今回は、日露戦争の講和条約として1905年9月に締結されたポーツマス条約についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
ポーツマス条約の概要を先に載せておきます↓
この記事では、以下の点を中心にポーツマス条約について解説していきます。
ポーツマス条約が結ばれた理由
ポーツマス条約は日露戦争の講和条約です。なので、ポーツマス条約が結ばれた理由を知るには日露戦争について知る必要があります。
というわけで、日露戦争の経過を簡単にですが時系列でまとめてみました↓
- 1904年2月日本、ロシアに宣戦布告
日本の目的は満洲。満洲のロシア軍を攻めるため、遼東半島と朝鮮半島の二方面から攻撃を開始します。
- 1904年8月〜1905年1月旅順攻囲戦
遼東半島にある旅順の攻略に半年を要する。要塞と化した旅順の攻略は難航し、多くの兵が犠牲となる。
- 1905年1月血の日曜日事件
ロシア国内で、戦争による重税などをきっかけに専制政治を続ける政府に対して反対運動が起こる。
- 1905年2~3月奉天会戦
満洲で起こった日本VSロシアの総力戦。
結果は日本の辛勝。この戦いによって満洲攻略の活路が開かれるが、被害が大きすぎて日本はこれ以上の戦争継続が難しくなる。
この頃から、国内ではロシアと講和を結ぼうとする動きが本格化。しかし、まだ余力のあるロシアは講和を拒否。
- 1905年5月日本海海戦
バルチック艦隊VS日本艦隊。
結果は日本の完勝。
ロシアは海戦力を喪失。おまけに国内の暴動で戦争どころではなくなり、日本との講和条約に応じることに。
- 1905年7月樺太の戦い
日本は交渉を有利にするため、樺太に攻め込む。
- 1905年9月ポーツマス条約が結ばれる←この記事はココ
我々は兵を失いすぎた。兵器も底を突き、財政的にも限界に達している。
これ以上の戦争は無理ゲー。
国内の暴動がヤバいことになってきた。しかも、バルチック艦隊の敗北で海軍は壊滅。
このまま戦争を続けるのはリスキーすぎる・・・
日本とロシアの思惑が一致したことで、終戦に向けた講和が行われることになります。
アメリカが仲介に入るのはなぜ?
ロシアと講和をしたい日本ですが、日本自らロシアに要求することはできません。
日本自ら「ロシアさん、講和しませんか?」って言うのは、「日本はロシアに負けました」と言っているようなものだからです。こうなると、ロシアの立場が上になるので、日本に有利な条件で講和を結ぶのが難しくなります。
だから日本は、ロシアとの講和を斡旋してくれる第三国を探しました。
そこで日本が頼ろうとしたのがアメリカ。アメリカに注目した理由は以下の2点です。
そして、アメリカ側にも日本とロシアの間を取り持ちたい理由がありました。
1896年頃から、清国は列強国に次々と支配されていきます(中国分割)。しかし、アメリカはその流れに乗り遅れました。
日本とロシアの間に仲介することで、少しでもいいからアメリカも清国に対して発言力を持ちたいぞ!
こんな思惑から、アメリカは日本の提案に乗りました。さらにアメリカはこんなことも考えます。
清国が他の列強国に支配されることは、アジア進出に遅れたアメリカにとっては良いことではない。
アメリカは、列強国が清国を分割支配した中国分割に反対して、「支配領域なんか作らないでみんな平等に清国と貿易とかしようぜ!」と門戸開放を以前から主張していました。
その点、ロシアの満洲支配に反対する日本とは利害が一致する。ここは日本に協力するのが得策だろう。
おまけに、日本は最近アメリカが手に入れたフィリピンの隣国である。ここで日本に恩を売ることはフィリピンの安定統治にも繋がるはずだしな。
こんな思惑から、日本とロシアの講和条約の仲介としてアメリカが入ってきたわけです。
ポーツマス条約締結までの経過
講和条約は1905年の8月からアメリカのポーツマスで行われました。
仲介をしたのはアメリカ大統領のセオドア=ルーズベルト。
日本からは外務大臣の小村寿太郎、ロシアはウィッテという人物が講和の全権を任され、ポーツマスに向かいます。
小村寿太郎とウィッテは、それぞれ以下のような命令を受けて交渉に臨みました。
私が託された交渉内容は主に次のようなものだった。
そして、可能ならば・・・
日本は、樺太をゲットするための伏線として1905年7月に樺太を攻撃し、占領していました。
という条件もロシアに要求するつもり。
(他にも細かい条件はたくさんあるんだけど、ここでは省略!)
私が託された命令は『絶対に賠償金も土地も日本に渡すな!』というものだった。
ロシアは日露戦争では連戦連敗したけど、日本よりも余力があったから強気の姿勢で交渉に臨んだのだ。
交渉は難航します。
日本がロシアに要求する「賠償金よこせ」・「樺太をよこせ」という部分と、ロシアの「金も土地も日本には渡さない!」という部分が真っ向から対立したからです。
最終的にロシア側は「樺太の南半分だけなら日本に譲渡しても良いかも・・・」と譲歩し、この条件を日本が断るようなら交渉決裂も辞さない覚悟でした。
一方の日本に交渉決裂という選択肢はありません。交渉を決裂させての戦争継続は不可能だったからです。この強硬なロシアの姿勢についに日本もロシアの提案で譲歩し、1905年9月5日、以下の内容でポーツマス条約が調印されることになります。
平和だ!!日本が全部譲歩したぞ!!
ウィッテは喜びのあまり会議を終えるとすぐ、こう言って随員と抱擁をしたと言われています。ウィッテはニコライ二世(ロシアの皇帝)から「これでダメなら交渉決裂」と指示を受けていましたが、ウィッテ本人は和平による終戦を望んでいました。日本が譲歩してくれたおかげでウィッテの望みが叶い、喜びの感情を爆発させたのです。
ポーツマス条約と日比谷焼打ち事件
日露戦争は不思議な戦争でした。
日本はロシアに連戦連勝しました。でも、勝てば勝つほど兵と武器を失い、遂に戦争継続が不可能な状態になってしまいます。
ところが、日露戦争中、日本国内では「日本はロシアに連戦連勝」というところだけが切り取られ、メディア(新聞や雑誌)に流されました。
当然、日本国内にはこんなムードが流れます。
連戦連勝で日本余裕の大勝利!日本は強い!
ロシアからがっぽり賠償金もらえるんだろうな。戦時中は重税に耐えてきたから、これで報われるわ〜。
しかし、ポーツマス条約の交渉経過からもわかるように日本はロシアから賠償金をもらうことはできませんでした。これに民衆たちは大激怒。
は?日本大勝利なのに賠償金貰わないとか小村寿太郎はバカなの?
戦時中の思い重税に耐えてきた苦労はなんだったの?賠償金をもらえないんじゃ、俺たちはずーっと苦しい生活のままじゃねーか!!
ちょうどポーツマスで条約が調印されたのと同じ1905年9月5日、東京の日比谷公園で、賠償金なしの条約締結に反対する抗議運動が起こります。この抗議運動は暴動に発展し、東京各地で交番などが焼かれました。(日比谷焼打ち事件)
小村寿太郎という男
アメリカへ向かう当時は歓喜の声で送り出された小村寿太郎。しかし、帰国の際は、歓喜の声が嘘のように誹謗中傷の嵐の中、迎えられることになります。
条約締結の責任をとって切腹しろ!
小村寿太郎は帰る国を間違ってるんじゃねーの?
お前の帰る場所はロシアだろーが!!
家族には殺害予告がなされ、留守の家を襲撃される事件まで起こっています。
しかし、小村寿太郎がヘマをしたわけでは決してありません。国力の差というハンデを負いながらこの内容でポーツマス条約を締結に持ち込めたことは、むしろ善戦だったという評価もあります。
民衆が小村寿太郎に暴言を吐く一方で、事態を冷静に理解していた政府の要職たちは小村寿太郎の苦労を労い、手厚くこれを迎えました。
罵声の嵐で泣き崩れる小村寿太郎に、当時総理大臣だった桂太郎と海軍大臣の山本権兵衛は左右から寄り添い、小村寿太郎がテロリストに襲われた場合にはこれを命がけで守ろうとした・・・とも言われています。
小村寿太郎は迎えにきた息子を見てこう言います。
息子よ、生きていたか!
(テロリストに殺されずに本当に良かった・・・)
帰国後も小村寿太郎への誹謗中傷は続き、妻は精神的に追い詰められ、小村夫婦は別居生活を強いられることに・・・。
帰国後に悲惨なことになるであろうことは、小村寿太郎もある程度は覚悟していました。ロシアとの交渉は難航し、連戦連勝で浮かれている国民が納得するような結果にならないことは、小村寿太郎のみならず、政府上層部の多くの人が最初から予想していたことだったからです。
国民から嫌われ命を狙われるのを覚悟の上でポーツマス条約の交渉に臨み、日露戦争に終止符を打つことで国民の生活を救った小村寿太郎の男気溢れる功績を私たちは決して忘れてはいけないように思います。
当時に生きる人々は小村寿太郎を誹謗中傷しましたが、後世を生きる私たちは過去の出来事を冷静に見ることができるのですからね。
最後は少し余談になりました。小村寿太郎のエピソードがあまりに印象的だったので、つい書いてしまいました。
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