【橘諸兄】
今回は、橘諸兄(たちばなのもろえ)という人物について紹介します。橘諸兄は奈良時代中期、左大臣として朝廷トップで活躍した人物です。
奈良時代の朝廷は、皇族と藤原氏が権力の座を巡り争っていた時代です。この両者の争いは、超絶金持ちエリートだった長屋王という皇族が729年に藤原氏の策略で自殺に追い込まれて以後、藤原氏の圧倒的勝利に終わります。藤原氏は朝廷の主要な役職を占め、朝廷を支配しました。
ところがその後737年、平城京内で天然痘が大流行し、朝廷の役人達も次々と亡くなっていきます。この天然痘により、朝廷を支配していた4人の藤原氏達がみんな死んでしまいます。(これは長屋王の祟りだ!なんて言われることもあります。)
こうして、自然の猛威によってスカスカになってしまった朝廷内において、代表者に抜擢されたのが皇族出身の橘諸兄です。
710年以後の奈良時代初期〜中期の政権運営は、
藤原不比等(藤原氏)→長屋王(皇族)→藤原四兄弟(藤原氏)→橘諸兄(皇族)
という感じで偶然にも藤原氏と皇族が交代して政権運営することになりますが、その皇族代表の1人が橘諸兄ということになります。
橘諸兄の系図
【参考:藤原不比等の系図】
橘諸兄は、橘三千代(たちばなのみちよ)と美努王という皇族との間に生まれた息子です。橘諸兄が朝廷で活躍できるようになった理由は、母の橘三千代の立場にあります。実は橘三千代は、聖武天皇の皇后である藤原光明子の母だったのです。
つまり皇后(藤原光明子)と橘諸兄は、異父兄妹の関係にありました。この関係こそが、橘諸兄が朝廷トップに躍進した理由になります。
臣籍降下(しんせきこうか)
この時代、皇族と言うと「〜王」とか「〜皇子」とか呼ばれることが多いですが、橘諸兄の名前はそうなってはいません。実は橘諸兄は臣籍降下と言って、皇族だけれども「橘(たちばな)」と名で、皇族から独立した人物なんです。複雑そうな話ですが、そんな難しい話ではありません。
当時の皇族の財政基盤は当然税金です。ところが時代が進むに従い、皇族を支える財政が次第に苦しくなってゆきます。これも当然で、世代を積んでゆくと、皇族の血が流れる者が指数関数的に増えてゆくからです。
つまり皇族の財政基盤を保つためには、必ずどこかで皇族の人数を減らす必要があるのです。そして、皇族を減らすために皇族が「皇族の身分を辞める」ことを臣籍降下と言います。厳密には違うかもしれませんが、皇族のリストラ・・・というイメージがわかりやすいと思います。
あまり知られていないかもしれませんが、源平合戦で争うことになる源頼朝や平清盛は臣籍降下した天皇の末裔の血筋を引いています。そして、室町時代に登場する足利尊氏や足利義満も同じく臣籍降下した皇族の末裔です。日本の歴史において、臣籍降下は意外と重要な要素だったりします。
橘諸兄の政治
737年に藤原四兄弟が亡くなってから756年までの約20年の間、橘諸兄は朝廷の中心に位置し政治を司りました。
おそらくは聖武天皇の意向もあったかと思いますが、橘諸兄政権の最大の特徴は、身分などにあまり拘らず、遣唐使帰りの優秀な人物を積極的に朝廷の要職に就けたことでしょう。その代表格が、玄昉と吉備真備という人物でした。玄昉と吉備真備は、当時その身分からは想像できないほどの優遇を朝廷から受けることになりました。
このような人事は、身分の高い人々から見れば既得権益が犯される許す難い人事です。ところが、737年の天然痘で多くの人材が失われており、意外にもそこまで強い反発はありませんでした。
ところが740年、藤原広嗣と言う人物が朝廷内で橘諸兄や吉備真備など藤原氏以外の人物が活躍していることに不満を覚え、九州地方で反乱を起こします。
藤原広嗣の乱は鎮圧され橘諸兄の反乱分子は消え去りますが、この乱以降、聖武天皇は政治的に迷走し始め、聖武天皇を支える橘諸兄の周りも非常に慌しくなります。
聖武天皇の無謀な遷都と大仏建立
740年、聖武天皇は突如として放浪の旅を始め、遷都を望むようになります。この放浪の旅は5年間に及び、その間、遷都の準備などで多くの人々が駆り出され、財を浪費してしまいます。
さらに745年、聖武天皇は突如として大仏建立を宣言します。当時の財政事情では遷都と大仏建立という大事業を2つを同時並行で行うのは不可能であり、この時遷都は取りやめとなりますが、この迷走する聖武天皇の政治に橘諸兄は右往左往し慌ただしい日々を送っていたはずです。
橘諸兄の対抗勢力、藤原仲麻呂
橘諸兄は聖武天皇の迷走する政治に翻弄される一方で、藤原氏の代表格として頭角を現しつつあった藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)との権力闘争にも苛まれることになります。
藤原仲麻呂は、聖武天皇の皇后である藤原光明子の甥っ子にあたり、皇后の権力・権威を後ろ盾に橘諸兄より官位は低いものの、朝廷内での影響力を強めてゆきます。
玄昉・吉備真備、没落
745年、具体的に何があったかは不明ですが、橘諸兄のブレーンであった玄昉が政界・仏教界から排斥されます。さらに746年、藤原仲麻呂が式部省(しきぶしょう)という人事考課を司る部署の代表に就任すると、もう1人のブレーンである吉備真備が750年に太宰府へ左遷させられます。
これに加え749年、聖武天皇と光明皇后の娘である阿倍内親王という人物が孝謙天皇として即位すると光明皇后や孝謙天皇とも親密だった藤原仲麻呂はますます朝廷内での影響力を増していきます。
藤原氏と皇族のパワーバランスは、
藤原不比等(藤原氏)→長屋王(皇族)→藤原四兄弟(藤原氏)→橘諸兄(皇族)→藤原仲麻呂(藤原氏)
と再び藤原氏優勢な展開となります。こうやって政権中心者の移り変わりを見てみると、奈良時代の朝廷内では熾烈な権力争いが繰り広げられていたことがよーくわかります。
嵌められる橘諸兄
不穏な動きによって、玄昉と吉備真備というブレーンを失った橘諸兄ですが、藤原仲麻呂の魔の手は橘諸兄本人にも忍び寄ります。
755年に行われたとある酒宴で、橘諸兄の側近の人物がこんなことを言います。「主人の橘諸兄様が、朝廷を誹謗しております。これは謀反の前兆かもしれません・・・。」と。こうして橘諸兄は謀反の嫌疑をかけられました。当時は、大仏建立やたび重なる遷都により民は疲弊し、確かに朝廷に対する批判が出てもおかしくない情勢だったのです。
酒宴の後、聖武上皇は橘諸兄の謀反疑惑について報告を受けますが、あまりに荒唐無稽な話だったせいか、聖武上皇はこれに取り合おうとはしませんでした。
しかし、酒宴の話を後から聞いた橘諸兄は、そのような噂が流布していることを重く受け止め、自ら職を辞するにまで至りました。
756年に左大臣を辞職し、その翌年757年に橘諸兄は失意の中で亡くなります。
立ち上がる橘奈良麻呂
上述の酒宴の話は、何も知らないと「エッ!?なんでそんなことで橘諸兄は仕事辞めちゃうの!?」と不思議に感じますが、実は当時の朝廷では皇位継承をめぐり緊張した空気が漂っていました。そんな中、謀反の話が広まるということを橘諸兄は深刻な事態として受け止めたのだろうと思います。(当時の政争では、謀反の嫌疑をかけられただけで命を奪われかねないのです。)
この讒言の裏には、おそらく橘諸兄を邪視していた藤原仲麻呂の暗躍があったはずです。
皇位継承問題が勃発した理由は、749年に即位した孝謙天皇に理由があります。
女帝、孝謙天皇
孝謙天皇は日本で数人しか存在しない女帝の1人でした。そして日本では、女帝は全て独身でなければならないという暗黙のルールがありました。(詳しい話は省略しますが、これはおそらく女帝とは皇位継承の繋ぎ役でしかなく、女系を直系とする天皇を日本は認めなかったからだと思います。)
つまり、独身のまま即位した孝謙天皇には、子供が産まれる見込みがなかったのです。そのため、朝廷内では孝謙天皇が即位するとすぐに次期天皇をめぐる皇位継承問題が浮上しました。
この時に、立ち上がったのが亡き橘諸兄の息子である橘奈良麻呂でした。
橘奈良麻呂の乱
橘奈良麻呂は、朝廷内で攻勢を強める藤原仲麻呂と仲麻呂と親密な関係だった孝謙天皇を強く敵対視していました。
そこで、橘奈良麻呂は別の皇族を擁立しようと密かに裏で動いていました。女帝孝謙の子が産まれることは想定できない以上、皇位継承争いを避けて通ることはできず、擁立すべき皇族は数多く存在していたのです。(当時は、天武天皇の血筋であれば天皇の資格があると考えられていました。)
しかし、橘奈良麻呂の打倒藤原仲麻呂のための天皇擁立クーデター計画は事前に露見し、橘奈良麻呂をはじめ多くの人物が罰せられ、橘奈良麻呂は処刑されました。
こうして、橘諸兄、奈良麻呂親子はいずれも藤原仲麻呂の手によって権力の座を奪われ、命を奪われてしまったのです。
まとめ
橘諸兄が生きた時代の朝廷は、皇族と藤原氏の対立が激化し、多くの権謀術数が渦巻く過酷な世界でした。
そんな中、橘諸兄は737年から756年の長い間、巧みに政治の世界を生き抜いてきました。地味ながらも過酷な権力争いに耐え続け、聖武天皇の無茶苦茶な政治を影から支えた人物が橘諸兄という人物であったのだろう・・・と思います。(個人的な意見です。)
しかしながら、晩年になると聖武天皇の皇后である藤原光明子の権威を背景に藤原仲麻呂の力が増し、橘諸兄は失意のうちに官位を辞すこととなり、さらに息子だった橘奈良麻呂も藤原仲麻呂によって滅ぼされ、朝廷内では藤原氏の力がより一層増すことになってしまいます。
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