白河天皇(上皇・法皇)はなぜ院政を始めたか?わかりやすく解説する。

後三条天皇が1073年に亡くなった後、1072年に即位した後三条天皇の息子の白河天皇が活躍することになります。

白河天皇は、後に上皇として院政という日本独自の政治機構を造り上げた人物であり、日本史上でも有名な人物の1人です。前回の記事で紹介した後三条天皇は、延久の荘園整理令の実施などにより摂関政治により権力を掌握していた藤原氏の財政基盤に大きなダメージを与え、摂関政治が衰退するきっかけを作ります。

その後を引き継いだ白河天皇は、摂関政治→院政という政治の大変革期のど真ん中の時代に君臨した天皇。そして、政治の変革期というのは、どの時代も混沌としているもの。白河天皇(上皇)の治世もまた、その例に漏れず政治情勢はとても複雑なものでした。

今回はそんな複雑な時代であった白河天皇の時代について話をしたいと思います。

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白河天皇による皇位継承問題

1072年、白河天皇が即位しますが、それと同時に白河天皇とは異母弟でわずか2歳だった実仁親王が後三条天皇によって皇太弟に指名されました。

後三条天皇の意図 ー藤原氏の排斥ー

前回の記事でも説明したように後三条天皇は、摂関藤原氏のことを良く思っていません。

【前回の記事】

前回は荘園整理令の話をしました。今回は有名な「延久の荘園整理令」を発令した後三条天皇という人物について紹介したいと思...

実は、後三条天皇は白河天皇のことを実仁親王が成長するまでのつなぎ役としか考えていませんでした。後三条天皇が、天皇位を与えたかったのは本来実仁親王だったのです。しかしながら1072年当時、実仁親王はまだ2歳、天皇になるには若すぎるため止むを得ず白河天皇を即位させたわけです。

後三条天皇はなぜ白河天皇を認めなかったのでしょうか?これにも理由があって、上の系図を見るとそれがわかります。

白河天皇の母は藤原茂子という藤原氏ですが、実仁親王の母は源基子という源氏の人物です。後三条天皇は藤原氏を外戚から外し、奈良時代や平安時代初期のような天皇主導の政治を目指していました。そのため、藤原氏の血を引く白河天皇の血筋に天皇位が受け継がれることを拒んだのです。

院政を開始し藤原氏に代わって朝廷を支配した白河天皇(上皇)ですが、意外にも血筋的には藤原氏寄りの人物だったんです。実際に、院政を開始する前の白河天皇には本格的に藤原氏を排斥する考えはありませんでした。

白河天皇の反抗 ー堀河天皇即位ー

しかし、後三条天皇の願いが叶うことはありませんでした。暗黙のうちに「お前の血筋は正式な天皇家の血統ではない!」と後三条天皇から宣告されていた白河天皇には、もはや亡き後三条天皇の意思を引き継ぐつもりはありませんでした。

1085年、後三条天皇が望みを託した実仁親王が15歳の若さで亡くなってしまったことで、時代の流れは大きく変わります。後三条天皇は生前に「実仁親王即位後は、その弟の輔仁親王を皇太弟とするように!」との遺言を託して亡くなっていました。この遺言に従えば実仁親王が亡くなった今、白河天皇は次期天皇を輔仁親王すべきですが、白河天皇は後三条天皇の遺言を無視します。

白河天皇は後三条天皇の遺言を無視し、自らが深く愛した中宮の藤原賢子との間に生まれた息子を次期天皇にしようと企みます。白河天皇は、自らの血筋を天皇家の正式な血統にしようと考えたのです。

そして実仁親王が亡くなった翌年(1086年)、白河天皇は強引に息子を即位させます。こうして登場したのが堀河天皇でした。堀河天皇は当時わずか8歳であり統治能力を持っていないため、政治の全権は白河上皇と藤原氏に委ねられることになります。幼少の堀河天皇の即位は、白河上皇が院政を行うきっかけとなりますが、この時点ではまだ白河上皇は院政を行う意図は持っていませんでした。当面の間は、白河上皇と藤原氏の協力し合いながら政治が行われます。

白河上皇が院政を行ったきっかけは、幼少の堀河天皇即位の他に摂関藤原氏にもありました。当時の藤原氏の話はとても複雑ですが、概要だけ紹介したいと思います。

白河上皇(法皇)の権力掌握

新たに即位した堀河天皇の母は藤原賢子という人物でした。そして、藤原賢子は藤原師実(もろざね)という人物の養子だったため、堀河天皇から見ると義祖父である藤原師実は天皇の外戚ということになります。この藤原師実が堀河天皇の摂政として権力を振るうようになりました。白河上皇も師実のことを疎ましく思うことはなかったようで、政治を師実に任せることも多々ありました。繰り返しですが、この時点で白河上皇に院政を行う意図はありません。むしろ、後三条天皇の頃と比べると摂関政治が復活していると言えます。藤原師実と白河上皇の間には深刻な対立もなく、政治は比較的スムーズに行われました。

有能すぎた堀河天皇と藤原師通(もろみち)

1094年、堀河天皇は当時16歳で人望厚く非常に有能な君主に成長していました。同年、藤原師実は、摂関職を息子の藤原師通に譲ります。堀河天皇はすでに元服していたので、師通は関白ということになります。

優秀だった堀河天皇は、成長するにつれ次第に白河上皇を頼らずに天皇主導の政治を行いたいと志すようになります。当然、師通も堀河天皇を支持します。上皇主導の政治では関白とて政治の全権を振るうことはできませんが、昔のような天皇主導の政治に戻ることができれば、摂関政治を再び復興することができる・・・と考えたからでしょう。

堀河天皇側の立場だった師通は次第に白河上皇の力を抑えるために白河上皇と対立するようになります。しかし、それでも深刻な対立は起こりませんでした。白河上皇自身、1096年に愛娘、媞子内親王の死によるショックで出家し、政治の世界から離れかけていたからです。おそらく白河上皇は、堀河天皇が立派に成長してちゃんと政治を行ってくれれば自らの後見は不要と考えていたように思います。

こうして、政治は昔のような天皇と藤原氏による政治へと復帰したかのように見えますが、1099年に師通が急死したことで事態は一変します。

露呈する藤原忠実の実力不足

1099年の師通の急死を受け、その息子だった藤原忠実が急遽、関白を引き継ぐことになります。(厳密には1099年に内覧宣旨を受け、関白になったのは1105年でした。)忠実は当時22歳、歴代の摂関職でもナンバーワンの若さで要職に就いてしまいました。忠実自身、優秀な人物であったと私は思っていますが、何れにしても1099年時点では経験不足の若造にしかすぎませんでした。

当時の朝廷は、主に次のような問題を抱えていました。

1.皇位を奪われた輔仁親王に反藤原氏勢力が集結し不穏な空気が漂っていること。輔仁親王は容姿端麗・有能で人望も厚い人物であり、白河上皇により皇位の望みを断たれた後も、反藤原氏・反白河上皇勢力の求心力となっていました。堀河天皇の時代は、政治的に非常に不安定な時代だったのです。

2.各地で土地をめぐる争いが増えていたが、東大寺や興福寺などの有力寺院が神や仏を後ろ盾に朝廷に強引に要求を押し通す機会が増えたこと。これを強訴(ごうそ)と言います。神や仏教を深く信仰する天皇にとって、それらを盾に理不尽な要求を突きつけてくる寺院への対応は、無下にすることもできず、その対応は困難を極めました。

まだ若かった藤原忠実では、これらの問題に立ち向かうことはできませんでした。それに優秀とはいえ堀河天皇もまだ二十歳前後。朝廷では熟練でやり手の人物が求められていました。そこで白羽の矢が立ったのが、出家し政治から離れていた白河法皇でした。

能力不足を露呈した忠実は、関白という地位にはあるものの実態は政治の実権を失い、1120年には隠居生活を始めてしまいます。

白河上皇(法皇)の院政始まる

若き天皇・藤原氏では、もはや強力な政治力を要した強訴や土地をめぐる争いなど種々の問題を解決するのは不可能になっていました。

特に土地問題は、寄進地系荘園の増大によりその解決には有力人物との折衝能力が求められ、昔と比べるとその対応にはかなりの政治力が求められるようになります。寺院が強訴をするようになった背景にも、寄進地系荘園の増大により土地問題が深刻な問題に発展しやすかったことが理由の1つに挙げられると思います。

土地制度の変革によって、朝廷では名実ともに絶大な権力を誇る人物を欲していたのです。白河法皇は、そんな時代の要請もあり、政治の世界に復帰し絶対的君主として君臨することになります。こうして、いわゆる院政という新しい政治機構が日本に生まれることになりました。院政というのは誰かが明確な意図を持って始めた政治方式ではなく、時代の変化の中でなし崩し的に成立した制度だったのです。

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