今回は、源平合戦の戦の1つである宇治川の戦いについて紹介します。
木曽義仲VS源頼朝VS平家の三つ巴の関係図は、宇治川の戦いによる木曽義仲の死により源頼朝VS平家の一騎打ちの構図へと変化し、宇治川の戦い後、源平合戦はクライマックスへと向かってゆきます。
宇治川の戦い当時の時代背景とは?
宇治川の戦いとは、木曽義仲と源頼朝が派遣した源義経・源範頼の間で起こった戦いです。両者の当時の状況を見てみましょう。
絶望の木曽義仲
木曽義仲は、1183年5月に倶利伽羅峠の戦いで平家軍を破り、1183年7月、念願の平安京入りを果たします。
木曽義仲は、自らを「朝廷を強大な力を持つ平家から救った救世主」と自覚し、平安京入りを果たしたはず。しかし、朝廷にとって木曽義仲は確かに平家を追い出してくれた救世主ですが、所詮武力となる駒の1つに過ぎません。
山育ちで実直・短気だった木曽義仲は、そんな朝廷の権謀術数に耐えることができませんでした。せっかくライバルの源頼朝より先に平安京入りを果たしたのに、寿永二年十月宣旨によって源頼朝に重要な権限を奪われ、失脚の危機に陥ってしまったのです。
その後、源頼朝は「食糧難で苦しむ平安京に食料を運んであげるよー」という名目の下、弟の源義経と源範頼を平安京に派遣しました。木曽義仲は、窮地に立たされます。時の権力者後白河法皇は、既に木曽義仲に見切りをつけ、源頼朝との関係を密にしようとしている。そして、源義経らが平安京入りをしてしまえば、木曽義仲はお払い箱となり、失脚どころか命を奪われる危険すらあります。
そして、窮地に追い込まれた木曽義仲が最後の手段としてとった行動こそが「武力で後白河法皇を脅し、幽閉させる。そして、後白河法皇を意のままに操り、自分の有利になるよう政治を動かす!」というものでした。これが、1183年11月に起こった有名な法住寺合戦という後白河法皇と木曽義仲の戦いになります。
法住寺合戦により木曽義仲は、「治天の君(天皇の父のこと。この時は後白河法皇)に刃を向けるなんてとんでもないことだ!」と多くの非難を受け、人望を失います。
日に日に減ってゆく兵士たちを目の当たりにしながらも、木曽義仲は刻一刻と平安京に迫ってくる源義経たちへの対応に頭を悩ませます。何に頭を悩ませたかというと、圧倒的に兵力が少ないことでした。倶利伽羅峠の戦いに勝ち、平安京入りをした時は数万もいた木曽義仲軍ですが、その後、木曽義仲が色々やらかしちゃったせいで離脱する兵が続出。宇治川の戦い当時の木曽義仲の兵力はわずか1000人ほどだったようです。
一方の源義経・源範頼軍は、木曽義仲軍に比べ圧倒的兵力数で平安京に迫ってきます。そんな状態の中で1184年1月、宇治川の戦いは起こりました
宇治川の戦いと木曽義仲
木曽義仲は、源義経・源範頼軍に対抗するため、西国に都落ちした平家と手を結ぼうとします。が、平家はこれを拒否。同じく窮地に追い込まれている平家とはいえ、後白河法皇を襲うという暴挙を犯した木曽義仲と手を結ぶことをためらったのでしょう。
平家との同盟作戦が失敗した次の一手として、木曽義仲は、法住寺合戦により手中に収めた後白河法皇を連れて、一度本拠地である北陸に戻り再起を図ることを考えたはずです。ところが、木曽義仲は圧倒的不利な状況にも関わらず、源義経・源範頼軍と対決する・・・という愚行を犯してしまいます。
木曽義仲がなぜこのような無謀な戦をしたのか、はっきりとしたことはわかりませんがおおむね次のような理由があったのかな?と思われます。
・北陸へ戻る最短経路の途中に延暦寺のある比叡山を通る必要があったが、延暦寺とは敵対関係にあり、木曽義仲は延暦寺に対抗する兵力を持っていなかったこと。(木曽義仲は、法住寺合戦で延暦寺の代表者だった明雲を殺しています。)
・源義経、源範頼軍の兵力が少ないと誤った情報を手に入れてしまったこと。(源頼朝による策略説もあるよう)
これに加え、もしかするとこの時既に木曽義仲は死を覚悟しての特攻を考えていたのかもしれません・・・。
当時、平安京の防衛ラインは宇治川と瀬田川と考えられており、木曽義仲軍と源義経・源範頼軍は宇治川・瀬田川で衝突することになります。
宇治川の先陣争いエピソード
源義経・源範頼は二手に分かれ、平安京を目指します。源義経は、宇治川を渡り南から北へ、源範頼は、瀬田川を渡り東から西へ平安京へ進軍する計画でした。主力は源範頼、源義経は、敵の背後を付くいわゆる搦手(からめて)というやつでした
これを受けて、木曽義仲も宇治川・瀬田川に兵を送り込みます。主力の源範頼軍に対して500騎、搦手の源義経軍には300騎を向かわせます。木曽義仲自身は、幽閉している後白河法皇の不穏な動きを監視するため、京に残ります。
こんな感じで宇治川の戦いは2方面作戦で繰り広げられました。そして最初に勝敗を決した戦いは源義経率いる宇治川攻略部隊の方でした。「宇治川の戦い」という名の通り、後世有名になったのも宇治川方面での戦いです。
2頭の名馬、生唼と磨墨
さて、宇治川の戦いでは「宇治川の先陣争い」という有名なエピソードが残されています。
義経軍に佐々木高綱と梶原景季という2人の武将がいました。この2人は鎌倉を離れる前、源頼朝から名馬を授かっていました。経過は、ざっくりとこんな感じです。
梶原景季「源頼朝様、これから戦場へ向かうにあたり名馬の生唼(いけずき)をいただきたく思います。」
源頼朝(いやいや、総大将の源範頼がいるのに、部下の景季にそんな名馬与えられるはずがないだろ・・・。)
梶原景季は、石橋山の戦いで絶体絶命の源頼朝を救った梶原景時の息子。おそらく、その恩を当てにして強引にお願いしてみたのだと思います。
源頼朝「うーん、生唼は無理だけどもう一頭の名馬「磨墨」(するすみ)ならいいよ〜」
梶原景季「マジで!?源頼朝様、ありがとう!!」
少し経って・・・
佐々木高綱「源頼朝様、梶原景季に磨墨を与えたと聞きました。どうか私に生唼(いけずき)を与えてはくれないでしょうか?生唼を与えてくだされば、必ずや戦において先陣をなしましょう。もし、私以外の者が先陣を切った・・・という話をお聞きになりましたら、その時は私が討ち死にしたものとお考えくだされ」
源頼朝「(そこまで言われちゃ断れないよ・・・)よしわかった!生唼を与えよう。しかし、1つ約束してくれ。源範頼や梶原景季に断っている手前、『源頼朝からもらった!』なんて口が裂けても言わないようにな!」
血気盛んな部下たちに苦慮する源頼朝の様子が頭に浮かびます。
梶原景季「おい!佐々木高綱!!!その生唼はどうやって手に入れた!!俺には与えてくれないものを佐々木高綱に与えるとはなんたる辱め!お前の返答次第では刺し違えてでも、この恥辱を晴らしてやる!!!!!(激怒)」
佐々木高綱「(こ、殺される・・・)実はさ、源頼朝様にお願いしたんだけど断られちゃってさ〜、それでどうしても欲しいからこっそり盗んできちゃったんだよ!(汗」
梶原景季「え!?盗んだりしてバレたらどうするつもりだ?(ちょっとだけ安堵)」
佐々木高綱「武功を立てれば、許してくれると思う。多分!!」
こうして名馬を授かった、2人は戦で武名を上げんと躍起になっていました。そんな中、宇治川の先陣争いが始まるのです・・・。
佐々木高綱・梶原景季「先陣は俺だ!!」
両者は遂に、宇治川において木曽義仲軍と対峙することになります。
佐々木高綱は源頼朝に「俺が必ずや先陣を切りましょう!」と誓っています。梶原景季も名馬を与えられた意地があります。両者はそのプライドを賭けて、どちらが先陣を奪えるか勝負することになりました。宇治川を渡り、敵のいる対岸に一番乗りした方の勝利です。
両者は真っ先に宇治川を渡ります。対岸の木曽義仲軍からは矢が放たれ、川を渡る途中に命を落とす者もいる中、先行したのは佐々木高綱。しかし、磨墨に乗った梶原景季が次第に近づいて来ます。佐々木高綱には源頼朝に豪語した約束があり、絶対に景季には負けられません。そこで、佐々木高綱は奇策?を用いることにします。
佐々木高綱「さすが梶原景季殿、お速いですな。しかしお気をつけてくだされ。そなたの馬の腹帯が少し弛んでいるように見えます。」
梶原景季「エッ?マジで!?それは危ない、腹帯を締めなおさないと・・・ってあれ?別に弛んでいないじゃん」
佐々木高綱「やーい、引っかかったなー!俺が今のうちに一番乗りだぜ〜」
梶原景季「謀ったな佐々木高綱!まんまとやられたわ・・・。」
こうしてナイスな頭脳プレイ?によって佐々木高綱が無事に勝ったのでした・・・というエピソードが平家物語には残されています。
宇治川の先陣争いエピソードから、源頼朝率いる関東軍団が一枚岩ではないことがわかりますね。各々の武将は我一番に武功をあげんと互いをライバル視していたのです。切磋琢磨するのはいいことですが、これはもろ刃の剣でもあります。源頼朝が、1181年の富士川の戦いでの圧勝の後、その勢いで上京せず一度鎌倉に戻り関東武士たちを束ねるために時間を費やし、木曽義仲に先を越されたのにもそれなりの理由があったというわけです。そんな源頼朝と関東武士の状況がこのエピソードからは伝わってきます。
宇治川の戦い後 ー木曽義仲の死ー
宇治川の先陣争いからわかるように源義経軍は血気盛んな武将が数多く揃っていました。弱体化し、兵数も少ない木曽義仲軍に源義経軍を討つ力はもはやなく、宇治川での戦いは木曽義仲軍の惨敗に終わります。
宇治川は平安京の最終防衛ライン。ここを破られるということは、源義経の平安京入りを許したのと同義になります。「宇治川防衛ライン破れる!」の報告を受けた京の木曽義仲は、まだ辛うじて踏ん張っている瀬田川防衛部隊へと合流。しかし、その瀬田川も源範頼により突破されようとしていました。
自らの敗北、そして自らの死を覚悟した木曽義仲は、こうして最後の死地へ赴いてゆきます。
粟津の戦い
源範頼軍に瀬田川を突破された木曽義仲はそこから逃れんと必死に逃げ回ります。木曽義仲の兵はその逃亡中、次々と命を落としてゆき、残るは遂に腹心の今井兼平(いまいかねひら)という人物のみ。
ちなみに、今井兼平は親こそ違うものの木曽義仲とは同じ乳母の元で育った木曽義仲の兄。両者の関係は相当に親しいものでした。
今井兼平「もはやこれまで、私が時間を稼ぎますから粟津の方へ逃げて静かにご自害ください」
木曽義仲「いや、俺は兼平と最期を同じくしたいと思い、平安京では恥を忍び背を向けてここまで逃げて来たのだ。一思いに最期は2人で討ち死にしようぞ」
今井兼平「殿が名もわからぬ源範頼軍の一兵卒に討たれると思うと、私は無念でたまりません。どうか最後の私の望み、どうかお聞きください・・・」
こう最後に言い放ち、今井兼平は一人敵陣へと特攻してゆきます。その姿をみた木曽義仲は、今井兼平のいう通り粟津へ逃げ込み自害を図りますが、途中で馬の足が止まり、今井兼平のことが気になり後ろを振り向いたところで顔面に矢を射抜かれ死亡。
「木曽義仲の首討ち取ったり!!!」
その声を聞いた今井兼平も「殿を失ってはもはや戦う意味などない。東国の武士たちよ、しかと見よ。これこそが日本一の豪傑による自害の見本ぞ!!」
こうして今井兼平は、刀を口から刺し込み、木曽義仲の後を追って自害。源平合戦の主役の1人である木曽義仲が遂に滅ぶことになります。
【木曽義仲】
【今井兼平】
宇治川の戦いまとめ
宇治川の戦いに勝利した源頼朝はその後、後白河法皇から正式に平家追討の命令を受け、平家との最終決戦に挑みます。その最初の大きい戦いが、源義経の逆落としで有名な一ノ谷の戦いになります。
「平家物語」は無常観の中で平家の盛者必衰を描いた物語ですが、倶利伽羅峠の戦いの勝利から宇治川の戦いの敗北を知れば、木曽義仲の生涯もまた盛者必衰の理を体現していると言えるのではないでしょうか!
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