足利義昭(あしかがよしあき)とはどんな人?性格・生涯・織田信長との関係をわかりやすく解説

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足利義昭

もぐたろう
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今回は室町幕府最後の将軍・足利義昭あしかがよしあきについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!信長に追放された「ダメ将軍」ってイメージがあるかもしれないけど、実はとんでもなくしぶとい男だったんだ!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 足利義昭の読み方と基本プロフィール
  • 足利義昭はどんな人?性格・人物像
  • 将軍になるまでの苦難の生涯(兄・義輝との関係含む)
  • 織田信長との関係——なぜ仲が悪くなったのか
  • 信長包囲網の形成・追放・鞆幕府・最期と子孫

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足利義昭(あしかがよしあき)はどんな人?読み方と3行まとめ

「室町幕府を終わらせた無能な将軍」——。足利義昭あしかがよしあきについて、多くの人がそんな印象を持っています。しかし実は、織田信長豊臣秀吉・毛利氏と渡り合い、追放されてなお20年以上諦めずに将軍の座にしがみついた「戦国最強のしぶとい男」だったのです。

足利義昭とは?3行でわかるまとめ
  • 室町幕府第15代・最後の将軍(在職1568〜1573年)
  • 織田信長に担がれて上洛するも、対立して京都を追放された
  • 追放後も20年近く諦めず、備後・鞆の浦で「鞆幕府」を開いた不屈の将軍

足利義昭の読み方は「あしかがよしあき」です。

1537年(天文6年)生まれ、1597年(慶長2年)没。享年61歳。室町幕府第12代将軍・足利義晴よしはるの次男として生まれ、兄・足利義輝よしてるが暗殺されたことで、将軍の道が開けました。

呼び方は「あしかがよしあき」なんだね!でも将軍に就いて、すぐ追放されちゃったってことは、やっぱり無能だったんじゃないの?

もぐたろう
もぐたろう

そうは思われがちなんだけど、追放されてからも20年近く「俺はまだ将軍だ!」って各地の大名に手紙を出し続けたんだよ。諦めなさすぎてある意味すごい男なんだ(笑)。詳しく見ていこう!

足利義昭の肖像画(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン)

足利義昭の性格・人物像

足利義昭の性格を一言で表すなら「不屈の意志を持つ、したたかな政治家」でしょう。信長が送りつけた「異見十七ヶ条いけんじゅうしちかじょう」では「悪御所あくごしょ」と評されており、評価は真っ二つに分かれています。

義昭の人物像を知るうえで重要なのは、彼が元々は僧侶として生きる予定だったという点です。

兄・義輝が将軍として活躍するなか、義昭は興福寺こうふくじで「覚慶かくけい」として出家していました。しかし兄が暗殺されたことで、突然「将軍の候補」として歴史の表舞台に引き出されるのです。

■ 「悪御所」と呼ばれた背景

悪御所あくごしょ」という言葉は、もともと室町時代に「強い・手強い」という意味で使われた「あく」と、将軍の呼び名「御所ごしょ」を組み合わせたものです。現代語の「悪い人」という意味ではありません。

信長が1572年(元亀3年)に義昭へ送りつけた「異見十七ヶ条」には、「悪御所と世間に噂されている」という批判が含まれており、これが義昭に結びつく形で語られています。もともとは6代将軍・足利義教よしのりの呼び名でしたが、信長の文書を通じて義昭にも使われるようになりました。

足利義昭
足利義昭

俺は絶対に諦めへんで!「悪御所」って呼ばれたって構わん。この義昭、最後まで将軍や!

■ 義昭の再評価——外交センスと将軍としての執念

長らく「無能な最後の将軍」として評価されてきた義昭ですが、近年の研究では別の一面も注目されています。

義昭は追放後も、武田信玄・朝倉義景・毛利氏などの有力大名と積極的に外交を展開しました。信長という巨大な権力と真正面から戦いながら、20年近くも「将軍」としての権威を維持し続けたのです。これは、なみなみならぬ政治的センスと粘り強さなしにはできないことでした。

もぐたろう
もぐたろう

「信長に追放された負け犬」って思われがちだけど、追放されてからも「将軍」として機能していたんだよね。単純に「無能」と切り捨てるのはちょっと違う気がするよ!

足利義昭が将軍になるまで「俺は絶対に諦めない」

1537年(天文6年)、義昭は室町幕府第12代将軍・足利義晴の次男として生まれました。長男・足利義輝あしかがよしてるが将軍として活躍するなか、義昭は武家の子でありながら奈良の興福寺に入って、僧侶として生きていくはずでした。

しかし1565年(永禄8年)、事態が一変します。兄・義輝が三好三人衆みよしさんにんしゅうや三好義継・松永久通まつながひさみち(久秀の子)らの軍勢に急襲され、御所で討たれてしまったのです(永禄の変えいろくのへん)。

■ 兄・足利義輝との関係

義昭と義輝の兄弟関係は、どのようなものだったのでしょうか。

義輝は「剣豪将軍」とも呼ばれる腕の立つ人物で、幕府権威の回復に尽力した将軍でした。義昭は次男として早々に出家させられており、兄が将軍として機能している間は、義昭が政治の表舞台に出ることはなかったのです。

兄が暗殺されたとき、義昭は興福寺に幽閉(軟禁)される立場になりました。兄を殺した三好三人衆らにとって、足利将軍家の血を引く義昭は危険な存在だったからです。

足利義昭
足利義昭

兄上……なぜこんな目に遭わねばならんのだ。兄上の代わって、必ず俺が将軍になって見せる!

もぐたろう
もぐたろう

義昭にとって兄・義輝の暗殺は大きなターニングポイント。幽閉されながらも、なんとか脱出して将軍を目指す旅が始まるんだよ。まるで逆境の主人公みたいだよね!

■ 信長に出会うまでの流浪の日々

興福寺から脱出した義昭は、各地の大名を頼りながら諸国を流浪します。まず頼ったのは越前(福井県)の朝倉義景あさくらよしかげでした。朝倉氏は室町幕府との縁が深く、義昭を保護したのです。

しかし朝倉義景はなかなか上洛(京都に攻め上ること)しようとしません。「将軍として京都に戻りたい」という義昭の願いは、越前滞在中には叶わなかったのです。

義昭が流浪した主なルート:興福寺(奈良)→ 甲賀(滋賀)→ 若狭(福井)→ 越前(福井)→ 美濃(岐阜)。1565年から1568年まで、実に3年間もさまよい続けたのです。

足利義昭の流浪ルート地図
足利義昭の流浪ルート(1565〜1568年)興福寺→甲賀→若狭→越前→美濃(まなれきドットコム作成)

そして1568年(永禄11年)、義昭は尾張(愛知県)の戦国大名・織田信長おだのぶながと出会います。当時の信長はすでに桶狭間の戦いを経て急速に台頭しており、上洛のための強力な軍事力を持っていました。義昭にとって信長は「まさに待ち望んでいた男」だったのです。

織田信長の肖像画
織田信長の肖像画(長興寺蔵・出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン)

足利義昭、15代将軍へ——織田信長との蜜月

1568年(永禄11年)9月、義昭と信長は連合して上洛を果たします。信長の圧倒的な軍事力の前に京都周辺の大名たちは次々と服従し、義昭は念願の将軍の座を手に入れました。足利義昭あしかがよしあき、正式に室町幕府第15代将軍に就任します。

就任当初、義昭と信長の関係は良好でした。信長は義昭を「将軍」として立て、義昭は信長に「副将軍・管領かんれい」の地位を与えようとしましたが、信長はこれを辞退。代わりに「天下布武てんかふぶ」を掲げ、義昭の権威を後ろ盾にしながら勢力を拡大していきます。

織田信長
織田信長

義昭よ、お主が将軍になることで天下布武への道が開ける。幕府の名と俺の力、うまく使えば天下統一も夢ではないぞ

足利義昭
足利義昭

ようやく将軍になれた……!3年もの流浪が終わった。信長、頼もしい男じゃ!

こうして1568年から1572年頃まで、義昭と信長の間には「蜜月の時代」が続きます。義昭は将軍として朝廷との交渉・各地大名の調停に携わり、信長はその権威を利用して勢力圏を拡大していきました。

しかし——義昭には、どうしても納得できないことがありました。信長は義昭を「将軍」として立てながらも、実際には幕府の政策に次々と介入し、義昭の権限を制限しようとしていたのです。

もぐたろう
もぐたろう

将軍の名前は「義昭」だけど、実質的なトップは信長——。義昭にとってはものすごく屈辱的な状況だよね。いわゆる「お飾りの将軍」にされていくわけだから。そりゃ黙っていられないよ!

織田信長との関係——なぜ仲が悪くなったのか?

義昭と信長の関係が悪化していった直接のきっかけは、信長が次々と義昭の権限を制限する措置をとったことにあります。蜜月の時代から一転、両者の溝は1569年頃から急速に深まっていきました。

なんで信長と仲悪くなったの?最初は仲良かったんじゃないの?

もぐたろう
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最初は利害関係が一致してたんだよね。

信長は「将軍の権威を使って上洛を正当化したい」

義昭は「信長の軍事力で将軍の座を取り戻したい」

——お互いwin-winだったわけ。でも将軍になった後、信長は義昭を「お飾り」にしようとし、義昭はそれに反発する……という構図になっていくんだ。

■ 殿中御掟・異見十七ヶ条(信長が義昭を縛った文書)

1569年(永禄12年)、信長はまず「殿中御掟でんちゅうおんおきて」(全21ヶ条)を義昭に認めさせ、幕府の政務を制限します。そして1572年(元亀3年)9月には、有名な「異見十七ヶ条いけんじゅうしちかじょう」を義昭に突きつけました。

この異見十七ヶ条は、一言で言えば「将軍は信長に義務を果たせ」という義昭への批判状です。義昭の政務怠慢・私欲・側近への恩賞などを糾弾する内容で、「将軍として何もするな」と制限した殿中御掟とは性質が異なります。

殿中御掟・異見十七ヶ条の主な内容(信長による義昭への制限・批判)

① 将軍が独断で家臣に土地や官職を与えることを禁止

② 幕府の政務はすべて信長に相談・報告すること

③ 将軍の書状に信長の証判(署名)がなければ無効とする

これは義昭にとって、耐えがたい屈辱でした。「将軍」という最高権威の地位についていながら、実際には信長の「お飾り」に過ぎない——。この状況が、義昭を信長への反抗へと駆り立てていきます。

織田信長
織田信長

義昭よ、将軍の役目は名前だけ貸してくれればそれでいい。実際の政治は俺が仕切る——それが嫌ならどうなるかわかっているだろうな

足利義昭
足利義昭

信長め……!俺は室町将軍家の血を引く正当な将軍ぞ。お前の許可がなければ何もできんとはどういうことだ!

足利義昭VS織田信長——信長包囲網の形成

信長への不満が限界に達した義昭は、ついに動き始めます。1572年(元亀3年)頃から、義昭は全国の有力大名に「信長を討て」という書状を次々と送り始めたのです。これがいわゆる「信長包囲網のぶながほういもう」の形成です。

義昭が協力を要請した主な大名は以下の通りです。

武田信玄たけだしんげん:甲斐(山梨)の大大名。1572年に西上作戦を開始し信長方を圧迫

朝倉義景あさくらよしかげ:越前(福井)の大名。義昭が流浪中に世話になった縁がある

浅井長政あざいながまさ:近江(滋賀)の大名。信長の妹・お市を妻に持ちながらも義昭側へ

本願寺ほんがんじ:石山本願寺の顕如けんにょ一向一揆いっこういっきを率いて信長に対抗

毛利氏もうりし毛利元就の跡継ぎ・毛利輝元。西日本を支配する大勢力

信長包囲網 各大名の領地地図
信長包囲網(1572〜1573年)各大名の領地。赤系=包囲する側、青=包囲される側(出典:国土数値情報 CC BY 4.0)

なかでも最大の脅威となったのが、甲斐の武田信玄でした。1572年(元亀3年)10月、信玄は大軍を率いて西へ進軍(西上作戦)を開始。翌年1573年1月には三方ヶ原の戦いみかたがはらのたたかいで信長の盟友・徳川家康を撃破します。信長はこのとき、かなり追い詰められていたと言われています。

足利義昭
足利義昭

信長め、覚えておれ!わしには全国の大名が味方についとる。将軍の名のもとに、お前を倒してみせるわ!

しかし信長包囲網は、1573年(天正元年)4月に武田信玄が病死したことで大きく崩れます。最大の切り札を失った義昭は、同年7月に信長と正面衝突(槙島城の戦い)し、ついに京都からの追放を受け入れることとなります。

織田信長
織田信長

義昭よ、お主はいい加減にしろ!わしを包囲しようとは……もう将軍の権威には頼らん。出て行け!

もぐたろう
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信長包囲網は「義昭の外交戦略」の集大成なんだけど、武田信玄の突然の病死で崩壊してしまうんだよね。タイミングが最悪だった……。義昭、惜しかった!

1573年(天正元年)7月18日、義昭は信長の軍門に降り、京都を追放されます。これにより室町幕府は事実上の終わりを迎えることとなりました。しかし——義昭の戦いはここでは終わりません。

足利義昭vs織田信長 信長包囲網の形成フロー図
足利義昭が形成した信長包囲網の流れ(1568〜1573年)


なぜ追放されたのか?——足利義昭の京都追放(1573年)

1573年(天正元年)7月、足利義昭あしかがよしあきは織田信長によって京都を追放されます。室町幕府最後の将軍が「なぜ追放されたのか」——その理由は、一言で言えば「信長に真正面から反旗を翻したから」です。

義昭は信長包囲網の形成という大勝負に出ましたが、1573年4月に最大の切り札・武田信玄が陣中で病死。包囲網は瓦解し始めます。それでも義昭は諦めず、同年7月に槙島城まきしまじょう(現・宇治市)に籠城し、信長に最後の抵抗を試みました。

足利義昭
足利義昭

信玄が死んでも……諦めるものか!槙島城で最後まで戦ってやる!

しかし信長の軍勢は圧倒的でした。城は数日で落ち、義昭は降伏。信長は義昭を処刑することなく、京都からの退去を命じます。「死罪にしないかわりに、将軍をやめて京都を出て行け」という条件でした。

■ 室町幕府の終わり——幕府は「追放」で終わったのか?

義昭が京都を追放された1573年7月を「室町幕府の滅亡」とするのが一般的な見方です。しかし厳密には、義昭はこの後も将軍の称号を名乗り続け、1588年(天正16年)に豊臣秀吉のとりなしで正式に将軍号を返上するまで、法的には「将軍」でした。

室町幕府の「滅亡」には諸説あります。①1573年(義昭追放)、②1588年(義昭が将軍号返上)のいずれかが有力。教科書では「1573年に室町幕府が滅んだ」と記されることが多いですが、実際には1588年まで義昭は将軍を名乗り続けていました。

もぐたろう
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「追放されたら幕府は終わり」ではなく、義昭は京都の外に出ても15年近く「俺は将軍だ!」と主張し続けたんだよ。しぶとさがすごすぎる……!テストでは1573年が室町幕府の「事実上の滅亡」と覚えておこう。

諦めない足利義昭——鞆幕府と20年の抵抗

京都を追放された義昭は、和泉(大阪府)→紀伊(和歌山県)と転々としたのち、1576年頃に備後(広島県)の鞆の浦とものうらに落ち着きます。この地で義昭は西日本の大勢力・毛利氏(毛利輝元)の保護を受け、幕府としての機能を維持し続けます。これがいわゆる「鞆幕府ともばくふ」です。

男性疑問キャラ
生徒

「鞆幕府」って何?本当に幕府として機能してたの?

もぐたろう
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「鞆幕府」は正式な歴史用語ではなく後世の呼び方だけど、義昭は鞆の浦に滞在しながら全国の大名と外交交渉を続けたんだ。特に毛利氏・上杉氏・北条氏などへ書状を送り、「信長を討て」と訴え続けた。京都にいなくても将軍の名前はまだ使えたわけだよ!

義昭は追放後も、信長が天下統一に近づくにつれ、毛利氏を後ろ盾にして反信長の姿勢を崩しませんでした。1582年(天正10年)6月、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれると、義昭は「これで上洛できる!」と期待しましたが——歴史は義昭の思い通りにはなりませんでした。

■ 豊臣秀吉との関係——ついに将軍号を返上

信長亡き後、天下人の座に就いたのは豊臣秀吉とよとみひでよしでした。秀吉は将軍にはなれない身分(関白には就任)のため、義昭が持つ「足利将軍家の権威」を無視することができませんでした。

1588年(天正16年)、秀吉のとりなしにより義昭はついに上洛を果たします。朝廷から「准三宮じゅさんごう」の宣下(天皇家に準ずる待遇)を受け、同年に正式に将軍号を返上しました。これにより室町幕府は名実ともに終焉を迎えたとも言えます。

足利義昭
足利義昭

信長が死んで15年……結局、将軍の座を取り戻すことはできなかったが、こうして京都に戻ってこられた。これ以上は望むまい。

もぐたろう
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追放から実に15年。信長の死後も秀吉の天下になってもしぶとく生き延び、最終的に上洛してこれたんだよ。義昭、ある意味では最後の勝者かもしれない(笑)。

足利義昭の隠居・最期と子孫

1588年に将軍号を返上した義昭は、「昌山道休しょうざんどうきゅう」と名乗って出家し、隠居暮らしに入ります。豊臣秀吉の庇護のもとで余生を送ることになりました。

■ 足利義昭の死因と最期

足利義昭は1597年(慶長2年)に死去します。享年61歳。死因は老衰・病死とされていますが、詳細な記録は残っていません。

信長に追放され、鞆の浦で20年近く「将軍」として各地大名と交渉を続け、晩年は秀吉に庇護されながら静かに最期を迎えた義昭。その生涯は、戦国の激流に翻弄されながらも諦めることを知らない男の軌跡でした。

足利義昭
足利義昭

将軍に返り咲くことは叶わなかったが……。俺は最後まで諦めずに戦い続けた。それだけは誇りに思う。

■ 足利義昭の子・義尋と子孫

義昭には嫡子として足利義尋あしかがぎじん(1572年生)がいます。義尋は豊臣秀吉の取り計らいにより、奈良・興福寺で出家して僧侶となりました。

義尋が出家したことにより、足利将軍家の嫡流は実質的に断絶します。こうして250年以上続いた室町足利将軍家は、歴史の表舞台から静かに姿を消したのです。

もぐたろう
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義昭が「しぶとい男」として諦めなかったおかげで、足利将軍家は室町時代の終わりまで名目上は存続し続けたんだよね。義尋が出家したことで、武家の棟梁としての足利氏はここで幕を閉じたわけだ。

テストに出るポイント

テストに出やすいポイント
  • 足利義昭=室町幕府第15代・最後の将軍(1568年就任)
  • 1568年:織田信長に擁立されて上洛・将軍就任
  • 1573年:信長に京都を追放→室町幕府の事実上の滅亡
  • 信長包囲網を各地の大名に呼びかけた人物(武田・朝倉・浅井・本願寺・毛利)
  • 追放後は備後・鞆の浦に退去→「鞆幕府」として将軍機能を維持
  • 1588年:秀吉のとりなしで上洛・准三宮宣下・正式に将軍号返上
もぐたろう
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特に「1568年将軍就任」「1573年追放=室町幕府の事実上の終わり」「信長包囲網を呼びかけた人物」の3点は超頻出!年号とセットで覚えておこう。

足利義昭についてよくある質問

「あしかがよしあき」と読みます。室町幕府第15代・最後の将軍で、1537年(天文6年)生まれ、1597年(慶長2年)没。「よしてる(義輝)」「よしひさ(義尚)」など紛らわしい読みが多いため、テストでは「よしあき」と正確に覚えておきましょう。

室町幕府の最後の将軍です。織田信長に担がれて上洛し第15代将軍に就任しましたが、信長との対立から1573年に京都を追放されました。しかし追放後も諦めず、備後・鞆の浦に退き毛利氏の後援を得て20年近く「将軍」として活動し続けた「不屈の将軍」として知られています。単純な「無能な将軍」ではなく、近年は外交センスや粘り強さが再評価されています。

プライドが高く、権威への強いこだわりを持つ人物です。一方で、信長に追放されてもなお各地大名と外交を続けた粘り強さと、状況を見極めて生き延びるしたたかさも備えていました。「悪御所」という呼び名はそのしぶとさ・強さを示すもので、現代語の「悪い人」とは異なります。

信長への敵対行動(信長包囲網の呼びかけ・1573年の槙島城挙兵)が直接の原因です。信長は「殿中御掟」や「異見十七ヶ条」で義昭を縛り、「お飾りの将軍」にしようとしましたが、義昭はこれに反発。武田信玄ら諸大名と組んで信長を包囲しようとしたため、信玄死後に軍事力で制圧されて追放されました。

足利義輝は室町幕府第13代将軍で、義昭の兄にあたります。義昭は次男として早くから出家させられており、兄が生きている間は政治の表舞台には出ていませんでした。1565年(永禄8年)、義輝が三好三人衆らに暗殺された(永禄の変)ことで義昭が将軍候補として浮上し、その後3年の流浪を経て第15代将軍に就任します。

「悪(あく)」は室町時代に「強い・手強い」という意味でも使われた言葉です。もともとは6代将軍・足利義教に用いられた呼称ですが、信長が1572年(元亀3年)に送りつけた「異見十七ヶ条」の中で「世間から悪御所と噂されている」と義昭を批判したことで、義昭にも結びつけられています。現代語の「悪い人」とは意味が異なります。

正式に将軍号を返上したのは1588年(天正16年)です。1573年に京都を追放された後も、義昭はしばらく将軍を名乗り続けました。豊臣秀吉のとりなしで上洛し、朝廷から「准三宮」の宣下を受けたうえで将軍号を返上したのが1588年です。この時点で室町幕府は名実ともに終わりを告げたとも言えます。

足利義昭の生涯まとめ【年表・まとめ】

足利義昭のポイントまとめ
  • 足利義昭は室町幕府第15代・最後の将軍(1568〜1573年在職)
  • 兄・義輝の暗殺後、3年の流浪を経て織田信長の支援で上洛・将軍就任(1568年)
  • 信長の「殿中御掟・異見十七ヶ条」に反発し、信長包囲網を形成。武田信玄の死で失敗し追放(1573年)
  • 追放後も備後・鞆の浦に「鞆幕府」を開いて将軍機能を維持。20年近く諦めなかった
  • 1588年、豊臣秀吉のとりなしで上洛・准三宮宣下・将軍号返上。1597年死去(享年61歳)

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以上、足利義昭のまとめでした!「無能な最後の将軍」というイメージが変わったかな?信長に追放されてからも20年近く諦めなかった、ある意味「戦国で一番しぶとい男」だったんだよ。下の記事で織田信長や室町幕府の歴史についてもあわせて読んでみてね!

足利義昭の生涯年表
  • 1537年
    足利義昭、誕生(父:室町幕府第12代将軍・足利義晴)
  • 1554年頃
    興福寺で得度・出家(法名:覚慶)
  • 1565年
    永禄の変:兄・足利義輝が三好三人衆らに暗殺される
  • 1565〜1568年
    義昭、脱出・流浪(朝倉義景を頼るも上洛叶わず)
  • 1568年
    織田信長に擁立されて上洛・室町幕府第15代将軍就任
  • 1569〜1572年
    信長との関係悪化・殿中御掟(1569年)・異見十七ヶ条(1572年)提示
  • 1572〜1573年
    信長包囲網の形成・諸大名に信長討伐の書状を送る
  • 1573年
    槙島城の戦いで降伏・京都追放(室町幕府の事実上の滅亡)
  • 1576年頃
    備後・鞆の浦に退去、「鞆幕府」として将軍機能を維持
  • 1588年
    豊臣秀吉のとりなしで上洛・准三宮の宣下・将軍号返上
  • 1588年以降
    「昌山道休」と名乗り出家・隠居暮らしに入る
  • 1597年
    足利義昭、死去(享年61歳)。足利将軍家の嫡流が実質断絶

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呉座 勇一 著|中央公論新社(中公新書)

📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「足利義昭」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「永禄の変」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「異見十七ヶ条」「殿中御掟」(2026年4月確認)
コトバンク「足利義昭」(デジタル大辞泉・日本大百科全書、2026年4月確認)
コトバンク「信長包囲網」(デジタル大辞泉、2026年4月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

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もぐたろう

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