

今回は持統天皇について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!夫・天武天皇との関係、大津皇子事件、藤原京の造営まで、ぜんぶまとめて紹介していくね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト)対応
「持統天皇」と聞くと、「天武天皇の妻」「百人一首の作者」というイメージが強いかもしれません。世間では「夫の陰で控えめに支えた女帝」というイメージで語られがちです。
しかし実は、持統天皇は夫・天武天皇の〝実質的な共同制作者〟だったのです。日本初の本格的な都「藤原京」も、律令国家の基礎となった「飛鳥浄御原令」も、どちらも天武天皇の在世中には完成しませんでした。それらを死後に引き継ぎ、完成させたのは持統天皇です。
つまり、天武天皇の輝かしい業績の多くは、持統天皇なしには実現しなかった。本記事では、教科書ではあまり語られないその「もう一つの顔」も含めて、持統天皇の生涯をわかりやすく丁寧に解説していきます。
持統天皇とは?
- 第41代天皇(在位690〜697年)。飛鳥時代を代表する女帝
- 夫・天武天皇の死後に藤原京の造営と飛鳥浄御原令の施行を完成させた
- 草壁皇子の母・文武天皇の祖母として、皇位継承を守り抜いた

持統天皇は、645年に生まれ703年に崩御した、日本史上3人目の女性天皇です。父は天智天皇(中大兄皇子)、夫は天武天皇。つまり「父も夫も天皇」という、当時の最高権力の中心にずっといた人物です。
幼名は鸕野讚良皇女。父・天智天皇の娘として生まれ、13歳のときに叔父にあたる大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁ぎました。叔父と姪の結婚は現代の感覚では驚きますが、当時の皇族では血統を保つために珍しくない結婚でした。
その後、夫・天武天皇とともに壬申の乱(672年)を戦い抜き、天武天皇の皇后として国政に深く関与。天武天皇の死後、混乱の中で自ら皇位につき、藤原京の造営や律令制度の整備を進めました。
定期テストや共通テストでも頻出の人物で、特に「藤原京遷都(694年)」「飛鳥浄御原令の施行(689年)」「大津皇子事件」の3つはセットで覚えておきたいところです。

持統天皇って結局なにした人なの?名前は聞いたことあるけど、具体的になにをしたのかよくわからないんだよね……。

ひと言でいうと「夫が残した未完成の国づくりを完成させた女帝」だよ!日本初の本格的な都「藤原京」を完成させた人なんだ。次の章から、まずは父・天智天皇との関係から見ていこうね!
持統天皇の父・天智天皇との関係
持統天皇の父は天智天皇。あの大化の改新を主導した中大兄皇子その人です。蘇我氏の専横を打ち倒し、中央集権国家への大改革に踏み切った、当時最強クラスの政治家でした。
母は遠智娘といい、蘇我倉山田石川麻呂の娘です。つまり、持統天皇の体には「天智天皇の血」と「蘇我氏の血」の両方が流れていました。蘇我氏が滅ぼされた直後の世代に生まれた、まさに激動の時代の子供です。
父・天智天皇は冷徹で計算高い政治家として知られています。後の大津皇子事件で持統天皇が見せた冷徹な政治判断は、「父譲り」とも言われます。情に流されず、必要なら身内も切るという気質は、まさに天智天皇の血を引いた女帝の証だったのかもしれません。


父が天智天皇で、夫がその弟の天武天皇って、なんだか関係が複雑ですね……。家族の中はどうなっていたんでしょう?

ものすごく複雑だよ!父と夫が「兄弟」で、しかも壬申の乱では「父の後継者(大友皇子)」と「夫(大海人皇子)」が皇位をめぐって戦うんだ。持統天皇は父の側ではなく夫の側に立ち、夫とともに父の後継者を打ち倒すんだよ……。
📌 補足:天智天皇は晩年、自分の息子大友皇子に皇位を継がせたいと考えていました。しかし当時の皇位継承の慣習では、弟である大海人皇子(のちの天武天皇)が次の天皇になる流れが強かったのです。この「親子継承」と「兄弟継承」のせめぎ合いが、壬申の乱の根本原因になりました。持統天皇は父ではなく夫の側で戦い、勝利します。
671年、父・天智天皇が崩御。翌672年、夫・大海人皇子は吉野に逃れたあとに挙兵し、天智天皇の息子である大友皇子と日本古代史最大の内乱「壬申の乱」を戦うことになります。このとき鸕野讚良皇女(のちの持統天皇)は27歳。後宮で待つのではなく、夫とともに吉野を出て、約50日間の行軍に同行しました。戦況を共にしながら夫を支え続けたその姿は、単なる「妃」ではなく、まさに「戦友」でした。「父より夫」という決断は、彼女のその後の人生を大きく決定づけることになります。
持統天皇の夫(旦那)・天武天皇とは?

持統天皇の夫(旦那)は天武天皇です。二人の関係は古代史の中でも特に注目される夫婦関係です。
天武天皇はもともと大海人皇子と呼ばれ、天智天皇の弟(つまり持統天皇の叔父)でした。天智天皇の崩御後、672年の壬申の乱で甥の大友皇子を破り、即位して天武天皇となります。日本の天皇のなかでも、もっとも武力で皇位をつかんだ人物の一人です。
天武天皇は強大な権力を握り、八色の姓の制定、律令の編纂、藤原京の計画、国史(『古事記』『日本書紀』のもとになる事業)の編纂など、後の律令国家の骨格を一気に築き上げました。これらの大事業の多くを、皇后である持統天皇は単なる妻ではなく〝政治のパートナー〟として支えていたのです。

子どもたちよ、兄弟で争ってはならぬ。お前たちはみな、血を分けた兄弟なのだから……。
これは679年、有名な「吉野の盟約」のときに天武天皇が皇子たちに言ったとされる言葉です。天武天皇は、自分の死後に皇位継承をめぐって息子たちが争うことを恐れ、皇后である持統天皇と6人の皇子を吉野宮に集め、互いに助け合うことを誓わせました。妻である持統天皇は、この場に夫と並んで立ち会い、誓いの中心人物となっていました。
しかし686年、天武天皇は重要な事業の多くを未完成のまま病死してしまいます。藤原京は造営が始まったばかり、律令の編纂もまだ途中。「夫の遺志を、誰がどう引き継ぐのか」——その重い問いが、皇后だった持統天皇に突きつけられたのです。

天武天皇と持統天皇は、夫婦であり、戦友であり、政治のパートナーでもあった。これだけ強く結びついた天皇夫婦は、日本の歴史のなかでも本当に珍しいんだよ!だからこそ、夫の死後も持統天皇は「夫の意志を完成させる」という強い覚悟で動いていけたんだね。
持統天皇の子供・草壁皇子
持統天皇と天武天皇の間に生まれた子供は、ただ一人、草壁皇子のみです。教科書では深く触れられないこの草壁皇子の存在が、実は持統天皇の人生を読み解く最大の鍵となります。

草壁皇子は662年生まれ。持統天皇は彼を心の底から愛し、「この子こそ次の天皇に」と強く望んでいました。当時の皇位継承では、母親の身分の高さがとても重要でした。皇后(持統天皇)から生まれた草壁皇子は、父・天武天皇の正統な後継者として申し分のない血筋だったのです。
ところが、天武天皇には他にも妃がいて、そこからも有能な皇子たちが生まれていました。とくに脅威だったのが、もう一人の妃から生まれた異母兄弟大津皇子です。詩歌の才に恵まれ、武芸にも優れ、人望も厚い。「もし大津皇子が天皇になったら、草壁皇子の出番はない」——持統天皇の心には、常にこの不安がつきまとっていました。

草壁皇子って、なんで天皇になれなかったの?持統天皇がそんなに息子を大事にしていたなら、ふつうに天皇にすればよかったんじゃ……?

とても残念なんだけど、草壁皇子は即位する前に病死してしまったんだ。28歳の若さで689年に亡くなってしまうんだよ……。それで持統天皇は、息子の代わりに自分が即位して、孫(文武天皇)に皇位をバトンタッチすることで皇統を守ったんだ!
📌 草壁皇子はなぜ天皇になれなかったのか?:天武天皇の死後、持統天皇は草壁皇子を即位させるためにあらゆる手を尽くしました。最大のライバル・大津皇子を排除し(686年)、即位の準備を整えていたのです。しかし689年、草壁皇子は即位の準備中に突然病死してしまいます。原因は史料に明記されていませんが、当時としては若すぎる死でした。
草壁皇子が亡くなったとき、宮廷歌人・柿本人麻呂は「日並皇子尊の殯宮のとき」と題した哀歌を詠み、『万葉集』の名作として今も語り継がれています。宮廷の人々がいかに草壁皇子を惜しんだか——そしてその母・持統天皇の悲しみがいかに深かったかが、伝わってくる逸話です。
息子の死後、持統天皇は皇位を孫(草壁皇子の子)に継がせる方針を固めます。しかし、その孫(のちの文武天皇)はまだ7歳。あまりに幼すぎたため、「大人になるまでの中継ぎ」として持統天皇自らが即位したのです。これが690年、第41代天皇・持統天皇の即位です。
そして697年、孫が15歳になったところで、持統天皇は自ら譲位し、孫を文武天皇として即位させます。「持統天皇 子供」「文武天皇の父」「文武天皇 父」と検索する人が多いのも、まさにここがポイントだから。草壁皇子こそが、文武天皇の父です。持統天皇の血筋(正確には天武+持統の血筋)は、こうして孫の代に引き継がれ、後の奈良時代へとつながっていきました。
大津皇子事件——持統天皇の冷徹な政治判断

大津皇子は、天武天皇の第三皇子。母は持統天皇の姉・大田皇女。つまり大津皇子から見れば、持統天皇は「実の叔母」にあたります(大田皇女が持統天皇の姉にあたるため)。本来であれば、もっとも頼りになる身内のはずでした。
『日本書紀』によれば、大津皇子は容姿端麗で度量も大きく、武芸にも詩歌にも優れていたといいます。父・天武天皇からも特別に可愛がられ、「政治に参加してよい」とまで認められていました。当時の宮廷で、彼を「次の天皇」と推す声があっても不思議ではない人物だったのです。
しかし、持統天皇の目には別のものが映っていました。「我が子・草壁皇子を即位させるためには、大津皇子は最大の脅威」。母としての愛と、政治家としての冷徹な計算——その両方が彼女の中で、ひとつの結論に向かって収束していきました。
686年9月、夫・天武天皇が崩御。その喪が明けないわずか1か月後の10月2日、大津皇子は突如「謀反の疑い」で捕えられ、翌3日には磐余の自邸で死を賜ります。享年24歳。捕えられてから処刑まで、たった1日——しかも不思議なことに、謀反の具体的な計画は、史料のどこにも明記されていないのです。
では、いったい何が「謀反の疑い」の根拠だったのか。当時の記録から、3つの不可解な事実が浮かび上がってきます。
- 処刑まで1日という異常な速さ:通常の謀反事件であれば取り調べや審議に時間がかかるはずが、大津皇子の場合はわずか1日で処刑された。まるで最初から結論が決まっていたかのようだったと、後世の研究者たちは指摘します。
- 連座者は多数なのに、処刑されたのは大津皇子だけ:謀反に連座したとして逮捕・処罰された人物は複数いたとも言われるが、死を賜ったのは大津皇子ただ一人。他の連座者は流刑・降格程度で済まされた。
- 密告者の存在:謀反発覚の経緯として、宮廷内からの密告があったとも言われる。事件後に持統天皇から重用された人物の存在が、後世の研究者の注目を集めている。
これらの状況証拠が重なることで、後世の歴史家の多くは「実際の謀反計画はなかった(または、あっても極めて初期段階だった)のではないか」と見ています。スピードと容赦のなさ、その異様な手際の良さから、「持統天皇による政治的排除だった」という推測は現在も有力です。
「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」
(大津皇子の辞世の句:今日かぎりで磐余の池の鴨を見て、私は雲の向こう——あの世——へと消えていくのだろうか)
この事件に関して、『日本書紀』にはさらに衝撃的なエピソードが記されています。大津皇子の妻・山辺皇女は、夫の訃報を知った瞬間、「髪を乱し裸足で走り出て」夫のあとを追い、自ら命を絶ちました。その場に居合わせた人々はみな涙を流して嘆き悲しんだと伝えられています。
2人がどれほど深く愛し合っていたかを示すこの逸話は、大津皇子の死がいかに突然で、いかに多くの人の心を傷つけるものだったかを物語っています。
この事件は、持統天皇の人物像を大きく分けます。「冷徹な謀略家」と見る人もいれば、「夫の遺志と我が子を守るために、自分の手を血で汚す覚悟をした母」と見る人もいます。どちらが正しいかは、史料からは断定できません。ただひとつ言えるのは、この決断がなければ、その後の藤原京造営も律令制度の整備も成立しなかったかもしれない、ということです。
そしてあまりにも皮肉なことに——大津皇子の死からわずか3年後、持統天皇が命がけで守ろうとした草壁皇子もまた、即位することなく病死してしまいます。「我が子を天皇に」という願いは、結局、自分の手では叶えられませんでした。母としての悲しみと、政治家としての孤独。持統天皇の人生のもっとも残酷な一場面です。

大津皇子事件は、持統天皇の人物像を語るうえで絶対に外せない事件だよ。「謀略家」と見るか「母として」と見るかで印象がガラッと変わるんだ。テストでは「686年・大津皇子の処刑」とセットで覚えておこうね!
持統天皇の最大の業績——藤原京の造営と飛鳥浄御原令
持統天皇の最大の業績は、夫・天武天皇が始めた二大事業——「飛鳥浄御原令」の施行と「藤原京」の造営——をどちらも完成させたことです。「持統天皇 何した」「持統天皇 何をした人」という疑問への答えは、この2つにあると言っても過言ではありません。

📌 称制とは?:天武天皇が686年に崩御してから、持統天皇が正式に即位する690年まで、じつに4年間、持統天皇は「称制」という形で政治を担いました。称制とは天皇に即位せずに政務を執り行うこと。この4年間に、大津皇子の排除・飛鳥浄御原令の施行というきわめて重要な事項をすべてやり遂げています。正式な「天皇」になる前から、すでに女帝として機能していたのです。
■飛鳥浄御原令の施行(689年)
飛鳥浄御原令は、夫・天武天皇が編纂を命じていた、日本初の本格的な「令」です。「令」とは現代でいう「行政組織や役人の働き方を定めたルール」のこと。これがなければ、国家としての形が成り立ちません。
編纂中に天武天皇が崩御してしまったため、その遺志を継いで689年に施行したのが持統天皇です。この令によって、官僚制度・戸籍制度・税制の枠組みが整備され、日本の律令国家の土台がついに動き始めました。
📌 飛鳥浄御原令ってなに?:今でいう「会社の組織図と就業規則をまとめた基本ルールブック」のようなもの。役人の役職・責任・税の集め方などを定めた「令」と呼ばれる法律です。701年の大宝律令の前身にあたり、日本の律令国家のスタート地点と言える重要な法令でした。「律」(罰則ルール)は含まれず、「令」だけだった点が特徴です。

飛鳥浄御原令って、なんで天武天皇じゃなくて持統天皇のときに完成したの?

天武天皇が編纂をスタートさせたんだけど、完成する前に病死しちゃったんだ。それを「夫の遺志を絶対に途絶えさせない」って覚悟で持統天皇が引き継いで、即位前の689年に施行までこぎつけたんだよ!「夫が始めて、妻が完成させる」って関係がよくわかる事業だね!
■藤原京への遷都(694年)

藤原京は、694年に持統天皇が遷都した、日本史上初の本格的な都城です。それまでの飛鳥の宮(飛鳥浄御原宮など)が天皇一代ごとの「宮」レベルだったのに対し、藤原京は唐の長安を手本にした碁盤目状の本格的な都市でした。
場所は奈良県橿原市あたり。中央に天皇が政務をとる藤原宮が置かれ、その周囲に東西南北に整然と区画された街路が広がっていました。大和三山(畝傍山・耳成山・天香具山)に囲まれたこの土地は、古代日本の「国家のあり方」を世界に示すための象徴でもあったのです。
もともと藤原京の構想は天武天皇の時代から始まっていました。しかし完成までに莫大な労力と時間がかかり、完成・遷都は天武天皇の死から8年後の694年。これを成し遂げたのは紛れもなく持統天皇です。「飛鳥」から「藤原京」への遷都は、日本が「氏族連合の国」から「律令国家」へと脱皮する象徴的な出来事でした。

藤原京は、後の平城京(奈良)や平安京(京都)のお手本になった、すごく重要な都なんだよ!「日本初の本格的な都城=藤原京=694年=持統天皇」のセットで覚えるのが共通テスト対策の基本だよ!
■伊勢神宮の整備と天照大神
持統天皇のもう一つの重要な業績が、伊勢神宮の整備です。皇祖神天照大神を祀る伊勢神宮は、もともと天武天皇の時代から重視されていましたが、持統天皇の代に20年ごとに社殿を建て替える「式年遷宮」の制度が整えられたとされます(第1回の式年遷宮は持統天皇4年=690年)。
これは単なる宗教行事ではありません。「天皇家は天照大神の子孫である」という神話を国家のレベルで公式化することで、皇位の正統性を確固たるものにする狙いがありました。「自らも女帝でありながら、皇祖神も女神」——この重なりが意識されていた可能性も指摘されています。
持統天皇のあとに編纂が本格化する『古事記』『日本書紀』にも、天照大神の物語が中心に据えられます。これらの神話編纂事業も、天武天皇の遺志を持統天皇が引き継いだものでした。律令・都城・神話——この3点セットで「日本という国家のかたち」が、ほぼこの時代に完成していったのです。
持統天皇の性格・エピソード

持統天皇の性格は、ひと言で表すなら「冷徹な政治家であると同時に、情の深い母であり妻」でした。大津皇子事件で見せた決断力の鋭さと、夫・天武天皇の遺志をひたすら守り抜いた一途さ——この二つの顔が、彼女の人物像を立体的にしています。
『日本書紀』には、持統天皇が「思慮深く、寛容で、寡黙な人」だったという旨が記されています。父・天智天皇ゆずりの政治的洞察力と、母・遠智娘から受け継いだとされる繊細な感受性。その両方を併せ持っていた女帝だったとされます。
また、持統天皇には特徴的な行動パターンがありました。それは異常なまでの「吉野行幸」の多さです。在位中に確認できるだけで31回以上、吉野(現在の奈良県吉野町)を訪れています。

31回って、毎年2〜3回ペースで行ってるってこと?吉野ってそんなに大事な場所だったの?

吉野は持統天皇にとって、夫・天武天皇との「原点」みたいな場所なんだよ。壬申の乱の前、夫婦で身を潜めて挙兵を決断した思い出の地なんだ。亡き夫を偲ぶ気持ちもあったのかもしれないね。
吉野は、672年の壬申の乱の直前、夫・天武天皇と持統天皇が身を隠した場所です。さらに679年には、夫婦と6人の皇子が「兄弟で争わない」と誓い合った「吉野の盟約」の舞台でもありました。持統天皇にとって吉野は、夫との絆と、皇統の安寧を祈る原点だったのです。
そして政治的な意味もあります。吉野行幸を繰り返すことで、夫・天武天皇の権威を継承する自分の正当性を、群臣たちにくり返し示していたとも言われます。
■百人一首「春過ぎて」と万葉集
持統天皇は、政治家としてだけでなく歌人としても一流でした。代表作は、誰もが一度は耳にしたことがある百人一首第2番——。
「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」(百人一首第2番/新古今和歌集)
(春が過ぎて夏が来たらしい。真っ白な衣が干してあるという、あの天の香具山に。)
原歌は『万葉集』巻一に収められた「春過ぎて 夏来たるらし 白栲の 衣干したり 天の香具山」。藤原宮から見える天香具山に、夏の白い衣が干されている——その情景を、まるで一枚の絵のようにスケッチした、清涼感あふれる名歌です。
注目したいのは、この歌が詠まれた舞台。持統天皇が完成させた藤原京の宮から、大和三山の一つ・天香具山を眺めて詠んだ歌だとされます。政治的な大事業の合間に、こんなにも繊細な感性で季節の移ろいを切り取れる。冷徹な政治家のイメージとは違う、もう一つの持統天皇の姿が浮かび上がってきます。

……夫よ、見えますか。藤原宮の窓から眺める天香具山の白い衣を。あなたが夢見たこの都に、また夏が巡ってきました。

持統天皇の和歌は『万葉集』に何首も収められているよ。政治家としての顔と歌人としての顔——その両方を持っていた多面的な人物だったってことだね!
持統天皇の晩年——太上天皇制度の創設と崩御
■文武天皇への譲位と太上天皇制度
697年、持統天皇は在位7年で孫の軽皇子(=文武天皇)に譲位します。当時、文武天皇はまだ15歳。本来であれば持統天皇がもうしばらく在位を続けることもできたはずですが、彼女はあえて譲位を選びました。
その理由は、「夫・天武天皇の血を引く孫を、確実に天皇として即位させる」という強い意志でした。持統天皇が亡くなった後では、誰が後ろ盾になって孫を支えるのか分からない。だからこそ、自分が生きているうちに孫を即位させ、自らはその後見役に回るという道を選んだのです。
このとき持統天皇が名乗った称号が、太上天皇です。略して上皇とも呼ばれます。「譲位した後も政治の実権を持ち続ける、前の天皇」という新しい地位。これが日本で初めて公式に使われたのが、持統天皇のときでした。
📌 太上天皇ってなに?:天皇を譲位したあとに名乗る称号。略して上皇とも呼びます。今でいうと「会長に退いたけど、社長より影響力のある創業者」みたいなイメージ。持統天皇の太上天皇就任が、後の院政(白河上皇など)にもつながる制度の起源とされます。

譲位したあとも実権を持ち続けるって、ちょっと現代の感覚だと違和感があるかも。それでも当時はうまく機能したのですか?

持統太上天皇は文武天皇の在位中も実権を握り、701年の大宝律令制定にも深く関わったとされているよ。「藤原京の完成→飛鳥浄御原令の施行→太上天皇として大宝律令を後押し」って、最後まで国家体制づくりに尽力したんだ。
■持統天皇の死因と崩御(703年)
702年12月、持統太上天皇は病に倒れ、翌703年1月13日(大宝2年12月22日)に崩御します。享年58歳。史料には具体的な病名は記されていません。当時としてはそれなりの年齢で、譲位後も精力的に政務をこなしていたことから、晩年の過労が体に響いた可能性は否定できません。
注目すべきは、その葬送の方法です。持統天皇は日本の天皇として初めて「火葬」された人物でした。これは仏教の影響を受けたもので、当時としては画期的なことです。火葬された遺骨は、夫・天武天皇が眠る檜隈大内陵(奈良県明日香村)に合葬されました。
夫と同じ墓に眠る——それは、持統天皇が生涯をかけて守ろうとした「天武天皇との二人三脚の国づくり」の、最後の象徴のようでもあります。生前に共に歩んだ二人は、死後もまた同じ場所で眠ることを選んだのでした。
近代以降、持統天皇は「日本の律令国家を完成させた女帝」として高く評価されています。藤原京・飛鳥浄御原令・太上天皇制度・式年遷宮——いずれも、その後1300年以上にわたって日本の歴史に影響を与え続けた制度ばかりです。
夫の業績の陰に隠れがちですが、近年は「古代日本の国家体制を形にした、もっとも実務能力の高い天皇の一人」として再評価が進んでいます。

持統天皇が亡くなったあとも、彼女の遺志は孫・文武天皇に引き継がれて、701年の大宝律令で律令国家がほぼ完成するんだ。「飛鳥時代の総仕上げ」を担った女帝——それが持統天皇の最終的な評価だよ!
持統天皇・飛鳥時代をもっと深く知るためのおすすめ本

持統天皇についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
テストに出るポイント
ここからは、定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたい持統天皇のポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 比較問題でよく出るポイント:①「天武天皇=飛鳥浄御原令の編纂を開始」「持統天皇=飛鳥浄御原令を施行・藤原京を完成」のセットで、誰が何をやったかを区別する。②「藤原京(持統天皇・694年)」「平城京(元明天皇・710年)」「平安京(桓武天皇・794年)」の3都城の遷都セットで覚える。
よくある質問
飛鳥時代の第41代天皇(在位690〜697年)で、天武天皇の皇后として共同統治を行った女帝です。夫の死後はその遺志を継ぎ、飛鳥浄御原令の施行(689年)・藤原京の造営と遷都(694年)を完成させ、日本の律令国家の土台を築きました。
第40代の天武天皇(てんむてんのう/大海人皇子)です。672年の壬申の乱を共に戦い、即位後は皇后として共同統治を行いました。叔父と姪の関係でもあります(天武天皇は持統天皇の父・天智天皇の弟)。
天武天皇との間に生まれた草壁皇子ただ一人です。草壁皇子は即位前の689年に28歳で病死しましたが、その子(持統天皇の孫)が後の文武天皇となりました。つまり持統天皇は文武天皇の祖母にあたります。
686年、夫・天武天皇の崩御からわずか1か月後、天武天皇の第三皇子・大津皇子が「謀反の疑い」で捕えられ、翌日に死を賜った事件です。多くの歴史家は、我が子・草壁皇子の即位を確実にするため、持統天皇(当時は皇后)が政治的に排除したものと推測しています。大津皇子は享年24歳でした。
従来の「天皇一代ごとの宮」から、唐の長安を手本にした本格的な都城へと国家体制を転換するためです。藤原京は飛鳥浄御原令と並ぶ律令国家の象徴で、もともと天武天皇の構想を持統天皇が完成させたもの。694年に遷都し、日本初の条坊制(碁盤目状の都市計画)を持つ本格的な都城となりました。
703年1月13日(大宝2年12月22日)に58歳で崩御しましたが、史料には具体的な病名は記されていません。譲位後も太上天皇として精力的に政務をこなしていたため、晩年の過労が体に響いた可能性があるとされます。日本の天皇として初めて火葬され、夫・天武天皇陵に合葬されました。
『日本書紀』では「思慮深く寛容で寡黙な人」と評されています。一方で、大津皇子事件で見せた決断力の鋭さや、孫の即位を確実にするために自ら譲位して太上天皇となる戦略性から、「冷徹な政治家であると同時に情の深い母」という二面性を持つ人物だったと考えられています。百人一首の名歌からは繊細な感性も垣間見えます。
持統天皇まとめ
- 645年誕生(幼名:鸕野讚良皇女)。父は中大兄皇子(後の天智天皇)
- 657年頃叔父・大海人皇子(後の天武天皇)の妃となる
- 662年草壁皇子を出産
- 672年壬申の乱——大海人皇子とともに吉野で挙兵し、勝利
- 679年吉野の盟約——夫と6人の皇子で「兄弟で争わない」と誓う
- 686年夫・天武天皇崩御。1か月後、大津皇子が謀反の疑いで処刑される
- 689年飛鳥浄御原令を施行。同年、草壁皇子が即位前に病死(享年28)
- 690年持統天皇として即位(第41代天皇)
- 694年藤原京へ遷都——日本初の本格的な条坊制都城
- 697年孫・文武天皇に譲位。日本初の太上天皇となる
- 703年崩御(享年58歳)。日本初の天皇火葬。天武天皇陵に合葬

以上、持統天皇のまとめでした!夫・天武天皇の陰に隠れがちだけど、藤原京・飛鳥浄御原令・太上天皇制度——古代日本の国家のかたちを形にした「影の立役者」だったんだ。下の記事で天武天皇や飛鳥時代の歴史もあわせて読んでみてください!
あわせて読みたい
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「持統天皇」(2026年5月確認)
コトバンク「持統天皇」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
コトバンク「藤原京」「飛鳥浄御原令」「太上天皇」(2026年5月確認)
Historist(山川オンライン辞典)「持統天皇」(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。







