今回は、1846年にアメリカ人のビッドルが開国を求めて日本にやってきた「ビッドル来航」と言う事件について解説します。
開国と言えば、有名なのは1853年のペリーの黒船来航です。しかし、実はアメリカの開国要求はペリー単発ではなく、ビッドル→ペリーと二段構えで行われました。
なので、ペリーが来航した時の話をちゃんと知ろうと思うのなら、どうしても地味なビッドルさんのことを知っておく必要があります。
ここではビッドル来航について大きく以下の2点を中心に解説を進めていきます。
そもそも、なぜ遠いところからわざわざ日本に来たの?
ビッドルは日本に対して何を要求したのか?
日本「欧米人強すぎだろ・・・(絶望)」
まずは、当時の国際情勢の簡単に紹介しておきます。
1700年代後半(18世紀後半)になると、欧米諸国で植民地ブームが起こります。イギリスを中心に製造業の世界で機械が導入され、商品の大量生産が可能となります。
しかし、この大量生産できる機械を有効活用するには次の2つの問題点がありました。
この問題の手っ取り早い解決方法が、「植民地を増やしてそこから原材料を調達して、そこに商品を売り込む(強制)」という一石二鳥の案でした。
欧米諸国は文明の遅れていて植民地化しやすそうなアフリカ・南アメリカ・東アジアをターゲットにしました。
もちろん、東アジアに属する日本もそのターゲットであり、日本は欧米諸国からの脅威に晒されます。
そして1825年、日本は欧米諸国の脅威に対抗するため、異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)という法律を作り、徹底抗戦の構えを見せます。
同じ頃、同じ東アジアの清(しん)という国もイギリスのターゲットとなり、1840年には「アヘン戦争」という清VSイギリスの戦争が起こります。
アヘン戦争は、アヘンという麻薬を清に輸入しまくって、清の人々をヤク漬けにしながらイギリスがぼろ儲けするという悪魔のような所業に、清がブチギレて怒った戦争です。闇が深い。
清は東アジアではNO.1の超大国でしたが、1842年、イギリスに敗北。
清の敗北は、日本にとっては目ん玉が飛びてるほどの大ニュースで、
「清が勝てないんだから、もし日本が欧米と戦争をしても絶対勝てないだろ・・・」
と江戸幕府の中枢では悲観モードが漂いました。
こうして、
日本「異国船打払令を出して、日本に来る欧米の船は全部叩き落とす!!!」
だったのが、
日本「ま、まぁ、遭難して日本に寄ってきた船ぐらいだったら、燃料と水も補給してあげるし、大目に見てあげようじゃないか(震え声)」
という対応に変わり、清が敗北したのと同じ1842年、異国船打払令は廃止され、遭難船に燃料(薪)と水の補給を認める薪水給与令をだしました。
こうして、日本が欧米諸国にビビり始めた頃にビッドルはやってきました。
ビッドル「清に来たついでに日本の様子を見に行くか」
1842年、敗北した清はイギリスと不平等条約である南京条約を締結。
そして、これを知った欧米諸国は
欧米諸国「遂に清がイギリスに屈したか。今なら清は弱っているし、欧米諸国にビビってるだろうから便乗して俺らも清に不平等条約を要求したろ」
と次々と敗戦国の清に不平等条約を要求。アヘン戦争からのこの流れは本当に鬼畜だと思う。
こうして1844年、清からアメリカに使者が派遣され、アメリカとも不平等条約を結ぶハメになります。この時のアメリカ使節団の代表者はエヴェレットという人物。そしてビッドルはその護衛艦隊の司令官でした。
本来なら、エヴェレットがそのまま日本に向かって開国要求をする予定でしたが、エヴェレットが病気でダウンしたため、とりあえず、ビッドルだけでも日本に向かい、日本の様子を探ることにしました。
様子見のビッドル
こうして1846年7月、浦賀(うらが)に2隻の軍艦が現れました。ビッドルです。
ビッドル「私は、日本が鎖国をやめてアメリカと貿易をする意図があるかどうか、確認するためにやってきた」
「清が敗北したら次は日本にも欧米諸国が来るだろう」という懸念がいよいよ現実のものとなったのです。
この報告を受けた江戸幕府は大慌て。ビッドル来航の報告を受けた老中の阿部正弘(あべまさひろ)は、「新しい国と貿易をすることは日本では禁じられているので無理。そして日本との外交を求めるのなら、浦賀ではなく長崎に行ってほしい」という回答をビッドルに渡します。
アメリカの要求を拒否したということです。あまり話題にはなりませんがこの回答はかなりの英断だったんじゃないかと思います。
この回答を聞いたビッドルは日本に強く迫ることもなく、そのまま母国のアメリカへ帰っていきました。なぜ、こんな簡単に引き下がったかというと、ビッドルの任務は「日本にアメリカとの貿易の意図があるか確認すること」だったからです。ビッドルは「意図はない」という回答を手に入れた時点で任務完了であり、それで大人しくアメリカに戻ったわけです。
ちなみに、もし正式な使節であるエヴェレットが元気で日本に来ていたとしたら、この程度では終わらなかったかもしれません。(そう考えると日本は運が良かったと言えるかもしれない・・・
叩かれるビッドル
アメリカに帰ったビッドルは色々と叩かれました。
「そんな簡単に帰ってくるとか軟弱者かよ」
「準備を怠ってたんじゃないの?」
と国内で強い批判を受けることになったんです。(ビッドルからすれば理不尽な批判だったことでしょう・・・)
ビッドル来航まとめ
日本はビッドルが穏便に帰ってくれて助かりましたが、これは時間稼ぎに過ぎませんでした。
ビッドルの報告を受けたアメリカは、その反省を踏まえすぐに次の使節派遣を決定し、準備に取り掛かります。
しかも、ビッドルの報告を踏まえて「話し合いをしても交渉は進められそうにないな。次は武力を背景に強引に日本に迫る必要がある」と判断され、本気の使節団が日本に送り込まれます。
それが1853年にやってくるペリーになります。だからこそ、ペリーは日本に対して高圧的な態度を終始貫きました。そして、それにビビった江戸幕府はペリーに屈し、日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結ぶことになります。完全なアメリカの戦略勝ちです。要するに「軟弱ビッドルあってこその高圧ペリー」ってワケです。(違うか)
ビッドルの来航について簡単にまとめると、繰り返しになりますが
日本が開国したのはペリーだけじゃなくて、ビッドル→ペリーという2回の交渉の末だったんだよ!
ということです。というわけで、ビッドル来航のお話でした!
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