東日本と西日本の文化はなぜ違う?縄文時代からのアプローチ

この記事は約6分で読めます。

 

東日本と西日本、違うところってたくさんありますよね?

例えば、

・うどんの味(東:濃 西:薄)
・周波数(東:50Hz 西:60Hz)
・エスカレータの乗り方(東:右寄り 西:左寄り)
・マクドナルドの呼び方(東:マック 西:マクド)

こんな感じで挙げていくとキリがないです(汗)。
今回は、この文化の違いをテーマにコラムを書きたいと思います。

 

もちろん、これらの違いは縄文時代からあるわけではありません。(縄文時代にマクドナルドはないですからね・・・)

では、なぜ縄文時代か。

 

それは、東日本と西日本の違いを含め、日本の文化多様性の素地が形成されたのは縄文時代にまでさかのぼることができるからです。

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そもそも東と西では別の国だった!?

話は、今から1万~1万5000年前、ちょうど旧石器時代から土器が作られるようになった縄文時代の初め頃の話になります。

 

当時の日本の文化圏は、今の日本のように北海道から沖縄まで南北に伸びた文化圏ではなく、大陸との横の関係がとても強いものでした。具体的にいうと

〇北海道から本州・四国:中国北部・ロシア

〇九州や南西諸島:中国南部・フィリピンなどの東アジアの島国

 

という構図があります。これは石器の製造方法などの生活スタイルを基に分類したものです。

日本は、南北に伸びた地域であり北と南では全く気候が異なります。当時は、多少海を渡る必要があったとしても、似た気候を共有する大陸の人々との交流の方が容易だったのでしょう。

当時は国という概念はありませんが、感覚的には、北海道~本州と九州では別の国のようであると言ってもよいと思います。

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多様な文化の形成

次は、5000年前~1万年前の時代へ移ります。

 

この時期になると本州内でも文化の違いが生まれていきます。
違いが生まれ要因は様々ですが、一番大きい要因はやはり気候の違いだと思います。
日本は南北に延び四季もあるため、地域ごとの気候にも多様性があり、同じ境遇の者同士が文化を共有するようになり、文化の細分化が進んだものと私は考えています。

 

縄文時代の文化の違いは、主に地域ごとの土器の製造方法によって分類されています。
おおざっぱに次のような分類とされています。

〇北海道南部、東北北部地方

〇東北中南部、北陸北部地方

〇関東・中部地方

〇東海西部、中国、四国地方

〇九州、南西諸島

 

段々細かくなってきましたね。

 

繰り返しますが、日本特有の多様な気候性が、当時の人々にとんでもなく大きな影響を与えています。このことは、科学技術の発展により快適な家に住むことができる私たち現代人にはなかなか理解しにくい点です。

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温暖化と寒冷化

温暖化

今から6000年~1万5000年前の当時、日本列島は温暖化の影響を大きく受けていました。地球温暖化は、現代だけの話ではないのです。

温暖化の影響により、日本列島、特に関東以北では落葉樹林帯が多く見られたと言われています。
人々は、少しづつ落葉樹のもたらす高い栄養素を含む木の実(栗やブナなどの堅果類)を主食の一部として取り込んでいきました。それまでは、動物を狩猟することで食事を得ることが多かったですが、木の実の登場により、動物を追い住む場所を移動する必要がなくなりました。ちょうど一万年前前後というのは人々が定住生活を開始し始めていた時期なのです。

 

そして、当時の巨大集落の遺跡として有名なのが青森にある三内丸山遺跡です。
昔学校で習いましたよね?

 

この頃は、落葉樹林の豊富な関東以北の集落がとても栄えた時期でした。

 

一方の西日本の人口はそこまで多くなかったようです。西日本にももちろん落葉樹はありますが、東日本ほど多くはなかったのです。

栗なくして日本なし

落葉樹の分布がなぜ文化の発展に影響するのか。ちょっと話がそれますが説明します!

 

ここでは堅果類の代表として栗を例にします。当時の人にとって栗を食べるメリット・デメリットはなんでしょう?

 

メリット:保存性がある。栄養価が高い。動物狩猟よりも安定して採取できる。

デメリット:加熱や灰汁取りなど、一定のプロセスを経ないと食べることができない。

 

このデメリットが重要なんですね。人々は、アク抜きや煮炊きのための加熱に耐えられる器を作らないければなりません。これが縄文土器に製造目的です。

 

そして、人々は、縄文土器の製造や栗の採取、加工などを皆で分担して行うようになります。定住し、みんなで協力して暮らすことで集落が形成されていきました。さらに、定住すると困るのはゴミの処理です。この問題を解決するために、共同のゴミ捨て場を作りました。これが貝塚です。

 

このように栗を主食とすることにより、人々はより大きい集落を形成するようになり、また、集落内のルール作りなどの社会性に富んだ行動をするようになっていくのです。

 

栗なくして日本なし、と言っても過言ではないと思います。栗に対する見方が変わりますね!
あぁ、栗の話をしてたら栗が食べたくなってきた・・・(汗)

寒冷化(諸説あり)

今から3000年~4000年前、次は寒冷化が日本を襲いました。

この影響を大きく受けたのが東日本でした。寒冷化に伴い落葉樹林の分布が西日本へとシフトしていき、東日本では食糧難の時代がやってきました。

東日本の人びとは集落を捨て、南へと移動を始めていきました。ここで東日本人と西日本人が交わるわけです。

なお、寒冷化には諸説あり、寒冷化などは起こっておらず東日本集落の崩壊は、集団の肥大化による自己統率力の喪失や排泄物による衛生環境の悪化などいろいろな説があるようです。

 

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東と西。交わったその後

東日本人と西日本人が交わったその後、平安時代に至るまでの数千年、日本の人びとは西日本を基盤として成長を遂げてきました(もちろん東日本にも人は住んでいましたが)。

そして源頼朝による鎌倉幕府の創設を発端として、再び人々は東日本へ移動を始め、現在へ至っています。

 

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まとめ

箇条書きでまとめましょう。

縄文時代に日本列島に様々な文化が形成。

東日本の人びとの南下

西日本の文化と東日本の文化が合体(均一化)

鎌倉時代以降再び東日本に北上

 

一度均一化されたものが、再び拡散されていく辺りに私は現在の西日本と東日本の細かな違いの原点を見出すことができると考えています。これは、最初から別々の文化ならもっと大きな違いになっていただろうし、均一化したままだったら現在のような文化の違いは生まれないと考えるからです。

 

そして最後に。栗は偉大です。栗を食べるときは栗に感謝の気持ちを込めながら食べましょう(笑)。

 

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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コメント

  1. さおり より:

    楽しく読ませてもらってます。今こどもが歴史を習い始めたので、慌てて親も復習中。

    ・エレベーター× エスカレーター〇 かな。

    • もぐたろう mogutaro より:

      当ブログを拝見いただきありがとうございます。ご指摘いただいた箇所について修正を致しました!

  2. やぎ より:

    縄文時代までは、とってもいいけど。弥生から大和に大陸から流れてきた人にっふれてない。大阪の下町のうるさいおばちゃん、中国観光客と一緒じゃないですか…。