富士川の戦いをわかりやすく紹介!【水鳥の羽音、頼朝と義経の感動の再会】

今回は、源平合戦の戦の1つである富士川の戦いについて紹介します。
石橋山の戦いで大敗北を喫した源頼朝は奇跡的に生き残り、海を渡り、安房国へ避難することになります。これが1180年8月29日の話。

今回は、源平合戦の間に起こった石橋山の戦いという戦について紹介したいと思います。石橋山の戦いは、「源氏よ!平氏を倒す...

安房国(房総半島の先っちょ)で体制を立て直すことになります。

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 富士川の戦い当時の状況

安房国に逃げ込んだ源頼朝は9月の間に、源頼朝を慕う上総国の上総広常(かずさひろつね)と下総国の千葉常胤(ちばつねたね)に使者を送り、両者との合流を図ります。

上総広常の方がちょっと曲者だったようですが、この両者が合流したことより、ようやく源頼朝軍は本格的な兵力を手に入れることになります。

源頼朝、鎌倉へ

兵力を得た源頼朝は1180年10月6日、自らの本拠地として定めた鎌倉へと向かいます。

鎌倉は父の源義朝が本拠地した場所。さらに、航空写真で鎌倉を見てみるとよーく分かりますが、鎌倉という場所は東西と北は山、南は相模湾に囲まれたまさに天然の要塞です。完全に関東一帯を支配しきれていなかった源頼朝にとって防衛に有利な鎌倉は絶好の本拠地となったわけです。

立ち上がる甲斐源氏

源頼朝が勢力を拡大する一方、甲斐国では以仁王の令旨を受け取った甲斐源氏の武田信義(のぶよし)が平氏に対して挙兵し、駿河へと進軍します。

ちなみに武田信義は、戦国時代で有名なあの武田信玄のご先祖様に当たります。甲斐源氏は清和天皇から派生したいわゆる清和源氏の一つ。実は武田信玄も実は清和天皇の血を引く高貴な血統だったんですね。

源頼朝、源義仲、武田信義

当時、以仁王の令旨を受け取り立ち上がった源氏勢力は大きく3つありました。

源頼朝

源義仲(木曽義仲とも言う)

武田信義

の3つの勢力です。源義仲だけは、北陸方面から独自に平安京を目指して進軍しますが、源頼朝と武田信義は合同で平安京にへ向かいます。

平氏軍、富士川へ向かう

1180年9月1日、平清盛は石橋山の戦いで平氏軍として戦った大庭景親から源頼朝が挙兵したという報告を受けます。

報告を受けた平清盛は、孫の平維盛を総大将として派遣しますが、内部調整が難航し、派遣は遅延。東国に到着したのは10月になってからでした。平氏はこの大事な時期に約1ヶ月も時間を無駄にしたことになります。

平氏軍の進軍の遅れは致命的でした。平氏軍がモタモタしている間、石橋山で惨敗した源頼朝は安房国において大幅に軍勢を増やし、源頼朝の鎌倉入りを果たします。さらに、武田信義は駿河国へと進軍し駿河国の目代を殺害します。

平氏軍は、1ヶ月のタイムロスにより源氏の勢力拡大をみすみす許してしまったのです・・・。

平氏軍の脆さ

遅れながらも進軍を開始した平氏軍ですが、その行軍の様子はそれはもう悲惨なものでした。まず、飢饉などにより兵糧が上手く確保できませんでした。

さらに、平氏軍の兵たちは平氏が上から目線で出兵を命じただけで、兵士のモチベーションはとても低いものでした。これは平氏軍と源氏軍の致命的な違いで、源氏軍の兵は先祖代々受け継がれてきた源氏との強い信頼関係で結ばれており、兵の質は平氏軍とはまるで違っています。

源氏の棟梁として関東一帯に君臨した頼朝の父の源義朝、さらに遡れば前九年の役・後三年の役で活躍した源頼信や源義家などのご先祖様の活躍が源頼朝と他の一族らを精神面で結びつけていたのです。源頼朝は、このような見えない力にも支えられて強力な軍事力を得た・・・ということもできるかもしれません。

富士川の戦い

さて、平氏軍襲来!の情報を知った武田信義と源頼朝は各々、進軍を進めます。

1180年10月14日、武田信義は駿河へ侵入し、駿河国の目代を殺害。一方、平維盛を総大将とする平氏軍は10月13日に駿河国へ入ります。

平氏軍はもう少し早く駿河へ到着していれば、駿河国の目代と合流することができたかもしれません。戦争において1ヶ月の時間を無駄にしたことは致命傷でした。

さらに10月17日、駿河国の目代を倒し勢いに乗る武田信義は平維盛に使者を通じて、次のように平維盛を挑発します。

かねてよりお目にかかりたいと思っていましたが、その機会がなく残念に思っておりました。幸いにも追討軍の使者として来てくださっているので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しい。ここはお互い富士山の麓の浮島ヶ原で待ち合わせ、お目合わせしましょうぞ

武田信義の平維盛を馬鹿にするような挑発に、平維盛の重臣は激怒。武田信義の使者を斬り殺してしまいます。

その翌日の10月18日、平維盛は富士川の西岸に陣を構えます。先ほど述べたように平氏軍の兵のモチベーションは超低かったのですが、それでも規模だけでも見れば数万規模の大軍にはなっていました。(兵糧がないので、大軍だと逆にリスキーですが)

富士川の西岸に陣を構えた平氏軍は、源氏が攻め入る前から既に壊滅状態でした。武田信由の使者を斬り殺してしまったことで多くの兵士たちは武田信義の復讐に怯え、動揺します。ただでさえ低い平氏軍の士気は下がる一方でした。そして平氏軍の兵力は日に日に減っていきました。逃亡兵が後を絶たなかったのです。

しかも、敵は武田信義だけじゃありません。すぐ近くには源頼朝の強力な大軍が控えています。

水鳥にビビって逃げた平維盛

10月20日の夜、恐怖と絶望に包まれた平氏陣営の近くで水鳥が一斉に飛び立ちます。水鳥の羽音にビビった平氏軍はこれを武田信義の奇襲だと勘違いし、一目散に逃げ出してしまいます。

こうして、富士川の戦いは何もしないまま源氏の勝利に終わります。というか、戦ってすらいないので「富士川の戦い」って表現もちょっと違和感があります。

ただしこの話、平氏の軟弱ぶりを誇張するための作り話説もあるので真に間に受けるのは考えものでしょう。先述のとおり、戦う前から源氏軍に勝てないのは火を見るよりも明らか。それに駿河国が武田信義に落とされた以上、駿河国はアウェイの地。奇襲や挟み撃ちにより全滅する可能性すらあります。平氏軍の中には撤退を勧める案もあったらしく、平維盛が熟慮に熟慮を重ねた末の退却だった・・・というのが真実のように思います。

富士川の戦いの主役は武田信義!

ところで、富士川の戦いでは源頼朝の名前があまり登場しません。

駿河国を攻略したのも平維盛と直接戦ったのも全て武田信義であり、「富士川の戦いの勝者は誰か?」と聞かれれば源頼朝でなく、武田信義と答えるのが正しいでしょう。

平維盛がもうちょっと粘って戦っていれば、源頼朝も援軍として参戦することはあったかもしれませんが、あまりにもあっけない平氏軍の逃亡により源頼朝の登場する出番はありませんでした。

富士川の戦いのその後

戦わずして勝者となった武田信義は、駿河国を支配。富士川の戦いの後、駿河国に身を置き、少し経ってから平氏追討のため西進することになります。

一方、戦わずして敗走した平維盛は、平清盛にめっちゃ怒られます。平清盛の怒りは凄まじく、「そんな惨めな姿で平安京に戻ってくんな!!」と平維盛は平安京内に戻ることを禁じられてしまいました。富士川の戦いは、源氏が上京するのを防ぐための非常に重要な戦でした。そんな戦に戦わずして逃げたのですから、平清盛が怒るのもわかります。しかし、冷静な戦況分析の末に逃げたのであれば平維盛に対する清盛の措置はあまりにも酷いものです。ちなみに平維盛は当時23歳、そしてイケメンだったようです。

源頼朝の決断 ー西?それとも東?ー

源頼朝が富士川の戦いにどれだけ関与していたかはわかりません。しかし、平維盛の敗走により上京するための邪魔者は消えました。源頼朝は軍をさらに西へ進めようと考えますが、軍内では「一度関東に戻り、関東の反抗勢力を抑えてから西へ向かうべきだ!」との意見も多く、源頼朝は迷いますが一旦鎌倉に戻り、関東の支配を盤石にすることを考えます。

鎌倉幕府の始まり?

一旦鎌倉に戻った源頼朝は関東一帯を制圧し、共に戦ってくれた武将たちの所領の安堵と敵から没収した所領分配を行いました。いわゆる本領安堵と新恩給与ってやつです。

本来、土地の所有権を巡る問題は、すべからく朝廷が権限を有する問題でしたが、源頼朝は独自の権限で所領の安堵や分配を行うようになります。源氏に流れる清和天皇の血や先祖たちの偉業の数々が源頼朝のこの行為に正当性を与えました。これは関東の武士たちが「自らの所領について決定権限を持つのは天皇ではなく源頼朝だ!」と考えていたということになります。こうして源頼朝は、関東一帯において独自の権限を掲げるようになり、これが鎌倉幕府の礎となってゆきます。

戦々恐々の平清盛

平維盛の敗走により、源氏の平安京侵入が現実味を帯びて来ます。当時、平清盛は福原京への遷都を強行していました(急な福原京都遷都には多くの批判もありました。)ところが、富士川の戦いでの敗北に危機感を覚えた平清盛は平安京へ戻らざるを得なくなります。

平清盛は園城寺や興福寺などの寺院勢力を恐れており、その寺院と近い平安京に戻るのは嫌だったはずですが、苦渋の決断で平安京への戻ることを決断します。

平安京に戻った平清盛は否が応でも再び寺院勢力と向き合わなければならなくなります。1181年1月、寺院勢力に対抗しようとした平清盛は南都焼き討ちという日本史上でも多くの避難を浴びることになった大事件を起こしてしまいます。南都焼き討ちよって東大寺や興福寺の多くの建築物や仏像が焼き払われ、貴重な文化財が失われました。

頼朝と義経の感動の再会

富士川の戦いの後、源頼朝は腹違いの弟と源義経と感動?の再会を果たします。源義経は、縁あって奥州に住んでいましたが兄の源頼朝が挙兵した話を知り、反対を押し切って源頼朝の下へ向かいます。

この後、鎌倉で東国運営に専念するようになる源頼朝は、源義経を遣わして軍を派遣するようになります。

まとめ

富士川の戦いは、戦いと言いつつも平維盛の撤退により戦わずに終わってしまいます。この敗北は平氏にとって致命的で、「もしかして平氏弱いんじゃね?」とこれまで不満を抑えていた人々までもが反乱を起こすようになり、平安京に近い近江や美濃でも本格的な反乱が起こるようになります。さらに、興福寺や園城寺などの寺院勢力も反乱勢力に加担するようになることで、平氏は苦境に立たされることになり、これが南都焼討という忌まわしい出来事へと繋がってゆくのです。

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