さて、藤原道長の話ということで、延々と朝廷内の権力闘争の話をしてきましたが、朝廷内の話は一度やめて、地方で起こった出来事の話をしてみたいと思います。
今回は1019年起きた「刀伊の入寇」という事件について紹介します。刀伊の入寇事件は、当時の平安貴族たちがいかに地方統治に無関心で無能だったかがわかる象徴的な事件であり、平安貴族の権力闘争や優雅な儀式とは裏腹な地方の人々の様子を垣間見ることのできるなかなか興味深い出来事だと私は思っています。
刀伊(とい)の入寇って何?
「刀伊の入寇」とは、刀伊と呼ばれる一族が大陸から船で日本に渡ってきて、襲撃した事件を言います。
刀伊は大陸北部の蛮族!
刀伊は、女真族という大陸北部の蛮族であり、日本を襲撃してきたのは女真族の海賊です。当時の朝鮮半島は、高麗(こうらい)という国が統治していましたが、高麗を襲撃するだけでは飽き足らず、日本までやってきたのです。
それまでの海賊と決定的に違った刀伊の入寇
海賊の襲撃自体は、1019年の刀伊の入寇に始まったわけではありません。九州北部では、かなり昔から朝鮮半島の海賊に悩まされ続けてきました。しかし、これまでの海賊は朝鮮半島からの襲撃であり、野蛮人ではありません。言うなれば、朝鮮半島のアウトロー的な存在でした。それが、今回は野蛮人。この違いは、とても大きなものでした。
一国家のアウトローと野蛮人の決定的な違いは命に対する重みです。野蛮人は日頃から死を目の当たりにしているため、死に対して抵抗感が薄く、略奪行為に合わせ、残虐な行為を行う傾向があります。
殺戮される対馬・壱岐の人々
案の定、それまでの海賊襲撃とは違い、刀伊の襲来の際は多くの人々が殺されました。特に対馬と壱岐の被害は甚大なものでした。老人子供は斬り殺され、壮年の者は連れ去られました。家畜や犬までもが殺され、食われ、穀物は略奪され、民家は焼かれました。
特に壱岐に関しては、400人が殺し、さらわれ、島に残ったのはわずか35名という記録があるようで、その残忍ぶりを物語っています。
「こ、これは今までの海賊と明らかに違う・・・」
刀伊が襲って来たのは1019年3月28日、すぐに太宰府へ急報が伝えられました。その急報は4月7日に太宰府へと届きます。(十日ほども時間がかかったのは、命危うく逃れて来て余裕がなかった証拠ではないでしょうか)
そして、急報が届いたのと同じ4月7日、刀伊は九州に上陸し、再び残虐な行為を行いました。
平安時代の隠れた英雄、藤原隆家(たかいえ)
当時の太宰府の実質的な最高責任者は太宰権師(だざいのごんのそち)という立場だった藤原隆家という人物。隆家は豪傑であり、刀伊に対してもひるむことなく積極的に撃退戦を繰り広げます。優秀だった隆家が太宰府の責任者だったことは、まさに不幸中の幸いと言えるでしょう。
藤原隆家は、藤原伊周の弟であり、長徳の変という事件の関与者として凋落していった人物の一人です。
詳しくは以下の記事をどうぞ。
長徳の変以後、隆家は朝廷内での出世の道を閉ざされますが、それでも官僚として働き続けていました。しかし、1014年、眼病を患った隆家は、その治療を理由に太宰府へ行かせて欲しいと天皇に懇願します。この願いは叶い、隆家は太宰府へと向かうことになります。左遷して行かされたわけではないので、隆家の太宰府での生活比較的充実したものだったようです。実際に隆家がいた頃の太宰府は善政で評判が良かったとも言われていたそうな。
藤原隆家の豪腕ぶり
隆家の豪腕ぶりについては、多くの記録が残されています。隆家の豪腕ぶりを知ってもらうため、少しだけ豪腕エピソードを紹介しましょう。
権力者の道長に逆らう隆家
隆家は、数少ない三条天皇の味方として知られています。
三条天皇の妃に藤原娍子という人物がいます。その参内の儀は、本来壮大に行われるはずでしたが、これを嫌った藤原道長の妨害により全く人が集まらず、なんとも惨めな形で終わりました。
詳しくは以下の記事を参考にどうぞ。
しかし、隆家は道長に媚びることは一切せず、公然と娍子参内の儀に出席し、道長と対立する姿勢を露骨に示しました。
敵対する道長も認めた隆家の資質
一方、隆家はその藤原道長にも気に入られていました(立場的には敵対しますが、その人柄を良く評価していたようです。)。
道長が開いたとある宴の場。隆家は遅れて向かいましたが、皆すでに酔っており、服の紐を解いて盛り上がっていました。
道長「隆家も服の紐を解き、盛り上がろうではないか」
これに隆家がためらっているとある人がこんなことを言いました。「自分で解けないなら解いてあげよう」
この態度に怒った隆家は「俺は不幸な身(長徳の変で凋落した)だが、お前にそんなことを言われる筋合いはないわ!」と豪語します。そんな隆家を見て道長は「まぁまぁそんな怒るな」となだめ、宴を楽しんだと言われています。
道長もどちらかというと、豪快な人物だったので、隆家には親近感を覚えていたのかもしれません。
刀伊の入寇と朝廷のずさんな対応
4月7日に刀伊が九州に上陸した後、13日までの間各地で防衛戦が繰り広げられました。隆家は、裏で指揮をとるだけでなく、自ら戦場に赴き、積極的に刀伊へ戦を仕掛けていきます。そして、逃亡する刀伊を船で追い、追撃戦を行うことも忘れません。刀伊の船には対馬・壱岐でさらわれた日本人が多く乗っていたため、最後まで敵を叩いておく必要があったのです。
一方で、高麗との外交問題に発展することを恐れた隆家は、追撃戦はあくまで日本国境内に留め、深追いまではしなかったようです。豪傑と呼ばれる隆家ですが冷静さも持ち合わせており、統率力も備えていたようです(家族や友人を連れ去られ、刀伊憎しの人々を上手く統率したという意味で)。隆家の対応はパーフェクトと言っていいかもしれません。
朝廷に刀伊襲撃の報が届いたのは4月17日、その翌日に早速、会議が開かれます。こうして、各地に警戒態勢を敷き、優秀な働きぶりの者には勲功を与えること、などを決定しました。
勲功を巡る議論
6月29日、太宰府から届いた勲功者リストを参考に、再び高官たちによる会議が開かれました。しかし、その議論は「誰に勲功を与えるか?」ではなく、「勲功を与える必要があるかどうか?」という議論でした。
最初、「勲功など必要ない!」という意見が多数でした。その理由がなんとも酷いもので、「勲功を与える命令をしたのは4月18日なのだから、それ以前の戦について勲功を与える必要はない」というトンデモ理論でした。
襲撃された後に、報告するんだからその前から戦いが始まっているのは当然です。もしこの理論がまかり通ってしまうのなら、戦の初戦は絶対に勲功の対象にはならず、自ら率先して戦う者なんていなくなってしまいます。
結局、「そんなトンデモ理論じゃ、皆戦う意欲無くしちゃうよ」という意見も出て、最終的には勲功を与えることが決定されました。
貴族たちの危機意識の欠落
勲功は与えられたものの、その勲功はお世辞にも外敵を撃退した人々に与えられるようなレベルのものではありませんでした。めっちゃ活躍した隆家なんかは、全く何もなかった有様です。これは平安貴族たちが、九州で数千人が殺されたこの事件を軽視していたことを物語っています。
一方の貴族たちは、朝廷内では有職故実に則った儀式などを無事に遂行することによってドンドン出世していきました。平安貴族たちは、有職故実と儀式に夢中であり、もはや地方の出来事に関しては無関心であったというほかありません。
まとめ
以上、刀伊の入寇について紹介してみました!
今回は、刀伊の入寇の概要的なお話をしました。通史的にはマニアックな刀伊の入寇ですが、実は長嶺 諸近(ながみねのもろちか)という人物の面白いエピソードもあったりします。長嶺 諸近は、刀伊によって連れ去られた対馬の人物であり、刀伊の船を抜け出し家族を助け出すために密かに高麗へ密航し・・・という家族愛溢れるエピソードがあります。(結局、家族は皆殺されてしまいましたが・・・)これ以上は触れませんが、もしかすると別の記事で紹介することがあるかもしれません!
コメント
隆家が優れた人物であるのは間違いないですが、彼の優秀さを強調するために勲功の件をもって当時の上級貴族たちを無能と断じるのはいかがなものでしょうか。
当時は武士や豪族たちが徐々に力をつけ始めた時代で、地方ではそれらの者による私闘が頻発するようになっており、勅許がなければ武力を行使してはならないというルールは文人支配を維持する上で不可欠でした。それがなければもっと早く武士の世の中が来ていたか、悪ければ戦国時代のような戦乱の世が来ていてもおかしくありません。
当初藤原公任や行成らが勲功を与えるべきではないと主張したのも、そのようなルールに基づいた原則どおりの主張でした。これに対して藤原実資が例外として勲功を与えるべきと主張し、朝議では結局公任や行成も含めて全員一致で勲功を与えることを決定しています。
ここから伺えるのは、近代的な法の支配とは比べるまでもないとはいえ、平安の昔にもそれなりの法があって、まずは原則を検討し、都合が悪ければ例外を検討するという、今日と変わらない政策的決定や法的判断が行われていたということです。そしてそこではさまざまな考えを持った人が議論して、最終的にはひとつの結論を出すということも、今日と変わりません。平安時代というと文化的な側面ばかり注目されがちで、貴族たちは遊んでばかりいたという先入観があるのは仕方のないことですが、あなたが無能と断じた貴族たちも結論では勲功を与えることを決定しているのであり、それにもかかわらず本当に無能と言えるのでしょうか。