今回は、1919年に中国で起こった五・四運動についてわかりやすく丁寧に解説していくよ。
五・四運動とは
五・四運動とは、1919年5月4日に中国(中華民国)で起きた大規模なデモ抗議のことを言います。
デモのきっかけは、パリ講和会議で日本が山東半島の権益を中国の手から奪ったことでした。
中国も第一次世界大戦の終盤になってドイツに宣戦布告していたので、このパリ講和会議に参加していました。もちろん、中国が会議に参加した目的はただ1つ「日本から山東半島の権益を奪い返すこと」です。
中国はパリ講和会議にて日本の山東半島支配に反対の声をあげますが、途中から山東半島に関する議題は日本を含む列強国のみで話し合う方針が決められてしまい、当事者である中国の意見は無視されることになりました。
最終的にパリ講和会議では「山東半島の権益が日本のものであることを認める」という内容で話がまとまり、中国と日本の外交戦は日本の完全勝利に終わります。
五・四運動が起こるまで
パリ講和会議で山東半島の権益が日本に認められたことが中国本土に伝わると、北京の学生たちは激怒し、デモの決行を計画します。
ロシアではロシア革命が、朝鮮では三・一独立運動が起こっており、この時代の流れに乗って北京の学生たちは自らの行動によって自分たちの主張・怒りを世に示そうとしたのです。
決行予定日は1919年5月7日。この日は中国では国恥記念日と呼ばれ、1915年に中国が二十一箇条の要求を日本から突きつけられた日でした。
国恥記念日とは、「この屈辱を中国は決して忘れてはならない」という意味で定められた記念日のことです。
中国が二十一箇条の要求を受け入れた5月9日も国恥記念日とされています。
さらに学生たちは、デモの情報が漏れて政府の弾圧を受けることを恐れ、直前で決行日を繰り上げてデモ決行日を5月4日に変更します。
こうして、1919年5月4日に始まった抗議デモが五・四運動です。
デモの矛先は日本・・・ではなく、中国の軍閥政府に向けられます。
当時の中国政府は、軍が政権運営をしていました。軍内には多くの派閥が存在し、その派閥が離合集散しながら政権運営が行われたため、中国政府は非常に不安定な状況に置かれていました。(これを「軍閥政権」と言います。)
そして政権を安定させるため、軍閥の中には列強国の支援を受ける派閥が現れます。五・四運動当時の政権は、安徽派という軍閥に所属する段祺瑞が政権を握っており、この段祺瑞政権を裏で支援していたのが日本でした。
日本は、1917年〜1918年にかけて西原借款と呼ばれる巨額の資金援助を段祺瑞政権に行っていて、それ以来、日本と段祺瑞政権はズブズブの関係になっていました。
五・四運動の参加者はこの日本と段祺瑞政権の関係が、パリ講和会議における山東半島奪還の失敗の理由だと考えました。
山東半島を日本から取り戻せなかったのは、段祺瑞政権が日本と癒着しているからだ!
段祺瑞政権をこのまま許しては絶対にダメだ・・・!!
五・四運動の経過
1919年5月4日、多くの学生が北京の天安門広場に集まり、中国政府(段祺瑞政権)に対する抗議デモが始まりました。
五・四運動の抗議デモには目的が大きく2つありました。それは・・・、
中国政府がヴェルサイユ条約に調印することを防ぐ
中国政府の親日派の人物を要職から追放する
です。
五・四運動は瞬く間に過激化します。運動の参加者は、西原借款の受け入れた張本人で親日派の筆頭だった曹汝霖を「売国奴」と糾弾し、曹汝霖の家を襲撃。これに火をつけました。(曹汝霖は自宅にいなかったので、なんとか一命を取り留めました・・・)
また、運動は北京から全国へあっという間に広がりました。五・四運動の動きが広がるにつれ、参加者の層も学生から労働者へと拡大。
デモのやり方にも変化が見られ、ストライキや日本商品の不買運動などへと発展していきます。
中国政府は五・四運動を鎮圧しようとするも、日々規模を拡大し続ける五・四運動を抑え込むことができません。
労働者が一致団結した大規模なストライキも起こるようになり、五・四運動は中国の経済活動に深刻な影響を与えるようになります。
五・四運動の終焉
1919年6月、最終的に中国政府は五・四運動の鎮圧を断念し、五・四運動の要求を受け入れます。
曹汝霖を含む親日派の主要メンバーが解任され、運動に参加し逮捕されていた学生たちも釈放されました。
さらに政府は、6月末に調印予定のヴェルサイユ条約について「日本が山東半島の権益を中国に返還しないなら、中国は条約に調印はしない。」という確固たる態度で臨むことを決めます。
日本と中国の交渉は決裂し、最終的に中国はヴェルサイユ条約への調印を拒否しました。
こうして、五四運動は当初の目的を達成することに成功しなのです。
共産主義の芽生え
五四運動は、山東半島問題に大きな影響を与えただけでなく、中国という国のあり方そのものにも大きな影響を与えました。
「デモとストライキで自分たちの要求を政府に飲ませた」という成功体験が、中国の人々を共産主義の思想に大きく傾倒させることになったのです。
そもそも五・四運動の「デモ・ストライキで政府に対抗する」という行動は、規模は違えど根本的なところではロシア革命と同じことをしているわけなので、五・四運動の成功が共産主義と結びつくのはある意味で自然な流れでした。
さらに言えば、当時の中国は1911年に起こった辛亥革命のまだ道半ばであって、多くの民衆が革命の完遂を望んでいました。
ここで、中国の歴史を少しだけおさらいしておきます
- 1911年辛亥革命
清王朝の君主制に不満を持った人々が、共和制の樹立を目指して革命を起こし、清王朝を滅ぼす。
- 1912年中華民国、樹立
1月、初代臨時大統領に辛亥革命の中心人物だった孫文が就任。
3月になると孫文は、共和制の樹立を認めることを条件に軍出身の袁世凱に臨時大統領の座を譲る
- 1915年袁世凱、共和制を廃止して君主制を復活させる
袁世凱に対抗できない孫文は1913年から日本に亡命し、革命再開のチャンスを窺う。
- 1916年袁世凱、亡くなる
袁世凱の後継をめぐって、軍内の派閥(軍閥)が政争を繰り返す時代へ(軍閥時代)
- 1919年5~6月五・四運動この記事はココ
民衆が軍閥政治への不満を爆発。デモ・ストライキを通じて民衆の力で、政府の意向を変えさせることに成功する
- 1919年10月孫文再起!中国国民党を立ち上げる
五・四運動での民衆の活躍に希望を見出した孫文が再起する。
孫文は革命の完遂(共和制の実現)のため、共産主義を目指すソビエトとの接近を図る
- 1921年中国共産党が結成される
中国国民党は中国共産党と協力して、軍閥の打倒を目指す。
- 1928年孫文の意思を受け継いだ蒋介石が軍閥を倒し、中華民国を統一する!
孫文は1925年に亡くなっていたけど蒋介石が跡を継ぎ、辛亥革命から続く共和制への革命がひとまず実現する。
という感じで、袁世凱の登場で中断を強いられていた革命運動が共産主義の思想を取り入れながら再開することとなり、五・四運動は革命再開の大きなターニングポイントになりました。
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