今回は、1924年に中国で起こった第一次国共合作について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
第一次国共合作とは
第一次国共合作とは、1924年に中国国民党と中国共産党が協力関係を結んだ出来事のこと。
「合作」というのは、中国語で「協力関係」という意味。
国共合作とは、中国『国』民党と中国『共』産党が『合作』した(協力した)という意味になります。
第一次国共合作は、1927年に一度崩壊して、1937年に再び合作が行われました。この2回目の国共合作は、第二次国共合作と呼ばれています。
第一次国共合作までのおさらい
まずは、第一次国共合作が行われるまでの中華民国の歴史をおさらいしておきます。
歴史をおさらいする上で抑えておくべきポイントは、孫文という革命家の行動です。
孫文の行動を理解することができれば、第一次国共合作についてもしっかりと理解できるはずです!
- 1911年辛亥革命、起こる
孫文をはじめとする革命軍が新国家樹立のため、清国で革命を起こす。
- 1912年清王朝が滅亡して、中華民国が建国!
清王朝の軍事を務めていた袁世凱が革命軍に寝返り、清王朝は滅亡へ。
清国打倒のため協力していた革命軍と袁世凱が、建国された中華民国のあり方を巡り対立するようになる。
- 1913年孫文、国民党を結成して袁世凱に対抗するも敗北。日本へ亡命する・・・
孫文は国民党を結成して選挙を有利に進めるも、袁世凱が軍事力を用いて国民党を弾圧。袁世凱は独裁政権を立ち上げる。
孫文は日本へ亡命して、再起のチャンスを狙う。
- 1914年孫文、日本で中華革命党を結成。再起に備える
袁世凱にリベンジするため、秘密裏に少数精鋭の同志を集めた中華革命党なる組織を結成する。
- 1917年孫文、再起。袁世凱の跡を継いだ段祺瑞を倒そうとするも、またもや失敗
- 1919年五・四運動を見た孫文は、新たに中国国民党を結成!
五・四運動で日本や列強国に猛抗議する民衆たちのパワーを知り、孫文は少数精鋭による革命ではダメで、民衆を巻き込んだ革命が必要であることを悟る。
孫文は、中華革命党を中国国民党へと改めるとともに、五・四運動の原動力の1つになっていた共産主義の利用を考える。
- 1921年中国共産党、結成!
共産主義国家のソ連の影響を受け、中国共産党が結成される
- 1923年第一次国共合作
中国国民党と中国共産党は、軍部による政権(軍閥政権)を倒すため、協力関係を結ぶ。
時代の流れを抑えたら、次は中国国民党と中国共産党について、もう少し詳しい紹介をしていくよ!
中国国民党
孫文は、革命によって清王朝を倒し、新しい国づくりをするため、過去に様々な組織を立ち上げてきました。
- 1894年興中会
孫文がハワイで立ち上げた組織。外国(清国以外の場所)に住んでいる中国人を中心に結成されました。
- 1905年中国同盟会
「打倒清王朝!」の志を持つ他の組織と合体して中国同盟会を結成。
- 1912年国民党
建国された中華民国の選挙で勝つために結成された政党。
政敵だった袁世凱に弾圧され、1913年に解散。中華民国に居場所を失った孫文は、日本に亡命する。
- 1914年中華革命党
袁世凱が率いる軍閥政権を倒すため、亡命先の日本で中華革命党を結成
- 1919年中国国民党
五・四運動で革命に民衆のパワーを取り込む必要性を痛感した孫文は、中華革命党を中国国民党に改め、革命のあり方を見直すことにした。
こうして時系列でまとめてみると、孫文の長年の苦難と反省の末に、中国国民党が結成されたことがわかります。
中国共産党
中国共産党結成の話は、1917年のロシア革命までさかのぼります。
1917年、ロシア革命によってロシア帝国(ロマノフ王朝)が崩壊。新たに社会主義を目指すソヴィエト政権が誕生しました。
ソヴィエト政権は多くの国から危険視され、国際的に孤立することになります。
なぜなら、多くの国が資本主義を採用していたので、『アンチ資本主義である社会主義思想が自国へ広まると、資本主義を前提としている国家が滅ぼされてしまうのでは?』と考えたからです。
そこでソヴィエト政権の指導者となったレーニンは、共産主義を目指す同志を増やすため、各国の労働階級(プロレタリアート)に革命を働きかけることにしました。
レーニンは1919年3月、ロシア革命に続く世界規模の革命を起こすため、コミンテルンと呼ばれる組織を結成。コミンテルンを通じて、世界各国でプロレタリアートによる革命運動を支援しました。
・・・が、ロシア革命に続く革命は起こらず、コミンテルンの思惑は失敗してしまいます。そんな中、革命成功の可能性を秘めていたのが中華民国でした
中華民国では五・四運動(1919年)でプロレタリアートが一致団結しており、さらに国内には共産主義を掲げる指導者も各地に点在していたのです。
中華民国に希望を見出したコミンテルンは、各地の共産主義指導者をまとめあげ、1921年、中国共産党を結成。中華民国での社会主義革命を目指しました。
第一次国共合作
ここで、孫文とコミンテルンそれぞれの目的を整理しておきます。
孫文
革命の完遂のため、大衆の力によって既存の政治勢力(軍閥)を打ち倒す!
コミンテルン
社会主義革命の実現のため、大衆の力によって既存の政治勢力(軍閥)を打ち倒す!
と、根本的な思想は違えど、『大衆の力を使って軍閥をぶっ倒す!』という部分で、孫文とコミンテルンの利害は一致していました。
さらに、『ロシア革命を成功させたコミンテルンのノウハウや軍事力を利用したい』孫文と、『中華民国における最大の革命勢力である中国国民党を利用したい』コミンテルンは、お互いに歩み寄りを模索し始めます。
そして両者の間で交渉が行われた結果、1924年1月20日、中国国民党と中国共産党はお互いに協力することが決まります。
これを第一次国共合作と言います。
孫文は、中国国民党の組織のあり方を改め(改組)、思想の違う中国共産党員の入党を認めることに。
これによって事実上、中国共産党は中国国民党に吸収されることになります。
一方のコミンテルンは、中国共産党を通じて中国国民党を支援。
革命運動を支援することで、共産主義の影響力を強めようとしました。
新しいスローガン「連ソ・容共・扶助工農」
第一次国共合作が決まった1924年1月20日、孫文は中国国民党の新しい方針を発表しました。
孫文の新しい方針は、『連ソ・容共・扶助工農』と呼ばれ、大きく3つの方針に分かれています。
1つずつ簡単に紹介していきます。
連ソ
ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)と連携をすること。
容共
共産主義を容認する
扶助工農
工場で働く労働者や、農民を助ける
孫文は、「連ソ・容共・扶助工農」のスローガンを掲げることによって、中国共産党と連携すること(第一次国共合作)をはっきりと明言したわけです。
第一次国共合作によって革命運動をパワーアップさせることに成功した孫文は、「打倒軍閥!」の目標に向けて本格的な行動を開始します。
・・・がその矢先の1925年3月12日、孫文は病により革命道半ばで命を落としました。
孫文は『革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし』という遺言を残しましたが、その遺言とは裏腹に、連ソ・容共・扶助工農を掲げた革命運動は停滞してしまうことになります・・・。
第一次国共合作の解散まで
革命運動が停滞した原因は、孫文という偉大な指導者を失ったことで、中国国民党内で権力争いが起こってしまったためです。
もともと中国国民党には、「共産党とは思想が違うから国共合作には反対だ!」とする反対派と、「軍閥を倒して革命を推進するためにも共産党の力が必要だ!」とする賛成派があり、対立をしていました。
この対立が、指導者の孫文が亡くなったことで、一気に表面化してしまったのです。
そして、この権力争いを勝ち抜き中国国民党のトップに立ったのが蒋介石という人物でした。(1926年)
蒋介石が中国国民党のトップに立ったことは、第一次国共合作に大きな影響を与えましす。というのも、蒋介石は国共合作に反対の立場をとっており、もともと中国共産党のことを良く思っていなかったからです。
1926年、蒋介石は、孫文の意思を受け継ぎ、軍閥打破のため軍事行動を開始(北伐)。
そして北伐の最中だった1927年3月、国共合作反対派の蒋介石が権力を持っていることを恐れた中国共産党は、労働者ストライキに合わせて上海で大規模なデモを決行。その後、上海に独自の政府を立ち上げて、蒋介石を牽制しました。
すると次は1927年4月、これを中国共産党の謀反だとして蒋介石は上海にいる中国共産党員を激しく弾圧。(上海クーデター)
上海クーデターにより、中国共産党と蒋介石の対立は決定的なものになります。
さらに蒋介石は、中国国民党の中から共産党寄りの人物を排除し、南京に新たな国民政府を樹立。
南京国民政府と武漢国民政府は、中国共産党への対応をめぐって対立しますが、1927年7月、武漢国民党も「中国共産党反対!」の立場を採るようになります。
こうして、中国国民党は完全に中国共産党と分離することになり、第一次国共合作は崩壊してしまいます。(国共分裂)
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