上図は、百人一首に載っている持統天皇の一句です。持統天皇の歌は、万葉集にも見られ、天皇であるとともに文化人であったことが伺えます。
ところで、持統天皇については世間ではほとんど知られていません。なぜなら、学校で教わることがないからです。
持統天皇は夫(天武天皇)の意思を忠実に受け継ぎ、新しい日本を造り上げた偉大な女帝です。天武天皇の夢見た数々の偉業は、実はほとんどが天武天皇死後、持統天皇が実現していきます。つまり、天武天皇の偉業は、天武天皇1人で実現できるものではなく、妻(持統天皇)がいて初めて実現可能となったと言えます。天武天皇については、以下の記事を参考にどうぞ。
夫婦協力して新しい国造りをするなんて、なんだかロマンチックですね。と思うのは自分だけか・・・(汗)
そろそろ、本題に入っていきます!
家族一同「みんな仲良くしようね!」「うん!」持統天皇「だが断る」
(出典:wikipedia ※赤枠のみ加筆)
天武天皇は、686年この世を去ります。
天武天皇は、自分自身が壬申の乱で兄の天智天皇と争った経験から、「子どもたちには、私が経験したあの兄弟同士を争いを絶対にさせてはならない!!」と強く思っていました。
(壬申の乱については、現代日本の原点となった壬申の乱。なぜ壬申の乱は起こったのかをどうぞ~)
そこで、天武天皇が亡くなる前の679年、故郷の吉野で子供らと皇后(天皇の妻。持統天皇)を集めて皆で誓いを立てます。
※天武天皇は、壬申の乱の前、出家し吉野に住んでいた。
天武天皇「兄弟同士で争ってはならぬ。1000年後まで永遠に争いが起こらぬよう盟約を立てようぞ」
子供ら一同「仰せの通りでございます。盟約を立てましょう」
草壁皇子「天地の神々、そして天皇に誓います。皆、母親が違えども争うことなくお互いに助け合って生きていくことを。もしこの誓いを破るようなことがあれば争いが起こり、子孫は滅ぶことになるでしょう。」
他の子供ら「(順番に1人づつ、草壁皇子と同じように誓いを立てる)」
天武天皇「ああ、我が息子らよ。私はお前たちを同じ母から生まれた子として慈しむだろう」
天武天皇は、胸元を開き、子供たちを抱擁します。天武天皇は、子供たちを皆、皇后(持統)の子であるように平等に扱おうとしました。
ところで、なぜ違う母から生まれた子だとダメなのでしょうか?そこには、未だ曖昧なままの皇位継承ルール(皇室典範)が理由にあります。
暗黙の皇位継承ルール
まだ蘇我氏がいた時代(600年~640年ぐらい)、天皇即位には群臣からの擁立が必要で、天皇と言えども有力豪族の様子を伺わなければなりませんでした。特に強大な権力を持った蘇我氏の以降は天皇選定に大きな影響力を持っていました。以下の推古天皇の記事を読むと当時の雰囲気がおぼろげにわかると思います。
しかし、乙巳の変により蘇我氏が排除され、有力豪族が没落した後、皇位継承問題にも変化が生じます。
まずは、「譲位」(天皇位を譲ること)制度ができました。これにより、前天皇が次期天皇を指名することができるようになります。
(譲位は、皇極天皇と言う天皇が初めて行いました。詳しくは、中大兄皇子と中臣鎌足は大化の改新で何をした?【天皇制の一大改革】1/2をどうぞ!)
そして、もう1つ重要なのが、母方の血筋が重要視されるようになったということです。その代わりに、群臣からの擁立というルールは亡くなります(暗黙の圧力をかけるということはあります)。
天武天皇は、子供同士が皇位継承のため争うようなことが起こらぬよう、上記のような誓いを立てさせたのはこのためなのです。子供たちをみな平等に扱えば、争いは起こらないだろうと。
持統「誓い?何それ???」大津皇子排除される
681年、草壁皇子が皇太子(天皇候補)となります。
上図で言えば、高市皇子 > 草壁皇子【20歳】 > 大津皇子【19歳】 という年齢順で、年齢的には長男の高市皇子が次期有力候補に見えますが、高市皇子の母は身分が低かったため、皇后(持統)の子である草壁皇子が皇太子となりました。
既に、天武天皇との誓いは破られています。草壁皇子の皇太子決定には、自分の子を天皇にしたい持統天皇の意思が強く反映されています。
しかし、草壁より1つ年下の大津皇子。文武両道、頭脳明晰の超イケメンで人格者であるという完璧な人物でした。
大津皇子は、周囲の人々からの信望も厚く、次第に「草壁皇子よりも大津皇子が皇太子となるべきではないか?」というのが世間の風潮となっていきます。
持統「このままだと、私の子、草壁が天皇になれないかもしれないわ・・・。大津皇子には消えてもらうしかないわね(ニヤ」
そして686年、天武天皇は亡くなり、いよいよ次期天皇を草壁皇子か大津皇子のどちらかに決断する時が到来しました。
ところが!!同じく天武天皇逝去後すぐの686年9月24日、イケメンこと大津皇子の謀反が発覚し、同年10月2日に死を命じられます。
持統「あら、偶然にも大津皇子がいなくなりましたわ。これで草壁の天皇即位も安泰ね。(計画通り(ニヤ」
あまりにも早すぎる謀反への対応や大津皇子の人柄などから、この謀反は持統天皇が自分の息子の草壁を天皇にしたいがために、わざとでっち上げたものであるという説がかなり有力です。
私もこの説に賛成しています。なぜなら、持統天皇の父は、謀略マスターこと天智天皇だからです(汗
(持統天皇のお父さん、天智天皇については天武天皇のライバル天智天皇、政争に強すぎワロタ【陰謀多すぎ】)
大津皇子、無念の一句
無念の死を遂げた大津皇子の辞世の一句が現在まで残されています。
ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
【現代語訳】
今までずーっと見てきた磐余の池に泣く鴨を見れるのも今日が最後。明日には私は死んでしまうだろう。
「雲隠りなむ」は他界の比喩ですね。平和だった日々が一変し、追い詰められた大津皇子の無念がこの一句から伝わってきます・・・ (´;
本当に謀反を企んでいた人がこんな潔い歌を歌うでしょうか・・・?皆さんはどう思いますか?
持統天皇は、天皇であると同時に草壁の母でもありました。結局、天武天王が目指した「子供はみな平等」という理想は、草壁を愛する持統天皇には理解できるものではなく、再び兄弟同士の悲劇が繰り返されたのでした。
草壁皇子の早逝と持統天皇の即位
大津皇子がいなくなり、持統は安堵したことでしょう。
しかし、689年、なんと大津皇子を闇に葬ってまで天皇にさせようとしていた草壁皇子がなくなってしまいます。30歳ぐらいだったので、当時でも早逝でした。
持統天皇は、草壁の逝去を受け、草壁の子(持統の孫)に天皇位を渡そうと考えます。草壁の子は将来、文武天皇として即位することになりますが、689年時点ではまだ幼かったため、文武天皇即位までのつなぎとして、自らが天皇として即位することを決めます。
690年、持統天皇即位。女帝の誕生です。こうして、持統天皇は、天武天皇の意思を引き継ぎ、藤原京の造営を行っていくのです。
文武天皇までのつなぎ役と言いつつも、持統天皇は、天武天皇が作り上げた絶対的天皇権威を皇位継承後も維持するよう努め、藤原京の造営や飛鳥浄御原令なども無事に完成させるなど、なかなか優秀な人だったようです。
【次回】
https://manareki.com/huhito_fuziwara
【前回】
コメント