今回は壬申の乱の勝者で有名な天武天皇について紹介します。天武天皇は、「日本という国の原形を作り上げた!」と言っても過言ではないほど、日本に大きな影響を与えた人物です。その影響は日本史の中でもおそらくトップクラスに入ることでしょう。
全てを詳細に話すと超長文になってしまいますので、ダイジェスト方式で天武天皇について紹介してみたいと思います。
天武天皇と天智天皇の関係とは
天武天皇は、天智天皇と同母弟の関係にありました。
天智天皇が在位している頃、天武天皇は大海人皇子として天智天皇を補佐するポジションを担っていました。また、同時に次期天皇候補でもありました。
ところが、天智天皇の息子である大友皇子が成長すると事情が変わってきます。最初は大海人皇子を次期天皇と考えていた天智天皇ですが、息子が優秀な人物に育つにつれ次第に心変わりをしていきます。
そして、遂に大海人皇子を次期天皇候補から外し、息子の大友皇子を次期天皇に指名し直すまでに至りました。
自らが皇位に相応しいと自負する大海人皇子は当然これに納得しません。こうして、大海人皇子と大友皇子の関係が悪化するわけですが、672年に天智天皇が亡くなったことで、大海人皇子と大友皇子の皇位継承をめぐる争いが始まりました。これが古代最大の内乱と呼ばれる壬申の乱です。詳しくは以下の記事をどうぞ。
天武天皇の政治とは
天武天皇の政治の最大の特徴は、天皇の権力・権威をより一層高めるために様々な政策が打ち出された点にあります。実に多くの政策を実行してゆく天武天皇ですが、根本的なところには「天皇権力・権威の強化」という狙いがあります。
壬申の乱の際、既得権益を有している者の多くは大友皇子側として参戦していたため、天武天皇の勝利によって政治的に邪魔になりうる勢力の多くは一掃されていました。
それに加え、何と言っても天武天皇にはカリスマ性があり、多くの人を惹きつける魅力を有していたと言われています。
このような時代背景と天武天皇のカリスマ性が、乙巳の変以後の日本の課題であった天皇権力・権威の強化をより一層推進することになりました。
天武天皇の行った事業は非常に多岐に渡ります。ここでは1つ1つ概要だけ紹介します。
天武天皇の功績その1:八色の姓
天武天皇は、天皇とその他の氏族たちの身分の差をより明確にするため、八色の姓(やくさのかばね)という新しい身分秩序を制定します。
八色の姓を理解するには、氏姓制度という当時の日本の政治制度を知る必要があります。詳しくは以下の記事で紹介していますので、参考にどうぞ。
八色の姓の導入以前は、氏族ごとに臣(おみ)・連(むらじ)などの身分がありましたが、八色の姓は主に天皇との血縁関係を中心に新しい秩序で身分の序列化を図りました。
八色の姓の目的は、天皇家の血統を利用し天皇権力・権威の強化を図ることです。そのため、上位の身分は皇族が占め、天皇との血縁関係のない者はどう頑張っても高い身分の氏族にはなれませんでした。
天武天皇の功績その2:古事記・日本書紀の編纂
天武天皇は歴史書の編纂も行いました。こうして編纂されたのが古事記と日本書紀です。完成したのは天武天皇死後ですが、編纂作業を始めたのは天武天皇です。
特に古事記は天皇の血統の正当性を証明するために編纂された書物であり、古事記の編纂によって初めて天皇が天照大神の子孫として公式に認識されることになります。そして、氏族ごとの天皇家との関係も古事記の中で体系的な整理が行われました。
八色の姓もそうですが、天武天皇は徹底的に天皇家の血統の希少性を活用し、天皇権力・権威の向上を図ったというわけです。
天皇=天照大神の子孫という現代の常識は、天武天皇によって初めて体系的に整理されました。
天武天皇の功績その3:神道の形成
天武天皇は、天皇=天照大神の子孫という体系的な整理を行うと同時に、神道を形成しました。日本は八百万の神を信仰する国。天武天皇は、各地の神を祀る祭儀を朝廷公式の儀礼の中に取り込むことにしました。各地の祭儀を天照大神の子孫である天皇が体系的に整理することで、信仰面からも天皇権威の強化を図ろうとしたのです。
これに合わせて、伊勢神宮が天皇家の氏神(天照大神)を祀る神宮として信仰されるようになったのも天武天皇の時代になります。伊勢神宮が選ばれた理由は、壬申の乱の際、天武天皇が伊勢神宮に向かって必勝祈願をしたからだ・・・と言われています。(おそらくは壬申の乱以前から伊勢神宮と天皇家との関わりがあったのだと思う。)
天武天皇の功績その4:国家仏教の形成
天武天皇は神道を形成する一方、仏教を国家によって保護する政策を打ち出します。奈良時代、聖武天皇を筆頭に国家単位での仏教信仰が進みますが、その原型を作ったのが天武天皇でした。
天武天皇の功績その5:飛鳥浄御原令の編纂
天武天皇は、唐のような律令国家を目指すため律令の編纂も行いました。それが飛鳥浄御原令(あすかきよみはられい)です。飛鳥浄御原令は原本が存在しないため、どのような内容だったのかは不明ですが、701年に制定された本格的な律令「大宝律令」の前身となるものでした。
また、時期に諸説ありますが、この飛鳥浄御原令によって初めて「日本」という国号が用いられたと言われています。日本が「日本」と呼ばれるようになったのも天武天皇の時代かもしれないのです。
天武天皇の功績その6:藤原京の建設
天武天皇は唐を参考とした新たな都、藤原京の建設を開始します。天武天皇は、ソフト面は飛鳥浄御原令、ハード面は藤原京を建設することでこれまでの日本にはなかった本格的な律令国家を築き上げようと考えたのです。
このように壮大な都市計画を作り上げ、実行したのが天武天皇でした。これらの政策は、天武天皇の強いカリスマ性と強力なリーダシップがあって初めて実現できる政策と言えます。
吉野の誓い ー皇位継承問題の憂いー
天武天皇は、兄だった天智天皇や甥っ子だった大友皇子との熾烈な戦いを勝ち抜いて天皇になりました。
天武天皇には多くの子供達がいたため、子供達が自分のように身内同士で争うことがないよう、吉野に一同集まって誓いを立てます。
以下、その有名なワンシーンです。
天武天皇「兄弟同士で争ってはならぬ。1000年後まで永遠に争いが起こらぬよう盟約を立てようぞ」
子供ら一同「仰せの通りでございます。盟約を立てましょう」
草壁皇子「天地の神々、そして天皇に誓います。皆、母親が違えども争うことなくお互いに助け合って生きていくことを。もしこの誓いを破るようなことがあれば争いが起こり、子孫は滅ぶことになるでしょう。」
他の子供ら「(順番に1人づつ、草壁皇子と同じように誓いを立てる)」
天武天皇「ああ、我が息子らよ。私はお前たちを同じ母から生まれた子として慈しむだろう」
天武天皇は胸元を開き、子供たちを抱擁します。天武天皇は子供たちを皆、皇后(持統)の子であるように平等に扱おうとしました。
これは「吉野の誓い」と呼ばれる有名なワンシーンで、皇位継承問題を憂いた天武天皇が考え抜いた苦肉の策でした。
しかし、誓ったところでその誓いが守られる保証など全くありません。実際に、吉野の誓いはあまり意味をなさず、天武天皇が亡くなった後、子供達が平等に扱われることはありませんでした。絶大な権力とカリスマを持った天武天皇ですら皇位継承をスムーズに行うことは難しかったのです・・・。
後を皇后に託して・・・持統天皇即位
686年、天武天皇は亡くなります。天武天皇は上述したように様々な政策を展開しましたが、大事業がばかりだっため、天武天皇在位時に完了した事業は実はあまりありません。古事記・日本書紀の編纂、藤原京建設、飛鳥浄御原令の編纂などは天武天皇自身が完成を見ることはありませんでした。
しかし、天武天皇には自らの事業をしっかりと引き継いでくれる頼りになる人物がいました。それが皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのみこ)です。鸕野讃良皇女は、天武天皇亡き後、女帝として即位し、夫の意志を引き継いで政治を行うことになりました。こうして即位したのが持統天皇です。
天武天皇は強力なリーダシップとカリスマ性で次々と新しい政策を打ち出していきます。そして皇后にも恵まれ、2代に渡り政策を持続させ、効果的な政策実行を可能にしたのでした。
日本神話の古事記を読んでみよう【おまけ】
この記事で少し触れた古事記ですが、古事記は日本神話として今現在も有名です。物語としてもとても面白いのですが、いかんせん知名度がありません。母国の神話を知らないのは日本人だけ!なんて言われることもあるそうです。ぜひ、古事記を一度読んで見ましょう!
【次回】
【前回】
コメント