永享の乱を簡単にわかりやすく解説するよ【室町幕府VS鎌倉公方】

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今回は、1438年に起こった永享(えいきょう)の乱について紹介します。

この記事は、上杉禅秀の乱の記事の続きとなります。まずは以下の記事を読んでみてもらえるとスムーズに頭に入るかと思います。

永享の乱は、幕府からの独立を目論む鎌倉公方(足利持氏)と室町幕府の間で起こった戦いです。

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六代目将軍になりたい足利持氏

1416年に起こった上杉禅秀の乱が平定されると、鎌倉公方の足利持氏は残党の鎮圧に乗り出します。ところが、室町幕府に服従するのを嫌う足利持氏は、勢いに乗じて、佐竹氏・小栗氏・宇都宮氏といった室町幕府と親密な関係にある主に北関東に住む一族を意図的に狙って戦争をふっかけます。

さらに1425年、五代目の室町幕府将軍だった足利義量(あしかがよしかず)が19歳で亡くなると、足利持氏は自ら将軍になることを望むようになります。

というのも、義量自身はもちろん、その父である四代目の足利義持(あしかがよしもち)にも男子がおらず、次期後継者が定まっていなかったのです。

1428年、結局、後継者は4名の候補の中からくじ引きにより決められ、義持の弟である足利義教(あしかがよしのり)が六代目となりました。

六代目室町幕府将軍:足利義教

足利持氏はこの決定に強い不満を持ちます。くじの候補に自分の名前がないし、六代の義教は元僧侶で、僧侶が将軍になることは基本的に良くないことと考えられていたからです。

足利持氏「こんな元僧侶のインチキ将軍よりも俺の方が相応しいだろ・・・」

ブチギレた足利持氏は、なんと京に対して挙兵の準備を進めます。しかし、これは関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)がなんとか持氏をなだめることで、実行に移されることはありませんでした。

上杉憲実は、上杉禅秀の乱で勝者となった山内上杉家の上杉憲基の息子に当たります。「上杉が大量に登場してよくわからん!」って人は上にリンクを掲載した上杉禅秀の乱の記事も読んでただけると良いかもしれません。

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足利義教「足利持氏は消さないとダメだ」

足利持氏は短気で極めて直情型。一方の足利義教も「万人恐怖」と言われるほど熾烈で厳しい性格の持ち主であり、お互いに譲り合うことはまずありえません。

1432年、足利義教は「富士山を見て和歌を楽しむ」という名目で今川氏のいる駿河に旅行に向かいます。今川氏は足利将軍家と代々良好な関係で、関東を監視する役目も担っていました。

しかし、義教の真の目的は観光なんかじゃありません。真の目的は、駿河まで自ら赴くことで鎌倉公方の足利持氏に対してプレッシャーを与えると共に、足利持氏の忠誠心を試すことでした。

足利義教はこう考えていました。

足利義教「持氏を富士山観光に誘おう。もし誘いに乗ってきたらその時に暗殺するし、もし誘いを無視するようなことがあれば、幕府に対して謀反の意思があるからやっぱりいずれ消し去ってやる。」

もちろん、足利持氏はこれを無視します。

1435年、義教が深く信任していた幕府の重鎮、三宝院満済(さんぽういんまんさい)が亡くなり、さらに、同じく関東の軍事力として頼りにしていた今川一族内で内紛が勃発し、それどころではなくなります。

足利持氏はこのチャンスを逃しません。このタイミングで幕府の直轄国だった信濃国に侵攻することで事実上の宣戦布告をします。

この頃になると、足利持氏の暴走を止めようとしていた関東管領の上杉憲実でさえ、「こいつ(上杉憲実)は幕府と繋がっているのか?」と疑われるようになり、身の危険を感じた上杉憲実は1438年8月に領国の上野に身を潜め、幕府に助けを求めるようになります。

そしてそれとほぼ同じくして、京でも足利持氏討伐のため軍を動かすことが決定され、いよいよ永享の乱が始まります。

上杉憲実が上野に逃げたのと幕府が挙兵したタイミングがほぼ同時なので、両者の間にはそれ以前から話し合いがなされていたと言われています。とすると、「上杉憲実が幕府と通じている」という持氏の疑念もあながち間違いではなかったのかもしれません。

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永享の乱

こうしていよいよ永享の乱が始まりますが、これまで散々幕府に挑発的な態度をしていたわりに、足利持氏は意外とあっけなく敗北することになります。

というのも、足利持氏の直属軍のほとんどが関東管領の上杉憲実だったからです。持氏は自らの力で自軍の兵力を削いでしまったことになります。(持氏は直情型の人間だったのでそこまで思慮深くなかったのだと思う)

持氏は次々と防御網を破られ、鎌倉の留守を守っていた三浦時高という武将が幕府側に寝返ったことでいよいよ窮地に立たされ、1439年2月になると、遂に足利持氏は鎌倉の永安寺にて上杉憲実に包囲されます。

持氏は室町幕府への恭順の意を示し、上杉憲実も「前の主君の命までは奪いたくない・・・」と足利義教に懇願しますが、もちろんこれは却下。あれだけ幕府を挑発したんだから当然です。それに義教の過激で厳格な性格がそれを許すわけがありません。

こうして、上杉憲実はやむ無く永安寺に攻め入ります。

足利持氏は自害し、女も含めて持氏と一緒にいた多くの者がそこで命を落としました。

こうして、永享の乱は幕を閉じることになります。

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永享の乱から結城合戦へ

永享の乱が終わると、足利義教は次の鎌倉公方に自分の息子を送り込もうとしますが、足利持氏の残党軍である結城氏がこれに強く反発。

結城氏は逃げ落ちていた持氏の遺児を担ぎ出し、幕府に対して反旗を翻します。

こうして1440年、結城合戦(ゆうきかっせん)と呼ばれる新しい戦乱へと続いていきます。

永享の乱は、上杉禅秀の乱→永享の乱→結城合戦という大きな戦いの流れの一幕でしかありません。

結城合戦では結城氏が敗北し、ようやく室町幕府の勝利の兆しが見えてきますが、1441年になるとその将軍が暗殺される事件(嘉吉の変)が起こり、関東一帯は権力者不在のカオス地帯へ。関東地方は、後に起こる応仁の乱も重なり混沌の戦国時代へと足を踏み入れていきます。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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コメント

  1. ゆた より:

    >>そしてそれとほぼ同じくして、京でも足利持氏討伐のため軍を動かすことが決定され、いよいよ享徳の乱が始まります。

    永享の乱が始まりますの間違いですか??

    少しパニックになっています…