今回は、1895年に清国と日本の間で結ばれた下関条約についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
最初に教科書風の概要を載せておきます。
この記事では下関条約について以下の点を中心に解説を進めていきます。
下関条約が結ばれるまでの流れ
最初に下関条約が結ばれた理由・時代背景を時系列でまとめてみました。
- 1894年8月
- 1895年2月清国海軍、日本に降参する
連戦連勝を続ける日本軍に、清国海軍が降参。
- 1895年3月清国、日本へ講和の申し出をする
海軍を失った清国は、日本との講和で戦争を終わらせることに。
- 1895年4月下関条約が結ばれる。←この記事はココ!
勝者日本と敗者清国の間で条約が結ばれる。もちろん、日本に圧倒的有利な内容で。
しかし、交渉のクライマックスの段階になって、ロシア・フランス・ドイツが日本に有利すぎる内容に対して文句を言う三国干渉と言う事件も起こった。
と、こんな感じで下関条約は日清戦争を深く関係しているので、時代背景を知りたい方はまずは日清戦争の記事を参考にしてみてほしいです。
1894年8月1日の宣戦布告により日清戦争が起こると、日本は清国に連戦連勝。1895年1月頃になると日本国内では「ここまで清国を追い詰めたんだし、そろそろ清国と終戦に向けて和睦交渉を進めれば、圧倒的有利な条件でこの戦争を終わらせられるのでは?」という世論が沸き起こり、来たる清国との交渉内容について議論が交わされます。
以下は、いろんな人たちの意見です↓
日本海軍「資源と南方拠点の確保ために、台湾とその周辺の澎湖諸島を清国からゲットするべき!」
日本陸軍「遼東半島をゲットするべきだ。あそこは鉄壁の守備を持ち、我が陸軍も攻略に苦しんだ要害。しかも位置的にもロシアに奪われる前に確保しておくべき!」
大蔵省「賠償金はたっぷり貰うべき!」
自由党などなど「清国の領土を大量に奪うべき!」
中露公使「露骨な条件にしすぎるとロシアが介入してくるから、清国の領土確保には慎重になるべき!」
などなど、立場によって様々な意見が出されました。
下関条約の交渉経過
1895年2月に清国海軍が壊滅すると、3月には清国側から講和の申し出があります。
日本はこの講和を受け入れ、清国との交渉に臨みます。直接交渉に当たったのは総理大臣の伊藤博文と外務大臣の陸奥宗光。一方の清国は、実力者の李鴻章が交渉に臨みます。
交渉の場は日本の下関。3月19日に李鴻章が下関に到着し、その後、日清両国の交渉が行われます。
実は、伊藤博文と李鴻章が外交に臨むのはこれが初めてではありません。1885年、甲申事変の事後処理として結ばれた天津条約で、両者は話し合いをしたことがあります。
つまり、下関での講和は手の内を知っている者同士での交渉だったということです。そのため、戦後の交渉にも関わらず、交渉は比較的和やかなムードで行われました。
・・・が、和やかなムードに反して、話の内容は非常に過酷なものでした。
講和に入る前に、清国に残る日本兵の撤退(休戦)させて欲しい。講和条約はそれからで、まずは休戦交渉から始めたい。
良かろう。
日本側は休戦の代わりに、講和が終わるまでの間の清国領土・鉄道の一部占領、清国兵の武装解除、休戦中のこちら側の軍事費を全て清国が負担することを要求する。
・・・過酷!あまりにも過酷!
休戦に対する条件として、日本側の提案はあまりにも厳しすぎるぞ!!
申し訳ないが、この条件を変えることはできない。
講和の前に休戦を望むならこの条件を飲むか、戦争を継続したまま講和を進めるか、どちらか選ぶが良い。
・・・ダメだ。その条件は飲めない。
休戦は諦めるが、その代わり早期の講和条約を結ぶことを望む。
清国を圧倒していた日本には休戦する理由がなかったので、交渉の余地がないほど過酷な条件を突きつけることで休戦交渉をとっとと終わらせて、メインである講和交渉を早期に開始する・・・という意図がありました。
下関条約、決裂の危機
休戦の望みを断たれた李鴻章は、清国に日本軍が残った状態で講和交渉に入ります。つまり、清国は「武力で脅された状態で交渉しなければならない」という不利な状況に立たされわけです。
・・・ところが清国にとって幸か不幸か、この事態を打破するような大事件が起こります。3月24日、李鴻章がテロリストに狙撃され重傷を負ってしまったんです。
この襲撃事件は、下関条約の交渉の大きすぎる影響を与えました。
日清戦争は東アジアの一大事件であり、その結果に多くの列強国が関心を持っていました。そのため、下関条約の交渉は日本と清国の間の交渉でありながら、イギリスやロシアといった列強国の動向も考慮しなければならない非常に難易度の高い外交だったんです。
外務大臣の陸奥宗光は、この状況を冷静に分析します。
これを放っておけば、列強国から『日本は戦勝国のくせに交渉に臨んだ敗戦国の将を殺すような野蛮な国なのか』と批判をされかねない。
李鴻章なら列強国の日本批判のムードを利用して、交渉の挽回を狙うだろう。李鴻章が『テロに襲われるような国で交渉などできぬ』と交渉を中断して清国へ帰国すれば、清国が列強国を味方に引き入れる可能性は十分に考えられる。
さらに、現状を踏まえた今後の方針を考えます。
列強国には、日本が清国の領土を奪うことをよく思っていない国も多くある。自分が欲しているものを先に日本が手に入れるのだからな。
この状態で列強国が交渉に介入すれば、間違いなく交渉を有利に進めることが困難になる。
ここは、思い切って李鴻章が動く前に先手を打つのが良かろう。絶対に李鴻章を帰国させてはならない。
こちらから清国が最も望んでいた休戦(日本軍の撤退)を認め、日本が主導権を握ったまま、列強国が介入してくる前に早期に下関条約を締結させるべきだ!
治療のため病床にいる李鴻章が「清国に帰る」と言った時点で、ほぼ確実に交渉は決裂。チェックメイトです。李鴻章の先手を打つには、もはや一刻の猶予も残されていないのです。
陸奥の意見に同意する伊藤博文は大至急、軍部に対して休戦を要求します。軍部が無条件の休戦に否定的な態度を取ると、3月27日には明治天皇に命令を出させ、強引に休戦を決定させます。
28日には、伊藤博文はベッドに横たわる李鴻章の元を訪れ「無条件での休戦を認める」と告げると、李鴻章はこれを喜んで受け入れ、講和の再会を望みます。ここまで李鴻章が襲われてからわずか4日。
交渉決裂の危機は、陸奥宗光の冷静な判断と、天皇との直接交渉も辞さない伊藤博文の迅速な行動によって回避されたのでした。
下関条約と三国干渉
李鴻章を再び講和の場に戻すことに成功すると交渉は順調に進み、主に以下の4つの内容で条約が結ばれます。(細かい内容は他にもたくさんあります)
陸海軍・大蔵省などの要求をバランスよく含んだ形です。
4月17日には内容が確定し、日本と清国は下関条約に調印しました。
下関条約の調印が終わると、両国はそれぞれ自国で批准の準備を始めます。批准が無事に終われば条約が結ばれたことになるので、いよいよ交渉はクライマックスということです。
しかし、このクライマックスの段階で、朝鮮や清国の領土を狙っていたロシアが下関条約に干渉してきます。
ロシアは、調印された下関条約の内容を知ってビビります。
ロシア「俺も狙ってた遼東半島を日本が先に奪うだと・・・。そんなことは絶対に許さん。日本から遼東半島を奪い返してやんよww」
ロシアは利害関係の一致したフランス・ドイツも誘って、日本に対して圧力をかけることにしました。
4月23日、ロシア・フランス・ドイツの公使が日本の外務省に対してこう脅迫してきます。(これを三国干渉と言います)
「遼東半島は清国の首都(北京)に近いし、朝鮮にも隣接する場所。日本が遼東半島を奪えば、必ずや東アジアの平和は乱れる。東アジアの平和のためにも日本は遼東半島を返還した方が良いとアドバイスしとくよー(逆らったら戦争も辞さないつもりだから、覚悟しとけよコラ)」
日清戦争を終えたばかりの日本にロシアと闘う余力など残っていません。しかも、清国がロシアに接近して、遼東半島どころか下関条約の批准自体を白紙にしてしまう可能性すらありました。
こうなった以上は、苦渋の決断ではあるがロシアの言うことを聞くしかあるまい。遼東半島を返還しなければ、交渉全てがパーになる可能性もあるのだからな。
この冷静な判断が受け入れられ、日本は遼東半島の返還を決断。こうしてようやく下関条約が締結されることになりました。
日本は下関条約によって遼東半島を手に入れますが、その後すぐに遼東半島の返還手続が行われ、遼東半島は清国に返されることになります。
下関条約のその後
日本は遼東半島こそ奪い損ねたものの、台湾を奪うことには成功しました。台湾は日本が初めて手に入れた植民地です。日本は台湾統治に全力を注ぐことになります。
一方のロシアは、清国が日本に払う賠償金を貸す代わりに、遼東半島を含む清国北部を領土を租借し、支配を強めることになります。ロシアは清国と日本の戦争を利用して漁夫の利を得た形です。
【租借】
外国の領土の中のある地域を借りて、一定の期間、統治すること。
三国干渉に関与したフランス・ドイツも清国の領土を租借しています。
日清戦争に負けた清国は、その弱みにつけこまれ、列強国(ロシア・フランス・ドイツ・イギリス)に領土を次々と奪われてしまいます。すると、清国では列強国に対する反対運動が起こり、社会は不安定化。義和団事件と呼ばれる大暴動も起こり、清国は滅亡への道を歩み始めます。
日本国内では、自力で勝ち取った遼東半島をロシアに奪われたことで反ロシアの機運が高まり、両者は下関条約締結の9年後(1904年)、日露戦争で対峙することになります。
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