絶大なる人気を誇った運慶(うんけい)・快慶(かいけい)について紹介しようと思います。
運慶・快慶の作品は現在でも多く残されており、各地でその作品を見ることができます(特に快慶)。その中でも一番有名なのは東大寺南大門の両脇に立つ金剛力士像でしょう。
この記事では東大寺南大門の金剛力士像の話を中心に運慶・快慶について紹介しようと思います。寺院観光で仏像を見るのなら、運慶・快慶のことを知っておくと観光がより一層楽しめるかもしれません。
運慶・快慶と当事の仏師事情
運慶・快慶は仏師ですので、まずは運慶・快慶が生きた時代の仏師事情を説明します。年代で言うと1150〜1200年ぐらい。
運慶・快慶は仏師として名を馳せたわけですが、運慶・快慶が活躍するちょっと前までは仏師というのはあくまで裏方の存在。歴史の表舞台に仏師の名前が登場することは多くありませんでした。平安時代以前の仏像って一部を除いて、仏像製作に直接携わった仏師の名前まで残っていることって少ないんです。
ところが1050年頃、そんな仏師の世界に大革命を起こした人物がいます。それが定朝(じょうちょう)という人物。定朝は寄木造というコスパ最強の仏像製作方法を発案し、貴族受けする仏像を次々と製作します。
定朝の作風は、彫りが浅く、柔和な仏像の表情が特徴でした。ざっくり言うと穏やかな感じの仏像が得意だったんです。そしてこれが平安貴族に大受け、定朝の仏像は貴族の間で大ブームに。
ちなみに、現存する定朝の代表作には平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像があります。
【平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像】
こうして定朝は「仏師と言えばまずは定朝!」という仏師としてのブランドを確立。おまけに仏師としては史上初の僧位を朝廷から授かるほどでした。
僧位は僧としての身分を表し、朝廷から授けられるもの。僧侶が授かるものなので、仏師という職人が僧位を授かるのは異例中の異例でした。
定朝はこんな感じで仏師の地位を飛躍的に高めます。定朝ブランドは、弟子たちによって受け継がれ、弟子たちはいくつかの流派を作ります。主な流派は三つあって「円派」「院派」「慶派」と呼ばれました。そして、名前から察するとおり、運慶・快慶は慶派に所属する仏師の一人でした。
そしてこの頃から、仏像を作ると「仏師の誰々が作った」みたいな記録が残るようになります。仏師にブランドが確立されたためですね。
不遇の時代を過ごす運慶・快慶
定朝流から別れた仏師の流派は、3つあると話しましたが、運慶・快慶の属する慶派はどうもパッとしなかったようです。なぜかと言えば、本拠地を平安京ではなく奈良の興福寺に構えていたから。
なぜあえて興福寺に本拠地を構えたのかは、申し訳ないですが私にもわかりません。「藤原氏に重宝された」「流派争いで平安京から抜け出した」「奈良に残る古くからの彫刻美に魅了された」あたりでしょうか・・・。
仏師のお得意さんは平安京に住む貴族らがメインなので、どうしても平安京に本拠地を置く円派や院派が人気でした。ところが、1180年に平重衡がやらかした南都焼討事件によって、大仕事が舞い込んできます。
前置きが長くなりましたが、こうして運慶・快慶が活躍し、名を後世に残す大舞台が整ったわけです。
東大寺南大門の金剛力士像(阿形)の製作へ
1180年に東大寺が全焼すると、すぐに東大寺復興の動きが始まりました。この超巨大プロジェクトのリーダーとなったのが重源(ちょうげん)という僧侶。この人物、かなり凄い人です。
1185年には大仏が完成。1195年には大仏殿も完成します。そして1203年、東大寺南大門の再建が行われ、ここで運慶・快慶や活躍することになります。
東大寺南大門の金剛力士像はその造形美が有名ですが、実はその製作スピードが異常なほど早かったことも有名です。
歴史に名を残す金剛力士像は、わずか2ヶ月ほどで完成させてしまいます。意外にも「フフフ、数年の年月を費やしてようやく完成させた傑作だぜ・・・」とかそんな感じでは決してないわけです。
また、運慶・快慶が金剛力士像を作ったと言っても一人で作ったわけではありません。2人の代表者を決めて、そこに部下たちを多く集めて仏像制作に当たります。仏師集団の規模は、だいたい百数十人だったんじゃないか?と言われています。(諸説あるかもしれない)
東大寺の金剛力士像の制作に当たっては、4人の代表者がいて、運慶と快慶がペアを組んで金剛力士像の阿形(あぎょう)の制作に当たったんじゃないか?と言われています。
運慶と快慶は名前は似てますがその作風は、それぞれ異なっていて、運慶は力強い作風、快慶はどちらかというと繊細な作風が特徴でした。そしてその2つが融合したのが東大寺南大門の金剛力士像(阿形)と言うわけです。
そんな2大巨匠の融合傑作がこちら↓。
(出典:wikipedia「金剛力士」,Author:Chris 73 )
運慶と快慶の関係性
ところで、運慶と快慶の関係ですが決して兄弟とかじゃありません。この2人の関係は、実はあまりはっきりとしたことはわかっていません。
運慶・快慶、それぞれについてちょっと紹介してみます。
運慶は、THE巨匠と言うべき当時随一の名仏師でした。1176年には、奈良の円成寺で大日如来像を作り上げ、東大寺の金剛力士像を製作する以前から実績も上げています。下の写真がその大日如来像。現存する最古の運慶の作品で、国宝指定されている仏像です。
一方の快慶は、運慶から見ればまだ弟子的な存在でした。
なぜまだ未熟だった快慶が巨匠の運慶と並んで金剛力士像の再建を任されたのかというと、東大寺再興のプロジェクトリーダーだった重源の存在が大きかったとされています。(快慶が運慶の弟子だった説もある)
快慶は重源と同じく浄土宗を信仰しており、自らを「安阿弥陀仏」と称し、一方の重源は自らを「南無阿弥陀仏」と称したと言います。快慶と重源は浄土宗信仰を通じて、以前から親交があったようなんです。快慶が重源に関する像をいくつか残しているのもその証拠とされています。
運慶はその実力で、快慶は重源の強い推薦で金剛力士像再建に抜擢されたわけです。
運慶と快慶の作風の違い
先ほどもちょっと触れましたが、運慶と快慶はその作風も全然違います。
運慶の作風はとにかく、その力強さが最大の魅力でした。
【興福寺の弥勒菩薩像(運慶作)】
そして、運慶のお得意さんはとにかく武家が多かったと言われています。鎌倉時代は本格的に武士が台頭した時代。武士達は、上で紹介した定朝流の穏やかな仏像よりも運慶のような力強い作品を好み、運慶は大人気となったのです。
ただし、この運慶人気には政治的な要素もあったんじゃないか?とも考えられます。鎌倉幕府の組織の在り方は、平安京の朝廷と真っ向から利害が対立するものでした。これは鎌倉幕府の設置した守護・地頭の在り方を見れば明らかです。
なので、鎌倉幕府は仏師に仕事を依頼するにしても、平安京の貴族らと結びつきの強い円派や院派は避け、慶派を選んだんじゃないか?と考えられるわけです。そして、運慶も運慶で慶派がパッとしないので活路を見出すため鎌倉幕府に接近した・・・と。(個人的な憶測です。)
結果的に、運慶は武士という権力者に歩み寄り、そこで傑作を次々と生み出しました。
一方の快慶は、優雅で繊細な作風が特徴でした。
【東大寺の僧形八幡神像(快慶作)】
快慶は特定の客層にこだわらず、様々な場所で仏像を制作したようです。快慶の信仰する浄土宗は民衆に大変人気のある宗派であり、快慶もおそらくは民衆向けの仕事も引き受けたのだろうと思われます。
現存する快慶と運慶の作品数の謎
運慶と快慶は非常に多くの仏像を制作しました。それほどに人気があったということなのですが、現存する仏像となると、なぜか運慶作の仏像が圧倒的に少ないのです。
なぜ運慶の作品の数が圧倒的に少ないのかは謎なんですが、ある程度推測することはできます。
快慶の作品は、「安阿弥様」という異名が付けられるほど民衆から人気のある作品でした。そして時代が変わっても民衆の仏像に対する信仰心は衰えず、各々の地域で仏像は大切に安置されてきたのだと思います。
一方の運慶の作品は、武家のための仏像が多く、武家が滅んだり弱体化してしまうと多くの仏像もそれと同時に風化してしまったんじゃないか?と思えるわけです。
って実際のところはわからないんですけどね(汗。あくまで個人的な感想レベルのお話です。
運慶・快慶まとめ
以上、運慶・快慶についてまとめてみました!名前は似てるけど、生き様とか作風は全く違う2人なので、ちゃんと知ると中々面白い。
運慶と快慶の話は知っているだけで、寺院観光が数倍面白くなると思うので、雑学として知っておいて損はないと思います。以下のような面白い本も出版されています。
合わせて東大寺の歴史について知ってみるのもいかがでしょうか。
コメント
とても勉強になりました。「下手の横好き」で彫刻刀で小さな地蔵様などを彫っていますが、なかなかです。今も昔も木彫や石彫の道具はあまり変わらないでしょうから彫刻技術を彼等から学びたいものです。今は建物の外、つまり自然の中にある石像にとても興味があります。いずれにしろ「一人」で作るのは小さいものに限られますが・・。彫る人の「思い」に惹かれます。ご教示をよろしく。