前回は、藤原兼家と兼通の摂関職を巡る兄弟争いについて見ていきました。
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結局、兄の兼通の勝利に終わり、弟の兼家は不遇の時代を迎えることになりますが、ライバルの兼通が亡くなった後、円融天皇に娘を入内させるなど、再び再起に向け動き始めます。
984年、円融天皇が譲位して天皇の位を花山天皇に譲ったとき、兼家に一発大逆転のチャンスが訪れます。
前回に引き続き、人間関係が複雑です。困ったら上の図を活用してください。(クリック・タップで別ウィンドウで開きます)
女同士の戦い
円融天皇は、関白となった藤原頼忠の娘である藤原遵子(ふじわらのじゅんし)を正妻(后)に迎え、遵子の生む子を次期天皇にするつもりでした。
円融天皇は、藤原兼家の娘である藤原詮子(ふじわらのせんし)も入内(嫁入り)させていましたが、詮子は円融天皇から冷遇され、詮子は天皇とは離れて暮らすようになります。
これは、后の座を賭けた女の戦いです。詮子はこの戦いに負けました。勝負の決め手は、「天皇に如何に好かれるか?」という点。
容姿・性格はもちろん、人間関係も複雑に絡み合っていました。円融天皇は兼家のライバルである兼通と友好的だったのもあって、兼家とは不仲とまで行かなくとも微妙な関係でした。そのため、兼家の娘である詮子は円融天皇から疎まれたと考えられています。
しかし、勝者である藤原遵子には、致命的な問題がありました。それは円融天皇との間に子を授からなかったことです。
一方、藤原詮子は子を授かっていました。これは大きな大きなアドバンテージになりました。藤原兼家は、ここを最大のチャンスと捉え、詮子の授かった子を天皇にするために人生を賭けることになります。
そして、そのチャンスは訪れます。984年、円融天皇が譲位し、花山天皇が即位したとき、歴史は大きく動こうとしていました。
後ろ盾のない花山天皇
花山天皇は、冷泉天皇と兼家の兄(長男)である藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の娘、藤原懐子(ふじわらのかいし)との間に生まれました。
藤原伊尹は既に亡くなり、伊尹の息子たちも1人を除いてすべて他界していました。そのため、花山天皇には、政治的に後ろ盾となるような存在がおらず、そこを藤原兼家に狙われることになります。
なぜそんな人物が天皇になるの?と思うかもしれませんが、藤原伊尹は生きている頃、強大な権力を持っており、死ぬ前にその権力によって花山天皇を皇太子にしていたのです。(もちろん、花山天皇が即位した頃には藤原伊尹は亡くなっていましたが)
また、花山天皇には子どもがいなかったため、皇太子には藤原詮子の子、懐仁(やすひと)親王が指名されました。懐仁親王がのちの一条天皇という天皇になります。藤原遵子との勝負には負けたけれども、最後の最後に逆転勝利したのが藤原詮子と言えるでしょう。藤原遵子が子に恵まれなかったというのが藤原詮子に幸いしました。
藤原兼家は、懐仁親王(のちの一条天皇)を一刻も早く即位させて、外戚として権力を得るため、花山天皇を早々に退位させようと考えます。
寛和の変(かんなのへん) -悲しみの花山天皇-
花山天皇退位のチャンスは、兼家が何もせずとも向こうからやってきました。
花山天皇には、女御(にょうご)が何人かいました。女御とは、ざっくりいうと、天皇の世話役で寝所にまで仕えた高貴な女性たちのこと。女御は次期皇后候補でもあったので、女性たちの憧れの存在でした。
花山天皇が即位した次の年、985年の7月、女御の中で特に花山天皇が気に入っていた女御が亡くなります。
この時の花山天皇の悲しみ方は、非常に激しいもので、常軌を逸していたと言われています。花山天皇は、寵愛する女御の死に絶望し、天皇を退位し出家しようと考え始めます。
※天皇のまま出家し、仏教の世界に入ることは基本タブーとされていました。これには、奈良時代末期に起こった道鏡(どうきょう)の事件が影響しています。詳しくは、仏と神はどっちが上?道鏡「天皇になりたい」称徳「だが断る」という記事で解説しています。
兼家の刺客、藤原道兼(ふじわらのみちかね)
藤原兼家は、これを孫の懐仁親王が天皇の即位できる大チャンスだと考えました。
ちょうど、兼家の息子である道兼(みちかね。似た名前ばかりで紛らわしい。)が蔵人(くろうど。天皇の側近)をしていたので、天皇の出家を後押しするよう道兼に命じます。
花山天皇「うぅ・・・、愛しき女御がいない世になど未練はない。天皇なんか辞めて出家しよう。しかし、これは国を動かす大事な判断だ・・・。本当に出家してしまってよいのだろうか・・・。」
道兼「出家すべきです。出家して女御の菩提を弔うことこそが花山天皇のなすべきことでございます。花山天皇とでしたら私も一緒に出家し。お供いたします。」
花山「道兼よ、そこまで言ってくれるか。決めたぞ道兼よ。俺は出家する!」
謀(はか)られる花山天皇
愛しき女御が亡くなった翌年、986年、道兼は天皇とともに出家するためにお寺へを向かいました。
兼家は、邪魔者が出家を阻止することがないよう武士を雇って周辺警護をさせるほどの用意周到さでした。
天皇が寺へ向かって部屋を留守にしている間、兼家は天皇の居室へと侵入し、天皇即位に必要な三種の神器(剣・鏡・玉)を孫の懐仁親王の下へ運び出します。やってることは完璧に泥棒です。
道兼はお寺へ向かう際中、花山天皇に向かってこんなことを言います。
道兼「最後に一度、私の姿を父である兼家に見せとうございます。兼家の家に寄っていきますので、先に出家の手続を行っていてください。(出家なんてするわけねーだろwww。言ってることはぜーんぶ嘘。とっとと出家してしまえ花山天皇www)」
こうして、道兼は一度花山天皇の下を離れますが、二度と花山天皇の下に戻ることはありませんでした。花山天皇は謀られたのです。
「道兼が戻ってこない。おかしいなぁ」と花山天皇が思ったころには、時すでに遅し。既に出家手続が終わってしまっていたのです。
こうして、花山天皇は、知らないうちに退位へ追い込まれてしまいました。この藤原兼家による花山天皇退位計画のことを寛和の変(かんなのへん)と言います。歴史の教科書にはあんま載っていないような気がします。
ちなみに、花山天皇は出家後、お寺巡りをした後に隠居生活をすることになります。
藤原兼家、悲願の摂政へ
花山天皇を退位に追い込むことに成功した藤原兼家は、花山天皇追放と同じ986年、孫の懐仁親王を即位させます。一条天皇の誕生です。一条天皇の即位により藤原兼家はついに念願の天皇の外戚となりました。もちろん、摂政の役職にも就いています。
前回の記事(藤原道長の父、藤原兼家が凄い!【円融天皇と藤原氏の権力】)から、藤原兼家の話をしてきました。兼家が急速な出世を遂げたのが冷泉天皇の頃(967年ごろ)ですから、そこから20年の年月をかけてようやく悲願を達成したことになります。
藤原道長の登場
さて、藤原兼家は、藤原道長のお父さんに当たります。兼家が摂政として政治の中心に立つようになり、ようやくその息子である藤原道長も歴史の表舞台に登場するようになります。
これまでは、藤原兼家と藤原兼通の兄弟争いでしたが、次は息子の代に移り、藤原道長も兄弟同士の熾烈な権力争いの渦に巻き込まれていくことになるのです。
藤原兼家の妻の日記、蜻蛉日記【おまけ】
実は、藤原兼家の妻が兼家との結婚生活について書き残した日記が今でも残されています。蜻蛉日記という日記です。兼家は、女たらしでいつもいろんな女と遊んでいました。そんなだらしない夫との切なき夫婦生活を書いたのが蜻蛉日記です。まさか、こんな日記が1000年後まで残るとは兼家自身、夢にも思っていないでしょう。
以下の記事で、蜻蛉日記について紹介しています。
【次回】
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