壬申の乱の勝者となり、皇位簒奪を成し遂げた天武天皇。
日本では、聖徳太子時代からずーっと、天皇を中心とした中央集権国家の確立に向けて歩みを続けていました。そして、それを完成させたのが天武天皇です。
天武天皇は、一体何をしたのでしょうか?
天武天皇の歩み、その到達点には天照大神がいました。
圧倒的勝者、英雄となった天武天皇
わずか10名程度で吉野を脱出してからたった一か月ほどで皇位簒奪クーデターを成功させた天武天皇。その巧みな戦略と行動力に誰もが感嘆し、否が応でも天武天皇の権威を高めることとなります。
(壬申の乱については、現代日本の原点となった壬申の乱。なぜ壬申の乱は起こったのかをどうぞ!)
絶対的君主、天武天皇のカリスマ性
壬申の乱の後、天武天皇はしばらく飛鳥の宮で政治を行います。
天武天皇は、政治を大臣に任せることはせず、法や軍事、行政改革など多くの分野について自らが指揮をとり政治を行いました。
おそらく寝る時間もないほど多忙な日々を送っていたことと思いますが、天武天皇にはそれをこなすだけの強いカリスマ性を持っていました。
このような絶対君主の立場から、天武天皇は政治を行います。
皇族の威信を高めるべし!八色の姓
天武天皇は、自らを頂点とし、有力豪族(氏族)に新しい身分秩序を設けようとしました。それが八色の姓の制定です。
それまでも、主に個人に対して「臣(おみ)」「連(むらじ」「公(きみ)」などの姓が個人個人に与えられていました。これらの姓は、旧来の豪族たちの力関係に基づいて決定されていました。
天武天皇は新たな身分秩序として「真人(まひと)」「朝臣(あそん)」「宿祢(すくね)」「忌寸(いみき)」・・・・と8つの身分を新たに作り、旧来の豪族の力関係による身分序列を廃止し、皇族との親縁関係を基準として身分秩序を改めました。
実際は、真人~忌寸までの4つの姓しか使われず、最高位である真人の姓を皇族に重点的に与えることで、皇族の地位を今までよりも高いものとしました。
そして、真人や朝臣よりもさらに高い身分として君臨したのが天武天皇です。天武天皇は、皇族の地位を高めることにより、自分自身の地位を高めることができたのです。
革新的な都!藤原京の造営
天武天皇は、即位後、飛鳥宮を都として政治を行っていましたが、新たな都の造営を考えていました。そして造営されたのが藤原京です。
694年に完成しましたが、その時、天武天皇はすでに逝去しており、完成した藤原京を見ることはありませんでした。
何が革新的?「京」と「宮」の違い
厳密には、藤原京は、新益京(あらましのみや)と呼ばれ宮(天皇が住むところ)を含めた宮都全体を指しました。そして、新京の宮が、藤原宮と呼ばれていたのです。
教科書などでは、新益京をその宮の名前をとって「藤原京」と呼んでいます。
藤原京の何が凄いかと言うと、宮はこれまでも歴代天皇が立派なものを造営してきたのですが、藤原京では宮の周囲についても本格的な整備がなされたことが凄いのです。
宮の周囲は、上図のような条坊制が採用され、今までにない本格的な宮都が造られていくのです。
本格的な法律の制定、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)
天武天皇は法律も制定しました。飛鳥浄御原令と言います。
この飛鳥浄御原令により始めて、国名を「日本」とすること、君主を「天皇」と呼ぶことが定められます。
そんな、日本人ならぜひ知っていたい法律が、飛鳥浄御原令なんです!!(天皇号については、推古天皇の頃から用いられていたという説もありますが・・・)
ただし、この飛鳥浄御原令は、完璧な法律体系にはなっておらず、完成系は701年に作られた大宝律令を待たねばなりません。
いずれにせよ、ハード面は藤原京造営、ソフト面では飛鳥浄御原令制定と本格的な天皇統治に向けて国政改革が進められていきます。
天武天皇、神になる
伊勢神宮で戦勝祈願
話は、壬申の乱にさかのぼります。実は、天武天皇、壬申の乱の際に、伊勢神宮へ戦勝祈願を行っています。
(壬申の乱について知りたい方は、現代日本の原点となった壬申の乱。なぜ壬申の乱は起こったのかをどうぞ!)
直接参拝したわけではなく、上図のように、伊勢神宮の方向を向いて遥拝(ようはい。遠くから拝むこと)していました。
このときはまだ、伊勢神宮は最高神を祀る神社ではなく、伊勢地方にある神社の1つに過ぎませんでした。
天武天皇は、壬申の乱に勝利できたのは伊勢神宮のご加護があったからだと考えており、伊勢神宮を他の神社と比べて特別視するようになります。
そして、天武天皇即位後、伊勢神宮は天皇家専用の神宮へと生まれ変わります。こうして、現代まで続く伊勢神宮が生まれたのです。
天武天皇が壬申の乱の際に、違うルートを通っていたら、伊勢神宮は今のような最高神を祀る神社にはなっていなかったかもしれません。天武天皇と伊勢神宮は切っても切り離せない関係と言えます。
神々の序列化 -八百万の神と天照大神-
天武天皇は、八色の姓制度の導入により、新たな身分秩序を設け、皇族や自分自身の地位をより高いものとしましたが、なんと神々をも序列化してしまいます。
恐るべし天武天皇・・・。
縄文時代、日本は豊かな自然が満ち溢れ、四季折々に様々な自然の恵みが山々や川、海などからもたらされ、一万年以上もの間、狩猟・採取の生活を続けていました。そして、このような生活は、自然に対する感謝の念を生み、それが次第に崇高化され、自然そのものを神として崇めるようになっていきます。
ざっくりとですが、これが日本に神がたくさんいる理由です。それぞれの地域に、恵みをもたらす山・海・川があり、それらがすべて神として崇められ、八百万の神となりました。
天武天皇は、これら八百万の神を、伊勢神宮に祀られる太陽神「天照大神」を頂点として序列付けを行っていきます。天照大神は、ずっと昔から祀られていた神様ではなく、伊勢神宮を特別視していた天武天皇が、一地域の神にすぎなかった太陽神を最高神まで格上げさせたという説もあるようです。
八百万の神は、ずーっと昔から地域に根付いています。それを「天照大神を一番偉い神様にするからお前らは俺より格下な」と簡単に済ますわけにはいきません。
昔から存在する八百万の神を序列化するには、昔へさかのぼり神々を整理していく必要がありました。そこで作られたのが古事記です。
古事記って聞いたことあるでしょうか?日本の神々の歴史を世界の誕生時までさかぼのって、神話として編纂されたものです。ギリシャ神話の日本版というイメージだと思います。結構面白いのですが、このブログでは今のところ古事記の内容を掲載する予定はありません・・・。
気になる方は、本屋に古事記の本ってたくさん置いてあると思うので、ぜひご覧になってみてください!!
古事記では天照大神は神々の中の最高神として君臨し、さらに、その子孫が天皇であるとされています。
こうして、天皇は最高神の子孫として別格の存在として崇められる存在となります。現代に住む我々が天皇を特別視するこの感覚、原点に戻ってみると天武天皇に辿り着くのです。
藤原京の造営、飛鳥浄御原令の制定によって現世的な権力を高め、一方で八百万の神々を整理することで天皇を神と結びつけ天皇権威を絶対的なものとしていくのです。
とこんな感じで天武天皇は、今私たちが住んでいるこの日本の原型を造り上げた人物であり、日本人なら忘れてはいけない超重要人物なのです。
日本神話の古事記を読んでみよう【おまけ】
この記事で少し触れた古事記ですが、古事記は日本神話として今現在も有名です。とても物語としてもとても面白いのですが、いかんせん知名度があまりありません。母国の神話を知らないのは日本人だけ!なんて言われることもあるそうです。ぜひ、古事記を一度読んで見ましょう!
【次回】
【前回】
コメント
本文中にこのときはまだ伊勢神宮は最高神を祀る神社ではなく、伊勢地方にある神社のひとつに過ぎませんでした、とありますが、これはさすがに一般的に言われている歴史と大きく違うのではないかと思います。
伊勢神宮の天照大御神は元々皇居にて祀られていた神であり、崇神天皇の時代に皇居から出て、たくさんの転座を経た末に伊勢に落ち着きます。
もし伊勢神宮が元々天照大御神を祀る神社ではなく、伊勢地方の神社の一つに過ぎなかったのなら、伊勢神宮の起源は一体どういうことになるのでしょうか?
ご指摘ありがとうございます。ご指摘の内容はおっしゃる通りです。
本記事の内容は、基本的に以下の本の内容に沿って書いています。
上記書籍によれば、伊勢神宮は皇族とのゆかりの強い神社だったものの、当初は氏神を祀る神社ではなかったとしています。氏神を祀る神社でないのに、なぜ皇族と縁があったかと言うと、5世紀以降、東国運営の際に伊勢地方が拠点であったからだと言います。さらに、東一面に海をのぞむ地勢から伊勢神宮は時期は不明ながらも太陽神を信仰する神社だったと言います。そして天武天皇が、その太陽神信仰と皇族との縁が結びつけ、伊勢神宮を太陽神であり皇族の氏神である天照大神を祀る神宮として再定義したと言うシナリオです。
私は専門家ではないので詳細な部分まではわかりませんが、崇神天皇や垂仁天皇の存在が疑問視されていることやそもそもの古事記・日本書紀編纂の趣旨を考えると、上記説もあながち違和感がないように感じ記事として掲載しましたが、色々と内容を省略したがゆえに語弊を招いてしまったものと思います。
また、確かに一般的には(神話によれば)、垂仁天皇ぐらいの頃から今の伊勢神宮に天照大神が祀られるようになったとされているので本記事の内容は一般的ではないと思いました。語弊を招く情報を発信するのは不本意でもありますので、今後、記事の修正又は削除を検討させていただきます。