今回は、室町幕府の最後の将軍、15代目の足利義昭についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
足利義昭が将軍になるまでの経過
多くの教科書では8代の足利義政の話の後、いきなり15代の足利義昭が登場します。
というわけで、まずは謎に包まれた9代〜14代の時代の話を簡単におさらいします。
9代〜12代
- 9代足利義尚
足利義視との後継者争い(応仁の乱)に勝利して将軍になる
- 10代足利義稙
義尚に子がいなかったので、足利義視の息子が将軍になる
- 11代足利義澄
義稙の時代は父の義視が力を持つようになり、これをウザく思った勢力(日野富子とか)が義稙を追放して義澄を将軍にする。
・・・が、義稙がリベンジ戦を仕掛けてきたため、将軍家はグダグダに。
- 12代足利義晴
義澄の息子。グダグダになった将軍家の再興を目指した。
この記事の主役、足利義昭の父でもある。
13代〜15代
足利義昭は1537年、室町幕府12代将軍足利義晴の次男として生まれました。
父義晴の後を受け継いだのは長男の足利義輝。1546年に13代目の将軍になります。
当時は、争いを防ぐため家督を受け継いだ者以外は仏門に入るのが習慣だったので、足利義昭は一乗院というお寺に入りました。
足利義輝は父の意志を受け継いで将軍家の復興を目指しますが、これを良く思わない人物がいました。それが三好長慶という男。
政治的駆け引きの結果、三好長慶と足利義輝は協力体制を敷くことになりましたが、1564年に三好長慶が亡くなると、この協力体制は崩壊します。
三好長慶亡き後、三好三人衆と呼ばれるの三好長慶の3人の家臣たちが中心となり、足利義輝の排除を考え始めたのです。
三好三人衆「俺たちの言うことを聞かない義輝ってもういらなくね??」
1565年、三好三人衆は足利義輝を殺害。義輝の弟だった足利義昭も一乗院に幽閉され、命の危険が迫りました。
白昼堂々と将軍の命を奪った三好三人衆の蛮行は、多くの者から批判を浴びます。そのため三好三人衆に反対する者も多く、足利義昭はその反対派の人たちによって助けられ、なんとか幽閉先から脱出することに成功しました。
義輝の命を奪った三好三人衆は、自分の言いなりになってくれる足利義栄を将軍にしようとしますが、朝廷との交渉が難航。
1568年2月にようやく14代将軍になりますが、8月になると挽回のチャンスを狙っていた足利義昭が織田信長の支援を受けて、15代将軍に返り咲いた・・・というのが、足利義昭が将軍になった流れです。
足利義昭「俺は将軍の夢を絶対に諦めない」
話を足利義昭が将軍になる前に戻します。
1565年、幽閉先から脱出した足利義昭は兄に代わって将軍になることを心に決めます。
兄の命を奪った三好三人衆はどんなことがあろうとも潰す。
そして、私は兄の意志は継いでいつか必ず将軍になる。
京を逃げ出した足利義昭は、各地を転々としながら各国の守護大名たちに援軍を求めました。筆まめな性格だったのか、執念の現れなのか、足利義昭は各地の大名に大量の書状を送ります。(武田信玄・上杉謙信・織田信長・毛利元就など)
そして数いる大名の中で足利義昭が特に期待していたのが越後の上杉謙信と尾張の織田信長でした。
ところが、その上杉謙信は甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と戦争中であり、それどころではありません。
一方の織田信長も「助けるから待ってろ!」と良い返事をするも、美濃の斎藤氏との戦争でそれどころではなく、義昭を助けることができませんでした。
この時、多くの大名たちが「足利義昭を助けたい!」と思っていました。
なぜなら、義昭を助けてそのまま義昭が将軍になれば、自分がVIP待遇を受けられることが確実だからです。
しかし、多くの大名は自国のことで精一杯で軍を率いて京に向かう余力がありませんでした・・・。
目障りな動きをする足利義昭を討とうと三好三人衆が刺客を送ってくると、義昭は自分を支援してくれる朝倉義景の本拠地(越前の一乗谷)に逃げ込みます。
この朝倉義景も一向宗との戦いに手一杯で、義昭を匿うことはできても、兵を率いて京に向かうことは不可能でした。
要するに、みんな自国の戦争で手一杯なわけだな。
じゃあ、将軍の私が間に入って和睦交渉をしよう。各地の争いが収まれば、みんな私を助けに来てくれるはずだ!
こう思った足利義昭は、各地の争いの仲裁を始めました。・・・が、この安直なアイデアはうまくいきません。
しかし1567年、状況が大きく変わります。織田信長が美濃の平定に成功したのです。
もしかして、今なら織田信長が俺のことを助けてくれるのでは!?
1568年、足利義昭は織田信長に援軍要請をします。
実は正親町天皇から「三好三人衆をなんとかしてくれ!」って援軍要請を受けていて、それを承諾しているんだ。だから、別に足利義昭に協力しなくても、三好三人衆さえ倒せば朝廷からVIP待遇受けられるわけ。
義昭は上杉謙信が好きみたいだし、苦労してまで助けてあげる価値あるのかねー?
ここで、織田信長の家臣である明智光秀が登場します。
明智光秀は足利義昭との人脈を持っており、織田信長と足利義昭の間に入り、両者を結び付けます。
明智のおかげで話がスムーズに進んだ。これなら足利義昭も助けても良いだろう。こうなればむしろ、天皇と将軍を同時に助ければ一石二鳥だ。
こうして、織田信長の支援を得た足利義昭はようやく京に戻るチャンスを掴むことになりました。
足利義昭、15代将軍へ
1468年7月、越前の一乗谷にいた足利義昭は、織田信長のいる美濃へ向かうことを決意。
8月に織田信長軍が京への進軍を開始すると、9月には三好三人衆を京から追放。京を取り戻すと、10月、織田信長が朝廷と調整の上、ついに足利義昭は将軍になることができました。
織田信長のおかげで夢を叶えることができた!
織田信長は人生最大の恩人!マジ最高!!
10月23日には足利義昭は信長のために宴会を開き、その翌日にはこんな漢字の手紙まで送っています。
御父 織田信長 殿
この度私がこんな短期間に上洛できたのは、信長の武勇のおかげである。その武勇は天下第一だ。
そして、将軍家を再興できたのも信長のおかげ。これからも国を安定させるために、そなたを頼ることになろう。
詳細は部下から伝える。よろしく頼むぞ!
信長の名前に「殿」をつけ、おまけに「御父」と称することで、義昭は織田信長に対して最大限の敬意をはらったのです。
御父って言い過ぎだろ!(照)
ひとまず、これで俺の立場は盤石なものとなった。今なら将軍も天皇を、自分の掌でコントロールすることができよう。
足利義昭「織田信長はやっぱり嫌いだ」
しかし、足利義昭が織田信長に敬意を払っていたのは最初だけ。
一緒に政治をしているうちに、両者の意見が合わなくなってきたのです。将軍家再興を目指す足利義昭と、自ら天下の覇者になろうとする織田信長。意見が一致するわけがありませんでした。
足利将軍家の再興も果たしたわけだし、将軍がもっと権力と権威を手に入れることで、国を安定的に治めるぞ!
もはや室町幕府など形だけの存在。足利義昭を助けたのは、義昭を私の野望のために利用するためにすぎない。
将軍は私の言うことを聞く操り人形(傀儡)になっていれば良いのだ。
1571年頃から足利義昭は、織田信長の排除を考えるようになります。
・・・とはいえ、足利義昭自身は兵力を持っておらず無力。そこで、各地の協力してくれそうな人たちにかたっぱしから手紙を送りました。(京から追放された後に大名たちに援軍を求めたのと同じ!)
上杉謙信、武田信玄、本願寺の顕如・・・などなどに助けを求めたぞ。
この時、足利義昭を強く支援したのは本願寺の顕如だったと言われています。
織田信長は堺を支配下に置くため、堺に勢力を持っていた三好三人衆を攻撃します。
1570年、この戦いが顕如の本拠地である石山本願寺(今の大阪城)のすぐ隣で起こりました。
すると、織田勢力拡大を嫌った顕如は三好三人衆を支援して織田軍を攻撃。こうして織田信長と顕如は戦争状態へ突入します。
この織田信長と顕如の戦いは10年ほどにも及び、1571年当時も両者は交戦中だったのです。(この戦いを石山合戦と言います)
だから顕如は、足利義昭に味方しました。
このほか、近江周辺に勢力を持つ浅井長政・朝倉義景・六角義賢、さらには織田信長と争いを続けていた三好三人衆や延暦寺も足利義昭に味方します。
こうして、足利義昭は着実に織田信長討伐の計画を進めます。
足利義昭VS織田信長
織田信長も足利義昭の不穏な動きのことはもちろん知っていました。互いに相手を警戒しながらも、表向きは仲の良いふりをして過ごしていましたが、1572年、事態は大きく動きます。
織田信長が足利義昭に十七ヵ条の意見書というものを提出したのです。その内容は、義昭の政治のみならず、その人格まで否定する痛烈な内容でした。
その内容を一つだけ紹介しておきます。
世間一般の人々は「将軍は欲深いから人がなんと言おうとも気にしない」と口々に言っております。ですから、しがない農民でさえ義昭様を「悪御所」と呼んでいるそうです。かつて足利義教様がそう呼ばれたように。何故下々の者達がこのように陰口を叩くのか、今こそよくお考えになったほうが良いと思います。
足利義教は6代目の室町幕府将軍で、嘉吉の変という事件で暗殺された将軍です。
織田信長は「あんまり調子に乗っていると足利義教みたいになるよ^^」と義昭を挑発しているわけです。
信長め、挑発のつもりか。わかった、叩きのめしてやるよ。俺じゃなくて他の大名たちがな・・・!!
足利義昭が「打倒!織田信長」と心に決心すると1572年12月、武田信玄が動きます。
織田信長と同盟関係にある徳川家康に攻撃を仕掛けたのです。
場所は遠江の三方ヶ原。武田信玄は徳川家康軍を蹴散らして圧倒的大勝利を納めます。(三方ヶ原の戦い)
今こそ絶好のチャンスぞ!武田信玄の大勝利に乗じて、各地の者も織田信長に対して挙兵するのだ!!
これを好機と見た足利義昭は、京の二条城を拠点として挙兵。
・・・が、この挙兵は大失敗に終わりました。
足利義昭は織田信長に二条城を包囲され降伏。信長のおかげで京に戻れた義昭は、その信長によって再び京から追放され、またまた各地を彷徨うことになりました。
諦めない足利義昭 〜鞆幕府〜
しかし、足利義昭は不屈の心を持つ男です。これぐらいでは心が折れることはありません。
義昭は各地を彷徨い続け、1576年、最終的に毛利輝元の勢力下にあった備後国(今の岡山県)に落ち着きます。
足利義昭は備後の鞆と言う場所に滞在したため、ここを鞆幕府と言いました。
義昭は織田信長にとっては自分に牙を剥いた敵です。その義昭を匿ったということは、つまり、毛利輝元も織田信長との敵対姿勢をあらわにしたということです。
もともと、毛利輝元と織田信長は友好関係を結んでいました。
ところが、畿内を中心とした織田信長の勢力がだんだん拡大するにつれて、毛利輝元の勢力地に接近。
すると、両者の勢力の中間地点に位置する播磨・但馬・美作(今の兵庫・鳥取あたり)などをめぐって関係が悪化します。
それでも毛利・織田は表向きは友好関係を保っていましたが、足利義昭が毛利輝元に相談せずに半ば強引に鞆にやってきてたことで、両者の関係は完全に崩壊しました・・・。
毛利輝元は織田信長と仲が悪いみたいだし、アポ無しで毛利輝元のところに行っても悪い扱いは受けないだろww
足利義昭、隠居暮らしへ・・・
毛利輝元もろとも足利義昭をぶっ潰してやる!
織田信長は本格的な西国攻略を開始。そして、この任を任されていたのが羽柴秀吉、後の豊臣秀吉でした。
この頃の織田信長は、畿内を手中に収め、東国も同盟を組んでいた徳川家康の活躍によって盤石な状態としていました。天下統一に向けて残っているのは西国だけ。特に西国の雄である毛利家が最大の敵だったのです。
天下統一目前で勢いに乗る織田軍は手強く、毛利輝元は劣勢に立たされます。
ところが1582年、この劣勢を挽回する大事件が起こりました。
・・・それが本能寺の変です。京の本能寺にいた織田信長は奇襲を受けて命を落としました。
憎き敵だった織田信長が亡くなると、義昭の行動も落ち着くようになります。新たな覇者となった豊臣秀吉も足利義昭を弾圧するようなことはなく、足利義昭の状況は一変しました。
足利義昭は、豊臣秀吉に抵抗を続けていた島津氏(今の鹿児島あたりに勢力を持っていた一族)と秀吉の間をとりもち、1587年に両者は和睦。
その翌年(1588年)には、足利義昭は将軍職を辞任して出家。隠居生活を始めます。
豊臣秀吉は、元将軍だった足利義昭を皇族と同じVIP扱いとし、義昭は安定した老後生活の末、1597年にこの世を去りました。享年61歳でした。
若い頃には京を追われ、将軍復帰のために不屈の精神を発揮。
壮年期には、織田信長と対立。京を追放された後も執念の粘りで、憎き織田信長に最後の最後まで抵抗。
晩年は織田信長が本能寺の変で亡くなり平和モード。豊臣秀吉との関係は良好で、これまでの波乱万丈な人生からは想像もできないほど平和な老後生活を送りました。
足利義昭の人物像を一言で表すとすれば、「執念」や「不屈」って言葉がピッタリだと思います。
足利義昭の将軍としての評価には賛否両論あるようです。ただ、その諦めない不屈の闘志には、学ぶべきところも多いのかな?と思ってみたり。
足利義昭の生涯まとめ【年表】
- 1537年足利義昭、生まれる
12代将軍の足利義晴の次男として生まれた。
しばらくすると仏門へ。
- 1565年兄で13代将軍だった足利義輝が三好三人衆に討たれる
足利義昭も命を狙われたが、京を脱出。
各地をさまよい、最後は越前の一乗谷に落ち着く。
- 1568年織田信長と共に上京。義昭は15代将軍に。
織田信長の協力を得て上京。兄の仇である三好三人衆を蹴散らす。
- 1571年頃織田信長と足利義昭の関係が悪化
足利義昭は、各地の有力者と連携して織田信長の包囲計画を考える
- 1572年9月織田信長、十七ヵ条の意見書で足利義昭をボロクソに言う
足利義昭はブチギレ。織田信長と一触即発へ
- 1572年12月三方ヶ原の戦い
義昭と連携していた武田信玄が、織田・徳川連合軍をフルボッコ。
- 1573年足利義昭、挙兵する
武田信玄の勢いを見て、織田信長と戦うことを決意。
ところが武田信玄は病に倒れ、各地との連携もうまくいかず、挙兵は失敗。
織田信長に拠点の二条城を包囲され、京から追放される。
- 1576年足利義昭、毛利輝元の勢力下の備後国へ
各地をさまよい、最終的に備後国に落ち着く。
義昭を匿った毛利輝元と織田信長の関係が悪化し、両者は戦争状態へ突入。
- 1582年本能寺の変。織田信長、亡くなる
- 1587年足利義昭、帰京
織田信長がいなくなったおかげで、再び京に戻ることができた。
新しい天下人となった豊臣秀吉とは良好な関係を築く
- 1588年将軍を辞任。隠居生活へ
次の将軍が選ばれなかったため、室町幕府は滅亡へ。
足利義昭は豊臣秀吉からVIP待遇を受けて余生を過ごす
- 1597年足利義昭、亡くなる(享年61歳)
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