今回は、1651年(慶安4年)に起きた慶安の変(由井正雪の乱)について、わかりやすく丁寧に解説していくね。
慶安の変(由井正雪の乱)とは
慶安の変とは、由井正雪という人物が幕府に対して謀反を企てた事件のことを言います。なので「由井正雪の乱」と呼ばれることもあります。
慶安の変が起きたのは1651年、ちょうど4代将軍の徳川家綱が将軍位に就いた年に起こりました。
慶安の変は、計画が幕府にバレてしまったため、暴動に発展することはありませんでした。
・・・しかし、慶安の変によって民衆の間で幕政への不満が高まっていることを知った江戸幕府は、事態を重く受け止め、幕政の大きな見直しが行われるようになりました。
慶安の変は未然に防がれたので、事件としては決して大きな事件ではありません。
・・・ただ、幕政の方針を大きく変えた事件となったため、歴史的には重要な事件だと言われていて、だから高校の教科書にも重要ワードとして登場しているよ。
慶安の変の首謀者、由井正雪
慶安の変の首謀者である由井正雪は軍学(兵学)者でした。
※軍学:その名のとおり兵法や戦術、築城など軍事に関する研究者のこと。
由井正雪は、幕府からスカウトを受けたこともあるほどの優秀な軍学者で、慶安の変を起こした当時は、江戸で「張孔堂」という軍学塾を開いていました。
張孔堂には立身出世を目指す武士たちがたくさん集まり、仕える大名を失ってリストラされた武士「牢人」たちも張孔堂に多く出入りしていました。
この牢人たちの存在が、慶安の変に大きく関係してくることになります。
牢人たちの鬱憤
繰り返しになりますが、牢人っていうのは、仕える大名を失ってリストラされた武士のことを言います。
当時の日本には牢人が大量に溢れており、路頭に迷う牢人が社会問題の1つになっていました。
今でも不景気で会社がたくさんリストラを行えば、失業者が増えて社会問題になるよね。それと似たようなことが江戸時代の武士たちの間で起きていたんだ。
牢人が大量に発生した理由は主に2つ。
理由①:関ヶ原の戦い・大阪の役で徳川軍に敗れた多くの大名たちが失脚してしまった。
理由②:大名統制のため、法や幕府の命令に背いた大名には厳しい制裁を課し、問答無用で改易(※)を行った。
※改易:大名の地位や所領を没収する刑罰のこと。改易されて大名の地位を失ったり所領が少なくなると、仕えていた武士たちもリストラされ、牢人となりました。
リストラされた大量の牢人たちが生き残る術は大きく3つありました。
・・・が、いずれも狭き門であり、現実には多くの牢人たち路頭に迷うことになりました。
方法①:武士の身分を諦めて町人・百姓になる
異業種への転職であり、今風に言えば銀行員がプログラマーになるようなもの。簡単なことではありません。
おまけに町人・百姓は武士より身分が低いとみなされていたので、町人・百姓になることはメンタル的にも困難を伴いました。
方法②:別の大名に仕える(再仕官)
一見問題なさそうに感じる方法ですが、これもダメでした。
というのも、江戸時代になって平和が続いたせいで大名が多くの武士を雇う必要はなくなっていたし、むしろ参勤交代などによる負担増によって雇う武士を削減する大名も増えていたからです。
方法③:戦乱に乗じて立身出世を目指し、一発大逆転のワンチャンを狙う
残された手段は、戦国時代の下剋上のように戦功を立てて、一発大逆転を狙う方法です。
この方法も、大阪の陣・島原の乱以降、日本には平和が訪れており戦乱の気配がなくなっていたため、現実的な方法ではありませんでした。
・・・ただ、行き場を失った牢人にとって、③の方法こそが唯一の希望となっていて、多くの牢人が内心では社会の混乱を待ち望んでいました。
もう一度戦乱が起これば、ワンチャン再起できる!
誰かこの国をもっと乱してくれ・・・!!
牢人たちの心境を理解していた由井正雪は、大量の牢人を出してしまった幕政に憤りを感じるようになっていきました。
由井正雪が憂いた武断政治
由井正雪が何に憤っていたかというと、大名を武力によって威圧する幕府の武断政治に対してでした。
江戸幕府が開かれた当初は、まだ幕府に敵対する豊臣軍の残党が残っていたり、江戸幕府に不満を持って怪しい動きをする大名がいたりと、幕政はとても不安定なものでした。
そのため幕府は、不穏な動きをする大名がいれば容赦なく改易し、逆らえば兵を送り込み、その度に牢人が多く発生しました。
また、江戸時代初期の大きな戦乱となった大阪の陣・島原の乱では、再起のチャンスを求めて多くの牢人たちが幕府に抵抗をしてきました。
すると幕府は、牢人の居住地を厳しく制限したり、新たな大名への仕官を禁じたり規制を強めたため、牢人への風当たりはさらに強まってしまいました。
ただでさえ生活する術がないのに、幕府がさらに追い討ちをかけてくる。
もう盗賊になったり、社会の闇で生きていくしかないじゃん。昔は大名に仕えて、真面目に働いてたのにこんな仕打ちないよ・・・。
由井正雪、立つ
由井正雪の憤りは、1651年に4代将軍の家綱が将軍位に就いたことでピークを迎えます。
家綱は父の家光の死を受けて、わずか11歳で将軍となりました。
もちろん、幼い家綱では幕政を担うことはできず、幕政は側近たちの手に委ねられました。
家綱は江戸時代で初めての幼少将軍であったため、幕府内は強い警戒感に包まれます。
将軍が幼いことをいいことに、政治の実権を握って好き放題する側近が現れるかもしれない・・・。
そんな中、松平定政という大名がこんなことを言って大名の地位を捨て出家する事件が起こります。
私はこの命を賭して家光殿に忠誠を尽くしてきた。
今後も家綱殿に忠誠を尽くそうと思ったが、側近たちの様子を見ると世が乱れる兆候がする。
これでは忠誠を尽くすことはできないから、私は出家する。今まで与えられていた領地はもういらないから、全部幕府に返す。
幕府は、松平定政が突然大名の地位を投げ出し、さらにその様子が異常であるのを見て、単に気が触れただけで謀反の疑いなしと判断し、申し出は認められ、松平定政は出家することとなりました。
幕府が自らを省みることなく、幕政を憂いて出家した松平定政のことを気が触れたと一方的に決めつけると、由井正雪の憤りはいよいよピークに達し、謀反を企てることになります。
慶安の変の計画
由井正雪の計画は、ザックリこんな感じでした。
- STEP①江戸の火薬庫を爆破。その後各所に放火し、慌てて江戸城にやってくる老中たちを鉄砲で撃ち取り、そのまま江戸城を乗っ取る
- STEP②駿府でも同じことをして、駿府にある金銀を奪い軍資金とする。
- STEP③大阪でも似たような事件を起こす。
- STEP④江戸や大阪にはその日暮らしの牢人がたくさんいるので、騒ぎを起こせば牢人たちが呼応して騒ぎを起こす。
- STEP⑤江戸・大阪の騒乱に乗じて、幼少の家綱を取り巻いている側近たちを排除して、幕政を改革する。
由井正雪は仲間を、江戸・駿府(現在の静岡市)・大阪の3グループに分け、自らは駿府へと向かいました。
・・・ところが、江戸を担当していた仲間の一部が、由井正雪の計画を幕府に密告。
まず、江戸グループのリーダーだった丸橋忠弥が捕えられ、その後、駿府に到着していた由井正雪にも追手が迫ります。
由井正雪は、幕府に捕えられるよりも自死することを選び、駿府で命を落としました。
この由井正雪による謀反未遂事件のことを、当時の元号にちなんで慶安の変と言います。
由井正雪の置き手紙
由井正雪は事実する際、置き手紙を残しており、犯行の動機をこう語っています。
私のことを反逆者と幕府は思っているかもしれませんが、私ごときがどうやって上様(将軍のこと。)を倒すことができましょう。
幕府の無策によって上も下も皆が困窮していることに、良心のあるものならば悲しみを抱かない者はいないでしょう。
先に松平定政が幕府を諌めるため、大名の地位を投げ捨てたましたが、幕府がこれを気が触れたせいだと決めつけ、定政殿の志が無駄になってしまったことは、天下にとって大きな嘆きであり、上様にとっても良くないことです。
そこで私は未熟ながら、天下困窮の原因である上様の側近たちを排除するため、謀略を企て、人を集めました。
籠城して時間を稼げば、私に賛同して者たちが立ち上がるであろうから、そうなれば幕政が良くなると思いましたが失敗に終わりました。
参考文献:日本の歴史〈16〉元禄時代 (中公文庫)
由井正雪は、困窮に苦しむ牢人たちを救いたいという想いから、現状を打破しようと命を賭けて立ち上がったわけなんだね・・・。
慶安の変が幕政に与えた影響
慶安の変は、事件こそ未遂に終わったもののその後の幕政に大きな影響を与えました。
このまま牢人を野放しにしていると、由井正雪に続く反乱者が現れかねない。なんとか対策せねば・・・。
これまで幕府は、武断政治によって大名を厳しく監視し、その結果、牢人がたくさん発生していました。
・・・が、慶安の変以降、幕府は大名を厳しく統制するよりも、牢人による治安悪化を問題視するようになりました。
幕府はこれまでの武断政治をやめ、法や思想によって大名たちを統制する文治政治へと幕政の方針を転換。
幕府は、法規制の見直しや、儒教の教えを活かした統治を行うようになり、武力で大名を抑えつける幕政は行われなくなっていきました。
末期養子の禁止の緩和
慶安の変の後、さっそく法規制の見直しが行われます。
どんな見直しかというと、末期養子の禁止を緩和したのです。
・・・いきなり出てきた「末期養子の禁止」ってなに??
末期養子というのは、子がいない大名が病気・事故で当然亡くなりそうになった時(末期)、大名家の断絶を防ぐため要旨を向かい入れて後継者とすること。
そして、それを禁止するのが末期養子の禁止です。
幕府は大名を統制するため、後継者を定めたときは事前に幕府へ報告するよう大名に命じていました。
ところが、末期養子だと、幕府に報告せずに後継者が決まってしまうことがあり、幕府に逆らう人物が大名になる可能性もあったので、幕府は末期養子を原則禁止としました。
・・・ただ、末期養子を禁止にすると、大名が後継者を定めないまま急死した場合、大名家が断絶してしまいます。すると、その大名家に仕えていた武士たちは主君を失い、その結果、牢人となってしまう者が続出していたのが慶安の変が起きた当時の現状でした。
慶安の変の後、幕府はすぐに末期養子の禁止条件を緩和して、大名家の断絶を防ぐことで牢人がこれ以上増えることを防ごうと試みたのです。
慶安の変と末期養子の禁止の緩和は、密接に関わっているからセット覚えてしまいましょう!
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