

今回は1792年のラクスマン来航について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!なぜロシア人が根室に来たのか、幕府はどう対応したのか、そしてその後の日露外交にどうつながるのかまで、テスト前に絶対押さえておきたいポイントを完全まとめ!
江戸時代【幕末以前】


今回は1792年のラクスマン来航について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!なぜロシア人が根室に来たのか、幕府はどう対応したのか、そしてその後の日露外交にどうつながるのかまで、テスト前に絶対押さえておきたいポイントを完全まとめ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
ラクスマン来航というと、「ロシアが日本に開国を迫った事件」として記憶している人も多いでしょう。
でも実は、ラクスマンが根室に来て帰っていっただけで、通商交渉は何ひとつ決まらなかったのです。ロシアの要求は事実上、すべて先送りにされました。
なぜそんなことになったのか——今回はその経緯をわかりやすく解説します。

ラクスマンって何しに来たの?開国を迫りに来たんじゃないの?

メインの目的は実は「漂流民の返還」だったんだよ。通商要求は二次的なもの。でも結局、何も決まらずに帰っていった——というのがラクスマン来航の実態なんだ。
アダム・ラクスマンは、フィンランド系ロシア人の陸軍中尉です。来航当時は26歳でした。1792年(寛政4年)、江戸幕府の体制が揺れ始めていた時代——松平定信が寛政の改革を進めていたまさにその最中に、このロシア使節は北海道東端の根室に現れたのです。
来航の時代は江戸時代後期・寛政期(1792年)です。中学・高校のテストでは「ラクスマン来航は何年か」「どこに来たか」という問いが頻出します。

17世紀半ばから、江戸幕府は諸外国との交流を厳しく制限していました。これを俗に「鎖国」と呼びます。
鎖国といっても、完全に扉を閉ざしていたわけではありません。外国との交易は4つの窓口に限定されていました。
📌 鎖国体制の「四つの窓口」
①長崎……オランダ・清(中国)との交易
②対馬……朝鮮との外交・交易
③薩摩……琉球王国を通じた交流
④松前……アイヌ民族との交易(蝦夷地)
この四つ以外の場所には、外国船は原則として来てはいけないというルールでした。
ところが18世紀後半になると、ロシアがシベリアを東に向かって急速に勢力を拡大し始めます。千島列島や蝦夷地(現在の北海道)周辺にロシア人が現れるようになり、幕府はそのたびに対応に追われました。

北方領土問題とも関係があるの?

そうなんだよ。ラクスマン来航の時期からロシアと日本の間で千島・樺太をめぐる領土問題が始まってくる。現代の北方領土問題の遠い出発点でもあるんだ。
ロシアはもともと「南下政策」——つまり、凍らない港を求めて南へ南へと勢力を伸ばしていく戦略をとっていました。日本の北方への接近も、その流れの一部です。
そのような緊張した雰囲気の中で、1792年にラクスマンが根室に現れたのです。幕府にとって、これは「四つの窓口以外」にやってきた想定外の来訪者でした。

ラクスマンが根室に来た理由を理解するには、一人の日本人船頭の話から始めなければなりません。
1782年(天明2年)、伊勢国白子の廻船の沖船頭・大黒屋光太夫は、米や木綿を積んで伊勢を出航しました。ところが途中で暴風雨に遭い、船は大破。乗組員17名は太平洋を漂流し続けます。
約7ヶ月後の1783年、一行はようやく陸地にたどり着きます。しかしそこは、はるか北のアリューシャン列島のアムチトカ島でした。日本から遠く離れたロシア領だったのです。
📌 大黒屋光太夫の漂流ルート(概略)
1782年:伊勢を出航 → 嵐で漂流
1783年:アリューシャン列島に漂着(ロシア領)
1789年:シベリアのイルクーツクへ到着
1791年:エカテリーナ2世に謁見・帰国許可を得る
1792年:ラクスマンとともに根室に帰還
アリューシャン列島で2年近くを過ごした光太夫は、なんとか本土のシベリアへ渡ります。そこで運命の出会いが待っていました。
シベリアで光太夫と出会ったのが、博物学者・探検家のキリル・ラクスマンです。フィンランド系ロシア人で、シベリアの植物・動物・鉱物を調査するために赴任していた科学者でした。
キリル・ラクスマンは光太夫の話を聞いて強い関心を持ちます。「この日本人を帰国させれば、日本との外交・通商ルートを開くきっかけになるかもしれない」——そう考えた彼は、時の女帝・エカテリーナ2世に申請します。
1791年、光太夫はついにサンクトペテルブルクでエカテリーナ2世に謁見し、帰国の許可を得ました。同時にエカテリーナ2世は、日本との通商交渉を行う使節の派遣を認めます。
こうして使節として選ばれたのが、キリル・ラクスマンの次男——26歳の陸軍中尉、アダム・ラクスマンでした。

父上から「日本への使節を任せたい」と言われたとき、正直戸惑いました……。でも、帝国の命を受けた以上、長崎への入港許可さえ手に入れれば十分だ、と腹をくくりました。
1792年(寛政4年)9月、アダム・ラクスマンは光太夫ら3名の漂流民を乗せて根室に来航しました。幕府の「四つの窓口」のどれでもない場所——蝦夷地の東端・根室に、ロシアの軍艦が現れたのです。
この突然の来航に、根室を治めていた松前藩は大混乱。江戸の幕府本部への連絡と対応に追われます。
ラクスマンが根室に到着すると、松前藩の役人が対応に出ます。しかし根室は松前藩の遠い出先にすぎず、幕府への報告・指示待ちに時間がかかりました。
江戸幕府からの指示を待つ間、ラクスマンは根室で越冬します。そして1793年春にかけて、交渉の舞台は松前に移ります。松前藩の本拠地で、ようやく幕府の役人と正式な話し合いの場が整いました。
ラクスマンは改めて通商開始を要求します。しかし幕府の方針は揺るぎませんでした。
江戸幕府は「外国との貿易は長崎の出島を通じた限られた国のみ」という鎖国体制を堅持しています。ロシアとの通商を認めることは、その大原則を崩すことになる——幕府はラクスマンの要求を断りました。
ところが単純に「帰れ」とも言えません。漂流民を丁重に届けてくれたロシアを、無礼に追い払えば外交問題になりかねない。そこで幕府が選んだ「落としどころ」が、信牌(しんぱい)を渡すという方法でした。
信牌とは、江戸幕府が発行した長崎港への入港を許可する証明書のことです。
「交渉するなら長崎に来い。その証拠として、この証明書を持ってこい」という意味を持ちます。ラクスマンはこれを受け取ることで、幕府の正式ルートに「予約」を入れたことになります。ただし、幕府は通商そのものは認めていません。

信牌を渡すって「OK」なの?「断った」の?テストでどっちと答えればいい?

「断ったけど、追い払いもしなかった」が正確な答えだよ。信牌を渡すことで「次は長崎で話そう」という方針に持ち込んだ。通商そのものは認めていないから、テストでは「通商を拒否し、信牌を交付した」と書けばバッチリ!
交渉の結果を整理すると、幕府の対応は次のようになります。
通商要求:拒否(長崎以外での交渉には応じない)
信牌の交付:長崎への入港許可証を渡し、次回は長崎で交渉するよう促した
ラクスマンは信牌を受け取ると、おとなしく帰国しました。彼個人としては「信牌を手に入れた」という成果を持ち帰ったことになります。しかし通商開始という目的は達成されませんでした。
ラクスマンが根室に来航した際、幕府側はこの接触をあくまで「漂流民の返還に謝辞を述べる場」として位置づけました。開国を求めていると正面から認識しつつも、表向きは「礼を言いに来た外国人」として扱ったのです。
信牌を渡したのは「長崎奉行に問題を先送りする」巧みな外交策でもありました。当時の老中・松平定信は、通商交渉を長崎という既存の窓口に誘導することで、幕府の体裁を保ちながら直接交渉を回避したと言われています。ロシアを刺激せず、かつ鎖国体制も崩さない——この綱渡りの外交こそが、ラクスマン来航の核心でした。
なお、交渉が行われた場所は最終的に松前でした。根室には幕府の代表者がいなかったため、ラクスマンは根室から松前まで移動して幕府の役人と話し合ったのです。
1792年のラクスマン来航は、松平定信が老中首座として寛政の改革を推進していた真っ只中の出来事です。
松平定信は1787年に老中首座となり、財政再建・風紀引き締めを柱とする改革を進めていました。そこに突然、ロシアの軍艦が北の海に現れたのです。
定信の対応方針は「強硬に拒絶せず、しかし通商は認めない」という現実路線でした。当時のロシアは強大な軍事力を持つ帝国です。下手に刺激すれば武力衝突のリスクがある。一方で鎖国政策を崩すわけにもいかない——そのバランスを取った苦肉の策が「信牌交付」でした。

江戸への来航は断固として認めぬ。だが、むやみに刺激することも避けたい……。「長崎へ来るなら話を聞いてやろう」——これが精一杯の妥協だ。
この対応は幕府内でも議論を呼びました。一部の強硬派は「なぜ信牌を渡したのか、それ自体が通商を認める姿勢に見える」と批判しました。
ラクスマン来航からわずか翌年の1793年、松平定信は老中を解任されます。理由は将軍・徳川家斉との対立とされていますが、ラクスマン対応への批判が一因となったという見方もあります。
いずれにせよ、ラクスマン来航は定信の政権末期と重なる出来事でした。改革の推進者が舞台を去るタイミングと、ロシアの来航が重なったことは、その後の幕府の対外政策に大きな影を落としました。
📌 寛政の改革(1787〜1793年)の主な施策
・棄捐令:旗本・御家人の借金を帳消しに
・囲米:諸藩に米の備蓄を命じた(飢饉対策)
・寛政異学の禁:朱子学以外の学問を幕府学校で禁止
・ラクスマン来航(1792年):改革の最末期に発生した外交危機

松平定信って、ラクスマンの対応に苦慮したまま失脚したってこと?ちょっと気の毒じゃない…。

主な原因は将軍・家斉との政治的な対立だけど、ラクスマン問題でもたついた印象が追い打ちをかけたとも言われてるよ。定信の改革は評価が難しくて、当時もかなり賛否が分かれていたんだ。
ラクスマンが持ち帰った信牌——これは12年後に再び使われることになります。
1804年、ロシアの外交官・レザノフがその信牌を携えて長崎に来航します。今度は幕府の正式ルートを使った交渉でした。
| 比較項目 | ラクスマン(1792年) | レザノフ(1804年) |
|---|---|---|
| 来航場所 | 根室(蝦夷地) | 長崎 |
| 目的 | 漂流民返還+通商要求 | 通商要求(信牌持参) |
| 幕府の対応 | 通商拒否・信牌交付 | 通商拒否・半年以上待たせて帰国させた |
| その後 | 信牌を持ち帰りロシアへ→後のレザノフ来航へ | 激怒→樺太・択捉島への武力攻撃(フヴォストフ事件) |
レザノフは長崎で半年以上待たされましたが、幕府はここでも通商を拒否。レザノフは激しく憤慨し、帰国途中にロシア側の部下に命じて樺太や択捉島の日本の施設を攻撃させました(フヴォストフ事件・1806〜07年)。

じゃあラクスマンが持ち帰った信牌が、12年後のレザノフ来航につながったってこと?

まさにそう!信牌が”日本入港パス”として使われたんだよ。ラクスマン来航は単なる一事件じゃなく、日露外交の連鎖反応の起点だったんだ。ラクスマン→レザノフ→フヴォストフ事件→さらに日本の北方警備強化……と流れが続いていく。
この一連の流れを見ると、ラクスマン来航は「始まり」にすぎなかったことがわかります。幕府の「先送り外交」が、ロシア側の不満を蓄積させ、後の武力行使に至ったのです。
ラクスマンが根室に来て帰っていった——それだけで終わったように見えるこの事件ですが、幕府に与えた衝撃は想像以上に大きなものでした。「四つの窓口以外」にロシアの軍艦が現れたという事実は、幕府の対外政策を根本から揺さぶります。
ラクスマン来航後、幕府が打ち出した主な対応をまとめると、以下の3点になります。
対応①:蝦夷地調査と北方確認の強化
1798〜1799年、幕府は近藤重蔵・最上徳内らを択捉島に派遣し、「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建てました。これは、「択捉島は日本の領土だ」という意思表示でした。
対応②:シグナル台(異国船警戒網)の設置
1792年のラクスマン来航を受け、松平定信は蝦夷地や本州北端にシグナル台(のろし台・遠見番所)を設置させ、ロシア船が再び現れた際にいち早く察知できる体制を整えます。海防意識が急速に高まった時期でした。
対応③:蝦夷地の幕府直轄化
それまで蝦夷地は松前藩が管理していましたが、ラクスマン来航後の1799年、幕府は蝦夷地東部を直轄化します。地方の藩に任せていては北方の守りが心もとない——そういう危機感が背景にありました。

これって現代の北方領土問題ともつながってるの?

直接つながってるよ。ラクスマン来航→択捉島の標柱建立→1855年の日露和親条約(択捉・得撫島間で国境画定)という流れで、現代の北方領土問題の原型が形成されていくんだ。
📌 現代へのつながり——北方領土問題とラクスマン来航
ラクスマン来航(1792年)を受けた幕府の北方確認作業(標柱建立・蝦夷地直轄化)は、日本が択捉島以南を「日本領」と認識していたことの歴史的根拠の一つとされています。現在も未解決の北方領土問題(択捉・国後・色丹・歯舞)の歴史的背景をたどると、ラクスマン来航に行き着きます。
📌 世界史との対比——ナポレオン戦争期のヨーロッパ
ラクスマンが来航した1792年は、ヨーロッパでフランス革命が激化し、翌年からフランス革命戦争(後のナポレオン戦争の前哨)が始まった時期と重なります。ヨーロッパ列強がロシアも含めてフランスとの戦争に引き込まれていった時代背景の中、ロシアは東アジアへの進出にも積極的だったのです。一方で日本は国際情勢の変化にほとんど気づかないまま、「鎖国」という枠組みの中で対応を迫られていました。
ラクスマン来航は、単なる「外国人がやってきた」という事件にとどまりません。江戸幕府が「鎖国を維持しながらどう外圧をしのぐか」という難題に直面した転換点でした。その後の異国船打払令(1825年)や幕末の開国への流れも、この時代の選択の積み重ねから生まれてきます。

大黒屋光太夫の漂流譚はドラマチックすぎて、小説で読むと本当に面白いよ。ここでは特におすすめの2冊を紹介するね!
中学・高校の日本史でラクスマン来航は必ず出てきます。「いつ・どこ・なぜ・幕府の対応」という4点セットでしっかり押さえておきましょう。
📝 よく出る記述・比較問題
・「信牌(しんぱい)とは何か答えよ」→ 江戸幕府が発行した長崎港への入港許可証
・「ラクスマン来航の目的を2つ答えよ」→ ①漂流民(大黒屋光太夫)の送還 ②通商要求
・「幕府はラクスマンに何を渡したか」→ 信牌(長崎入港を許可する証明書)
・「ラクスマン来航のとき老中だった人物は」→ 松平定信
| 比較項目 | ラクスマン(1792年) | レザノフ(1804年) |
|---|---|---|
| 来航場所 | 根室(蝦夷地) | 長崎 |
| 来航の目的 | 漂流民返還+通商要求 | 通商要求(信牌持参) |
| 幕府の対応 | 通商拒否・信牌を交付 | 通商拒否・長期待機後に帰国させた |
| その後 | 信牌を持帰り、後にレザノフが利用 | 激怒→フヴォストフ事件(樺太・択捉島攻撃) |

「1792年ラクスマン来航」って絶対テストに出るよね?語呂合わせで覚えられる?

「いきなり急に(1792)ラクスマン」が定番の語呂合わせだよ!あとはセットで「信牌」の読み(しんぱい)と意味(長崎入港許可証)も必ずチェックしてね。記述問題でよく出るから。
1792年(寛政4年)、ロシア使節アダム・ラクスマンが蝦夷地(北海道)の根室に来航した事件です。日本人漂流民の大黒屋光太夫を返還しながら、通商を求めました。江戸幕府の鎖国体制を揺るがした最初の本格的な外圧とも言われています。
主な目的は2つです。①日本人漂流民(大黒屋光太夫ら3名)の送還と、②日本との通商交渉です。送還の背景には、アダムの父・キリル・ラクスマンが光太夫と出会い、エカテリーナ2世から通商交渉の許可を得たという経緯があります。
江戸幕府が発行した、長崎港への入港を許可する証明書です。幕府はラクスマンに「通商交渉は長崎でのみ認める」として信牌を交付しました。これはロシアを追い払わず、かつ通商も認めないという苦肉の策でした。この信牌は12年後の1804年にレザノフが長崎に来航する際に使われました。
ラクスマンは1792年に根室に来航し、幕府から信牌を受け取って帰国しました。レザノフは1804年にその信牌を携えて長崎に来航しましたが、幕府に通商を拒否され、半年以上待たされた末に帰国。その後、怒ったレザノフは部下に命じて樺太・択捉島の日本施設を攻撃させました(フヴォストフ事件)。
老中・松平定信は「通商は拒否するが、ロシアを刺激しすぎない」という現実路線を取りました。その落としどころが「信牌の交付」です。ロシアに「次は長崎で話し合おう」と伝えることで、江戸や根室での交渉を避けました。定信はこの対応の翌年(1793年)に老中を解任されており、ラクスマン対応への批判も一因とされています。
ラクスマン来航には大きく3つの歴史的意義があります。①鎖国体制への最初の本格的な外圧として幕府の海防意識を高めた、②択捉島への標柱建立など北方確認作業の契機となり、現代の北方領土問題の原型が形成された、③信牌を通じてレザノフ来航・フヴォストフ事件へとつながる日露外交摩擦の連鎖を生んだ——以上の点から、幕末開国への布石となった重要な事件といえます。

以上、ラクスマン来航のまとめでした!ラクスマン→レザノフ→フヴォストフ事件→異国船打払令という流れを一本の線でつなげておくと、幕末の開国問題もグッと理解しやすくなるよ。関連記事もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「ラクスマン来航」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「アダム・ラクスマン」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「大黒屋光太夫」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「キリル・ラクスマン」(2026年6月確認)
コトバンク「アダム・ラクスマン」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「大黒屋光太夫」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
根室市教育委員会「ラクスマンの根室来航」(2026年6月確認)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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