【藤原道長】
藤原道長は、平安時代中期に天皇の外戚という立場を利用し、最高権力者として権勢を振るった人物です。平安時代と言えば「藤原道長」と言っても過言でないぐらい有名な人物なので多くの人が知ってることと思います。
藤原道長が最高権力者として政治界のトップに君臨したのは有名な話です。ところが、藤原道長は具体的にどんなことをしていたの?という話になるとよく分からないという人も多いと思います。
この記事では、「藤原道長は最高権力者としてどんな政治を行なっていたか?」について簡単に紹介したいと思います。
藤原道長が朝廷内の最高権力者として君臨した理由は、藤原道長が担っていた「一上(いちのかみ)」、「内覧(ないらん)」というポジションにあります。
一上(いちのかみ)
まずは、当時の朝廷内の役職の仕組みについて説明します。
当時の官僚制度における役職、大納言→内大臣→右大臣→左大臣の順に偉くなります。(大納言以下は省略しています。)当時の日本は天皇を頂点とし官僚たちが政務を行なっていました。天皇が頂点とは言え、官位の高い者(貴族)も相当に強い権限を有していたので、貴族中心の政治が行われていました。現代のような議会制民主主義ではないので国会議員のような役割は存在しません。
そして、政務執行権限を持つ官僚の中で一番偉い人物のことを一上(いちのかみ)と言います。基本的には左大臣ですが、職務能力などによって柔軟に決められていたようです。
ここで重要なのは「政務執行権限を持つ官僚の中で」という点。官僚トップの左大臣が政務執行権限を持たない場合は、一上は右大臣以下の大臣になります。
では、官僚トップの地位にあるにもかかわらず、政務執行権限を持たないというのはどのような場合なのか?実は、この状態こそが大臣が摂政・関白の役職も兼務している場合なんです。
摂政・関白と一上
摂政・関白とは天皇の補佐役です。860年ごろ、政務能力を持たない幼少天皇、清和天皇が即位した際に藤原良房という人物が皇族以外の臣下として初の摂政となりました。(厳密には諸説がありますが、ここでは藤原良房が初の臣下による摂政と考えます。)
詳しくは、以下の記事で紹介しています。
摂政は、幼少天皇の代わりに政務を代行する役職。関白は、成人した天皇の政務を補佐する役職です。藤原氏は、天皇の補佐役のポジションを独占し、実質的に世襲することで権力を掌握することに成功しました。
摂政・関白の役職は、あくまで天皇の補佐役なので、自らは政務執行の権限は有しません。その代わりに、天皇が目にする文書の検閲権限という強大な権限を持っていました。これが内覧(ないらん)と呼ばれる権限となります(詳しくは後述します。)
以上をまとめると、一上は摂政・関白を除いた筆頭大臣(一番位の高い大臣)がなることが通例でした。
一上の仕事って何?
では、一上はどんな役割を担っているのでしょうか?
一上は、官僚のリーダー的な存在です。例えば、官僚たちが作り上げた報告書(主に地方の税金に関する話が多い)を天皇に見てもらう時には、一上が代表して天皇への報告の儀を行いました。この儀式のことを官奏(かんそう)と言ったりします。
そのほか、陣定(じんのさだめ)という重要会議のリーダー的役割も担っていました。
陣定(じんのさだめ)
陣定とは、一定官位以上の人物を集めて行う会議を言います。
議題は様々で、人事・外交・税・地方行政についてなどなど多くのことが議題になりました。また、陣定は、何かを決定するための会議ではなく、あくまで参加者の意見を集約するための会議でした。今般、会社で行われるような「何かを決定しよう!」とする会議とは少し違っています。
陣定によって出てきた意見は、天皇や摂政・関白へと報告され、陣定の内容も踏まえながら最終決定を天皇が行います。
一上は、陣定のリーダー的ポジションだったので、その発言には重みがあります。さらに、陣定後、その内容について天皇などと個別に相談することもあったので、強い権限を有していました。
摂政・関白は、天皇の補佐役として陣定による意見の報告を受ける側の立場になるので、会議での発言権はありませんでした。これは冒頭で説明した摂政・関白は政務執行能力を持たないというのと関連します。
藤原道長は、政務に対する発言権を固辞したいがために、特定の時期を除き摂政・関白とはなっていません。藤原道長は、左大臣(一上)として常に政治の最前線で影響力を持ち続けたのです。
内覧(ないらん)
この記事の前の方でこんなことを書きました。
摂政・関白の役職は、あくまで天皇の補佐役なので、自らは政務執行の権限は有しません。その代わりに、天皇が目にする文書の検閲権限という強大な権限を持っていました。これが内覧(ないらん)と呼ばれる権限となります。
内覧は、政務執行能力(政策の企画立案など)を持たない代わりに文書の検閲という強力な権限を有していました。例えば、どんな企画書を作っても内覧で却下されると、企画書は天皇の目にすら届きません。通常は摂政・関白が内覧の権限も有することが一般的でしたが、藤原道長は摂政・関白への就任を拒否し、摂政・関白の持つ内覧という権限だけを有するようになり、摂政・関白は置かれませんでした。
この辺りの話は以下の記事で少し触れています。
藤原道長が強大な権力を誇った理由
ここまで説明すれば、藤原道長が強大な権力を有した理由が見えてきます。
藤原道長は一上と内覧を兼務していました。どーゆーことかというと、自分の発言内容も含まれた報告書を、天皇に見せるかどうか自分で判断できるということになります。サラリーマンの方ならこれがどれだけ凄いことかすぐにわかるでしょう。
例えば、自分も参加した会議の内容を社長に報告するかどうか自分で決めていいことになります。天皇へ報告するかどうかを判断するのが内覧ですから、自分に不都合なら報告しなくてもいいんです。怠慢やわがままではなく、それが内覧の仕事なのだから。そんな会議を開けば、「俺の言うこと聞けやー!」と言わなくとも周りの人たちは必然的に藤原道長の望む内容を飲まざるを得なくなるわけです。
藤原道長は、強大な発言権と書類の閲覧権限という2つ強大な力を用いることで最高権力者となっていきました。
全ては藤原道長へ
藤原道長が、一上と内覧という強大な権力を掌握すると、道長の下には自分たちの要望を取り計らってもらおうと多くの人が馳せ参じるようになりました。もちろん賄賂も多くあったことでしょうし、媚びへつらいも多くあったことでしょう。
こうして、何をするにしても藤原道長に話を通す必要になったため、藤原道長に逆らえる者はいなくなっていきました。
藤原道長の外戚政治
以上のように、一上と内覧という地位が藤原道長が最高権力者として君臨できた理由となりますが、そもそもなぜ藤原道長はそのような地位を得ることができたのでしょうか?
それは、藤原道長が自分の娘を巧みに天皇へと嫁がせ、外戚の立場を盤石にしたからです。天皇の外戚の立場を利用し天皇に対し強い発言権を持つ、このような政治のあり方を外戚政治と言ったりしますが、外戚政治自体は藤原道長に始まったわけではなく、奈良時代から続く政治のあり方でした。(さらに遡ると大化の改新で破れた蘇我氏も該当します。)
一家立三后(いっかりつさんごう)
長い間続いていた藤原氏による外戚政治ですが、藤原道長の凄いところは、藤原道長が生きている間に、娘3人を皇后とすることができた点です。(これを一家立三后と言います。)
次回はこの辺りの話をもう少し詳しく紹介したいと思います。
【次回】
【前回】
コメント
摂政が、良房から始まるというのは違うと思います。たしかに良房は臣下の身で初めて摂政になりましたが、その始まりは厩戸皇子が推古天皇が女性の天皇だっから始まった制度であるはずです。
ご指摘ありがとうございます。その通りです。
正確には皇族出身以外の者で始めて摂政になった人物が藤原良房と紹介すべきですね。
記事を修正しました。