今回は、1792年にロシア人が根室にやってきたラクスマン来航という事件についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
江戸幕府「鎖国中なのに外人がやってくる(涙」
当時、日本は鎖国をしていました。清・朝鮮・オランダ・琉球王国など特定の国としか交易をしないようにしていたのです。
鎖国とは「交易する国を一部の国だけに制限すること」。全ての国と交易をシャットアウトしていたわけではありません!!
ところが、1790年頃になるとイギリスやアメリカなど交易を認めていない国々の船が次々と、日本にやってきます。
この時、江戸幕府の中心的存在だった松平定信は、無益な争いが起きぬようこれらの国に対して穏便な対応を行います。
怪しい外人だからと言って無下に扱ってはならない。トラブルが起こらないよう丁重に対応するのだ。
ただし、向こうが交易を求めてきたら断固拒否する。それだけは、何がなんでも譲ってはならない。
ロシアと日本の領土問題
アメリカ・イギリス・ロシアと問題児が次々と日本にやってきますが、この中でもロシアは日本にとって少し特別な存在でした。
というのも、日本とロシアは北方の蝦夷地を通じて接点を持っていたからです。
当時、日本は松前藩を通じて北海道の東にある国後島のアイヌと交易をしていました。
一方の、ロシアはラッコの毛皮などの資源を欲して、千島列島を南下。北方領土の東に位置するウルップ島付近まで蝦夷地に接近していたのです。
以下の地図を見てみると、日本とロシアは択捉島付近を中間地帯として、かなり近い距離まで接近していたことがわかります。
そんな中、1789年に国後島のアイヌたちが松前藩に対して蜂起を起こしました。(クナシリ・メナシの戦い)
おいおい、ヤバイだろ・・・。
アイヌだけなら余裕だけど、アイヌがロシアと組んで蝦夷地に攻め込んできたら、松前藩どころか江戸幕府も終わるぞ・・・
クナシリ・メナシの戦い自体は無事鎮圧されたものの、この戦いの後、江戸幕府はロシアのことを強く警戒するようになります。
そんな事情がある中で、ラクスマンは蝦夷地の根室までやってきたのです。当然ながら、江戸幕府からはメチャクチャ警戒されました。
ラクスマンはなぜやってきた?
ラクスマンが根室に来航したのは、1792年10月。ラクスマンの来航目的は、2つありました。
この漂流民たちが漂流したのは1783年。伊勢から江戸に向けて大黒屋光太夫ら17人を乗せた船が嵐により漂流してしまいます。
7ヶ月漂流した後、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。さらっと書いてますが、生きているだけでも、めちゃくちゃすごいことです。
漂流民たちはそこで先住民やロシア人と出会い、しばらくの間、アムチトカ島で暮らすことになりました。その中で光太夫らはロシア語を取得。4年後の1787年、船を作りロシア人とともに島から出てカムチャッカを経由し、1789年にイルクーツクへ向かいます。
イルクーツクで光太夫らは、博物学者のキリル・ラクスマンという人物と出会います。キリル・ラクスマンは光太夫の境遇に深く同情し、光太夫が帰国できるよう各所に働きかけましたが、これはうまくいきませんでした。
そこで次は、キリス・ラクスマンの弟であるアダム・ラクスマンが、ペテルブルクにいるロシア帝国の女帝エカテリーナ2世に直接交渉してくれました。交渉の結果、漂流民たちの帰国が許されることとなったのです。
ここまでの地理は以下の地図で確認できます。移動距離が凄い・・・!
エカテリーナ2世は、決して親切心でこれを認めたわけではありません。漂流民の返還をきっかけに、日本に通商を求めようと考えたのです。
エカテリーナ2世は、海路でシベリアに向かうための拠点として日本に注目していました。
日本との交渉任務を任されたのは、エカテリーナ2世に直接交渉をしたアダム・ラクスマン本人。
1792年9月、アダム・ラクスマンは3人の漂流民と船に乗せて蝦夷地へと向かいます。17人いた漂流民のうち12人はロシアで亡くなり、生き残った5人のうち2人はイルクーツクへの残留を希望します。そして、残りの3人だけが帰国の途についたわけです。
そして、同年10月根室に入港します。根室到着後、1人の日本人が病死。無事に帰国できたのは、大黒屋光太夫ともう1人の計2名だけでした。
伊勢からアリューシャン列島、そしてイルクーツクに向かって次は蝦夷地へ・・・。大黒屋光太夫は他の日本人ではまず経験することのないような、破天荒な生涯を歩みました。
余談になりますが、大黒屋光太夫の壮絶な生涯は多くの人を魅了し、大黒屋光太夫を題材にした小説が多く書かれています。
井上靖もその1人で、大黒屋光太夫の生涯を描いた「おろしや国酔夢譚」という物語を残しています。
ラクスマンと江戸幕府の交渉始まる
ラクスマンが根室に到着すると、松前藩は根室に駐在させていた家臣を通じて江戸幕府にラクスマンの要求内容を報告。
ラクスマンはすぐに江戸へ来航することを希望しますが、松前藩はこれを拒否。ラクスマンにはとりあえず根室に居てもらって、幕府の対応方針を来年(1793年)の5月頃まで待ってもらう・・・という話でまとまりました。
幕府内では、ラクスマンの対応をめぐって議論が紛糾しますが、結果的に松平定信の案が採用されます。
この案で画期的なのは2番です。松平定信は、長崎であれば最悪の場合、通商を認める覚悟を持っていました。
ただし、通商を認めるということは外国の船がどんどんやってくるということ。さらに、その外国船が軍艦だった場合、日本は外国から襲撃される可能性があるということです。
なので、幕府の本丸である江戸への来航だけは断固拒否しました。
徳川将軍のいる江戸に来航することは何があっても拒否する・・・!!
という感じで、松平定信はロシアとの関係も考慮した上で、妥協案をラクスマンに提示したのです。
【朗報】ラクスマン、そのままロシアに帰る
この松平定信の案はラクスマンにも受け入れられ、1792年6月、ラクスマンは松前に到着。
松前で漂流民2名の返還が行われると、長崎に入港する準備が進められ、ラクスマンは長崎入港の許可書を受け取ります。
こうして、長崎でいよいよロシアと開国か・・・!と思われた矢先、予想外のことが起こります。
ラクスマンが、なぜかそのままロシアに帰ってしまったんです。
ロシアに帰った理由はわかりません。
この時、ラクスマンは長崎の入港許可書をロシアに持ち帰っています。おそらく「入港許可書を得ただけでも十分な成果であり、無理をする必要はない」とラクスマンは考えたのでしょう。
実際、ラクスマンは、長崎の入港許可書をエカテリーナ2世に渡して日本の様子を伝えると、その内容が評価され、ロシア帝国内で出世を遂げることになります。
開国を望まない江戸幕府にとっては、天運が味方をしたように感じたことでしょう。
この後、日本は欧米諸国からの開国要求を拒み続け、1854年にアメリカのペリーによって結ばれた日米和親条約まで鎖国を続けることになります。
ラクスマン来航の影響
終わってみれば、ラクスマンのしたことは、日本にやってきて漂流民を返還してもらっただけでした。
なぜ、こんな平凡な事件が歴史の教科書に乗っているかというと、「ロシアの公式の使節が日本に来た!」という事実だけで、江戸幕府の運営に大きな影響を与えたからです。
蝦夷地の防衛強化
松前藩は北海道各地でアイヌと交易を行っていましたが、当然ながら「ロシアから蝦夷地を守る!」という国防の意識までは持っていませんでした。
しかし、幕府の権力者である松平定信は、クナシリ・メナシの戦いとラクスマン来航によって、蝦夷地をロシアに支配されないための海防政策の実施を決断します。
海防論自体は以前からあったものの、お金と人が必要になるため実施には慎重な姿勢でしたが、ラクスマン来航をきっかけに、実施することが決定したのです。
1799年、東蝦夷(北海道の東側)を江戸幕府の直轄領として、東北諸藩(津軽藩、南部藩、仙台藩など)に警備をさせるようになります。
アイヌの待遇改善
また、和人に不満を持ったアイヌがロシアと結託しないよう、これまで松前藩に虐げられていたアイヌの待遇改善も行われました。
択捉島の争奪
日本とロシアの中間地帯となっていた択捉島でしたが、次第にロシア人がやってくる頻度が増えてきます。
そこで、ロシアより先に択捉島を手に入れるため、江戸幕府は大規模な現地調査隊を択捉島に派遣しました。
近藤重蔵と最上徳内という人物が中心となり現地調査が行われ、択捉島内の丘に「大日本恵登呂府」という標柱を立て、択捉島が日本のものであることをアピールしました。
今なお残る北方領土問題。
この複雑な問題の直接の原因は太平洋戦争ですが、歴史をさかのぼれば、江戸時代後期から、択捉島付近を境として領土問題の火種がすでに生まれつつあったのです。
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