今回は、1399年に起きた大内義弘VS足利義満の戦い「応永の乱」について紹介します。
簡単に説明すると
勢力が強くなりすぎて目障りな大内義弘を足利義満がぶっ潰した事件
です。結果は足利義満の勝利。
大内義弘は足利義満にとって権力を盤石にするための最後の邪魔者でした。なので応永の乱は、足利義満が最高権力を手に入れるための最後の戦い・・・という位置付けになります。
大内義弘が強すぎる
まずは、大内義弘について簡単に紹介しておきます。
大内氏は、今でいう山口県を中心に勢力を持っていた一族です。南北朝の動乱を通じて功績を挙げ、強い勢力を持つようになりました。
南北朝時代、南朝勢力は九州で強い勢力を持っており、京と九州を結ぶ中国・四国地方は地勢的にとても大事な場所でした。なので中国・四国地方で功績を挙げた一族は著しい成長を遂げました。代表格として、後に応仁の乱で活躍に山名氏・細川氏やこの記事の主役である大内氏がいます。
室町幕府はこれら有力一族のおかげで成立している反面、これらの一族に依存しすぎていて、将軍家の足利氏ですら山名氏や大内氏にはなかなか頭の上がらない状態になっていました。(細川氏と足利氏は比較的良好な関係でした)
そこで、三代目将軍の足利義満は思います。
足利義満「将軍が堂々とできないこの状況はおかしい。有力一族をなんとか弱体化させる必要がある・・・」
自らの軍事力に不安のあった足利義満は、有力一族の内紛を利用して次々と有力一族を排除することにしました。具体例を挙げると・・・
このうち明徳の乱では、大内義弘が大活躍。山名氏の所領の一部を手に入れることとなり、ますます勢力を拡大していきます。
さらに1392年には足利義満は南北朝の統一を成し遂げますが、この際も南朝と北朝の調整役になったのも大内氏だったという説があります。
大内義弘の活躍は室町幕府に大きく貢献する一方、その活躍は足利義満に強い警戒心を抱かせることになります。
足利義満「明と貿易して儲けたいけど大内氏が邪魔だ」
足利義満は胸の内に、明との国交を開き、貿易によって大儲けしてやろうという野望がありました。しかし、明との貿易にも大きな問題が立ちはだかります。
明は商人同士の自由な貿易は認めず、朝貢貿易と言って、「明が一番偉くて、諸外国は明より格下で貢物をするために貿易をする」という国交を開いた上での公式な貿易スタイルを望みました。
そして、国交とは国同士のトップ間で行われるものですが、ここに大きな問題があります。というのも、外から日本を見ると日本はどうもバラバラの国に見えてしまうのです。
例えば、足利義満が明と国交を開けたとしましょう。
この時、大内義弘が明に対して「明さん!大内氏は、足利氏とは違う独自の勢力だから俺とも国交開きましょ」と提案して、万が一、明がこれを受け入れてしまったとしたら、最悪の事態が起こります。
大内義弘は、明という大国から室町幕府とは違う独自の国だというお墨付きをもらえることとなり、室町幕府の権威は大失墜、国を二分する大問題に発展してしまうわけです。
こうならないよう、足利義満は最初に九州の南朝残党勢力の鎮圧に力を入れました。皮肉ながら、これには大内義弘も協力しています。結局、最後まで明との貿易の障壁として残ったのが大内義弘でした。
さらに、足利義満の不安は少しずつ現実味を帯びるようになります。1399年、大内義弘が1392年に新しく建国された李氏朝鮮と関係を持とうと独自外交を始めたのです。結局、これは失敗に終わりますが、足利義満としては不愉快以外の何物でもありません。
この事件の後の同じ年、遂に応永の乱が始まります。
応永の乱のきっかけ
応永の乱が始まる直前の足利義満と大内義弘の関係は以下のような感じでした。
1397年、足利義満が「金閣寺造るからみんな手伝ってくれ」と言っても大内義弘は「武士は戦闘によってのみ忠義を尽くす」と言ってこれを無視。
1397年、大内義弘は足利義満の命令で九州の少弐氏討伐に向かうが、足利義満が少弐氏の方に「大内義弘倒せ」と命令していたという噂があり、疑心暗鬼に。しかも、大内義弘の弟が戦闘で亡くなるも何の褒美もなし。侮辱される。
1398~1399年、大内義弘が李氏朝鮮と関係を持ち始めて、足利義満不快感を示す。
・・・めちゃくちゃギクシャクしてます。笑
1397〜1398年にかけて大内義弘が少弐氏を平定すると、足利義満は大内義弘に京に来るよう指示しますが、大内義弘は「京に戻ったら暗殺されるのでは?足利義満の陰謀でもあるのか?」とこれを無視。
しかし、度重なる上京命令を無視すれば「将軍への謀反の意図あり」と思われてしまい、これはこれで大内氏にとってはよろしくない・・・というわけで、1399年、遂に大内義弘は上洛を決意します。
しかしタダでは上洛しません。不測の事態に備えて兵を率い、直接京には向かわず、自らの所領である堺に向かい、それに加えて足利義満に不満を持つ人々とも事前に連絡を取り合った上で上洛します。
・・・つまり、足利義満が不穏な動きをしていても、それに対応できる準備をしていたということです。
しかも、大内義弘は堺から動きません。京との連絡は全て部下に任せます。足利義満からは「本人が来い」と命令があるも、大内義弘は「行けない理由がある(超訳)」とこれを拒否。
足利義満は、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)とかいうすごい名前の禅僧を堺に送り大内義弘と交渉に当たらせますが、大内義弘は足利義満のこれまでの行いを非難し、頑なに上洛を拒みます。そして、遂にこう言います。
「・・・交渉はもういい。戦争だ。」(イメージです)
大内義弘が、最初から戦うつもりだったのか、絶海中津との交渉の中で戦いを決意したのかはわかりませんが、1399年11月、いよいよ戦いが始まります。これが応永の乱です。
燃える堺の町
戦場は堺の町。大内陣営は、堺の町による籠城作戦を決行します。
堺の町は戦国時代以降、大いに栄えることになりますが、実はこの頃から地味に栄えていました。大内義弘は大量の巨木を集めて城壁を築きます。しかも、背後の港には自軍の船を大量に浮かべています。
戦力は、幕府軍3万に対して大内軍5000と言われています。
初戦は、大内軍の快勝。攻め込んでくる幕府軍に矢倉から弓を打ちまくり、敵に大打撃を与えます。
しかし、堺の城壁には致命的な弱点がありました。それは、城壁が木であるという点です。つまり、火攻めにはめっぽう弱いんです。幕府軍もそれを見逃すわけがなく、正攻法で無理と見るや戦法を火攻めに変更し、城壁は陥落。堺の町は火の海と化し、多くの民家が燃えたと言われています。
これで勝負ありです。大内義弘は最後まで戦い続けるも戦死。最期のシーンを一部wikipediaから引用しておきます。
一人になった義弘は満家を目がけて戦い続けるが、取り囲まれ遂に力尽きて「天下無双の名将大内義弘入道である。討ち取って将軍の御目にかけよ」と大音声を発して、討ち取られた。
wikipedia「応永の乱」
その最期は勇猛な大内義弘らしい、壮絶な最期でした。事前に連絡を取っていた反乱勢力も鎮圧され、応永の乱は終決します。
応永の乱まとめ
大内義弘の死によって、ようやく反乱勢力の排除が完了し、足利義満は明と貿易交渉を本格化することになります。
一方で、大内氏はここで滅びたわけではなく、大内義弘の息子に周防・長門(今でいう山口県)のみが与えられました。そのほかの膨大な所領は全て没収です。
しかし大内氏はその後も少しずつ勢力を回復。応仁の乱の際には戦局を左右するキーパーソンにまで成長することになります。(凄い)
応永の乱をまとめるとこんな感じ。
大内義弘が強くなりすぎて、それを恐れた足利義満との関係が悪化。そして、そのままそれが戦いに発展したのが応永の乱。
大内氏が敗北すると足利義満を邪魔する者はいなくなり、本格的な明との貿易が始まる。(大内氏は地勢的に博多に近い位置にいたし、朝鮮と勝手に外交をしていた)
大内氏は没落するが、勢力は再び復活し、応仁の乱で大活躍する。
大内義弘と足利義満の関係が悪化して、それに耐えきれず大内義弘から戦争を仕掛けましたが、これは一般的に足利義満の策略だったと言われています。つまり・・・、わざと大内氏を怒らせて戦争をふっかけるよう仕向けたというわけです。(しかも大内氏から見ればアウェイの地で!)
そして、強大な力を持つ大内義弘に足利義満がここまで強硬な態度で臨めたのは、足利義満が奉公衆(ほうこうしゅう)という直属の親衛隊を整備していたからだと言われています。軍事力にもある程度の自信があったということです。
応永の乱で最後の敵を倒した足利義満は、日本の最高権力者として君臨し、誰もが知っている有名な金閣寺を建立し、北山文化を開花させることになります。
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