前田利家とは?槍の又左と加賀百万石の祖をわかりやすく解説

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前田利家
もぐたろう
もぐたろう

今回は前田利家まえだとしいえについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「槍の又左」と呼ばれた猛将で、加賀百万石の祖として有名なんだけど、その裏には意外な苦労人の顔があったんだ。

この記事を読んでわかること
  • 前田利家ってどんな人?「槍の又左」と呼ばれた武勇と、そろばん大名の経営センス
  • 茶坊主事件・追放とは?信長に追放されながらも復活した逆転劇
  • 賤ヶ岳で柴田勝家を見捨てた理由と秀吉との関係
  • 加賀百万石がどうやって生まれたか(試験頻出)
  • 豊臣五大老として家康とどう対峙したか(試験頻出)
  • 大河「豊臣兄弟!」の史実との違いをわかりやすく整理

「加賀百万石の祖」として名高い前田利家ですが、実はその生涯の前半は失敗・追放・裏切りの連続でした。

信長の小姓を斬って追放され、主君の柴田勝家を見捨て、晩年は親友のはずの秀吉の子を家康から守れず先に死ぬ——。それでも歴史に「加賀百万石」という巨大な遺産を残し、最後まで天下人に必要とされ続けた利家。その逆転人生の鍵は、ひと言で言えば「負けても折れない図太さ」でした。

この記事では、利家の幼少期から賤ヶ岳の決断、加賀百万石の確立までを、テストに出るポイントとあわせて、ストーリーとして読めるように丁寧に解説していきます。

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前田利家とは?3行でわかる加賀百万石の祖

前田利家を3行でまとめると
  • 織田信長豊臣秀吉に仕えた戦国武将。「槍の又左」の異名をとる猛将。
  • 加賀・能登・越中を支配する加賀百万石の礎を築いた大名で、生没年は天文7年12月(1538/1539年)〜1599年(享年62歳・数え年)
  • 晩年は豊臣五大老の筆頭として徳川家康と対立し、豊臣政権を守ろうとした。

前田利家 肖像画
前田利家の肖像画(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

前田利家は、天文7年12月(1539年1月)に尾張国おわりのくに(現在の愛知県)の土豪・前田利春まえだとしはるの四男として生まれました。幼名は「犬千代いぬちよ」。家督を継ぐ立場ではなかった四男坊が、織田信長に仕え、ついには加賀百万石の大名にまで上り詰めた——これだけでも戦国の典型的な「下剋上」物語です。

利家のすごさは、ただの猛将で終わらなかった点にあります。槍を振るって戦場で名を上げる一方で、晩年には算盤(そろばん)を手放さなかったとも伝わるほど経済感覚に優れ、加賀百万石という超巨大藩の基礎を築き上げました。「武」と「商」の両方を兼ね備えた、戦国時代でも珍しいタイプの大名だったのです。

もぐたろう
もぐたろう

戦国武将って「強い」か「賢い」かどっちか寄りなことが多いんだけど、利家は両方を持ってた珍しいタイプ!

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「犬千代」と呼ばれた少年時代〜信長への仕官

■ 幼少期「犬千代」と織田家への仕官

利家は前田家の四男坊として生まれましたが、幼いころから体つきが大きく、気性も荒々しい少年だったと伝わります。十代前半の1551年ごろ、織田信長のもとに小姓(こしょう)として出仕しました。年齢が近く、しかも同じ「うつけ者」気質を持っていた信長と利家は、すぐに馬が合ったといいます。

織田信長の肖像画
織田信長(狩野宗秀筆)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ゆうき
ゆうき

「犬千代」って犬みたいで弱そうな名前なんだけど、これって何か意味があるの?

もぐたろう
もぐたろう

むしろ逆で、当時は「犬みたいに丈夫に育ちますように」っていう願いを込めた縁起のいい名前だったんだ。乳幼児が病気で死ぬことが多かった時代だから、強そうな動物の名前をつけて魔除けにしたんだよ。信長の幼名「吉法師」とはタイプが違うけど、利家の方も負けず劣らずやんちゃな少年だったんだ。

10代後半の利家は、奇抜な格好で町を練り歩くかぶき者かぶきものでもありました。長い髪を派手に結い、見たこともない柄の着物をまとい、巨大な槍を肩に担いで歩く——そんな姿は、当時の常識からすればかなりの「不良少年」です。同じく「うつけ者」と呼ばれていた信長とは、まさに似た者同士。利家が信長に可愛がられた背景には、この気質の一致があったといわれています。

1556年の稲生いのうの戦い(信長と弟・信勝の家督争い)で初陣を飾った利家は、敵将の首を取って手柄を立てました。続く合戦でも次々と首を上げ、信長の親衛隊にあたる赤母衣衆あかほろしゅうに抜擢されます。これは織田家の若手エリートだけが選ばれる名誉の役職でした。

※「赤母衣衆」とは、信長の親衛隊。母衣(ほろ)は背中に負う風船状の布で、味方の伝令や護衛を担う精鋭の証。赤母衣衆10名・黒母衣衆10名が選ばれ、利家は赤母衣衆の筆頭格まで出世した。

■ 「うつけ」仲間・まつとの結婚

1558年(永禄元年)ごろ、20歳前後の利家は、まだ12歳前後のまつ後の芳春院と結婚しました。まつは利家の従妹(いとこ)にあたり、幼いころから前田家で養育された幼なじみ的存在。年の差はありますが、当時としては珍しくない婚姻でした。

そして、まつには大きな縁がありました。彼女と仲の良かった寧々ねね(後の北政所・豊臣秀吉の正室)が、ほぼ同じ時期に秀吉のもとへ嫁いだのです。利家とまつ、秀吉と寧々——夫同士は織田家中の同僚、妻同士は幼なじみという、まさに家族ぐるみの付き合いが、ここから始まります。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

又左(利家)とは、まだお互い名もない若造のころからの付き合いじゃ。寧々とまつ殿が仲ようしてくれたおかげで、わしらは織田家の中でも一番の友になれた。

この若き日の友情は、のちに賤ヶ岳の戦いで利家が秀吉側に流れる決断にも、晩年に五大老筆頭として秀頼を託される展開にも、ずっと影響を与え続けることになります。

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「槍の又左」とは?——異名の意味と得意武器

槍の又左(またざ)とは?

「槍の又左」は前田利家の異名です。「又左」は通称「又左衛門(またざえもん)」の略で、長槍を得意とした利家の武勇を表す呼び名。織田信長の親衛隊「赤母衣衆」に抜擢され、6メートル超の長槍を自在に振るって数々の合戦で先陣を切ったことから、この異名が定着しました。

前田利家の肖像画
前田利家の肖像/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■ 赤母衣衆への抜擢と槍の名手ぶり

利家が「槍の又左」と呼ばれるようになったのは、信長の親衛隊・赤母衣衆として戦場で槍働きを重ねたからです。利家が好んで使ったのは、当時の標準的な槍よりはるかに長い三間半(約6.3メートル)とも伝えられる長槍。槍の柄に「お短かれ」と銘を刻んで、わざと「短い」と呼んだという逸話まで残っています。実際には鴨居(かもい)に当たって屋内では振り回せないほどの長さだったといいます。

長い槍は遠くから先に突ける=有利という単純な理屈で、織田家ではこの長槍戦術が定着していました。利家はその先頭に立って、「俺が一番長い槍を持つ」と言わんばかりに敵陣へ突っ込んでいったのです。

前田利家
前田利家

俺の槍は誰よりも長い。長い槍は強い、それだけだ。又左、いつでも槍一本が友よ——そう言って先陣を切るのが、若いころの俺の生き方だった。

※利家の長槍:通称「お短かれ」。三間半(約6.3メートル)の柄に、わざと「お短かれ(お短かい)」と銘を刻んで自慢したと『国祖遺言』などに伝わる。当時の武士の槍は二間(約3.6m)が標準なので、ほぼ倍の長さ。

■ 主な合戦での活躍——右目下に矢を受けたまま突進

利家の槍働きは、初期の織田家の合戦記録にずらりと並びます。代表的なものを並べると次のとおりです。

  • 1556年・稲生の戦い:信長と弟・信勝の家督争い。利家、初陣で敵将の首を取る
  • 1560年・桶狭間の戦い:浪人中ながら独断で参戦し、首級を取って戦功を立てる
  • 1561年・森部の戦い:美濃攻めの戦闘で大功を立て、信長から赦免を受ける(後述)
  • 1568年・上洛戦:信長の上洛にも従軍し、近江・南山城を転戦

とくに有名なのが、右目の下に矢を受けたまま敵陣へ突進したエピソードです。ある合戦で利家は顔面に矢を受けたものの、矢を引き抜かないまま味方を鼓舞し、そのまま敵将を討ち取ったと伝わります。痛みより勝利を優先する、まさに「猛将」のエピソードです。

あゆみ
あゆみ

「槍の又左」って、なんとなく強そうな名前だけど、ちゃんとした意味があるの?大河ドラマだと「又左衛門」って呼ばれることが多いけど、これも同じ人?

もぐたろう
もぐたろう

同じ人だよ!利家の通称が「又左衛門(またざえもん)」で、それを略して「又左(またざ)」。そこに得意武器の槍をくっつけたあだ名が「槍の又左」なんだ。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で「又左衛門」と呼ばれているのも、同じ前田利家のこと。「ニックネーム+得意技」って構造は、現代のスポーツ選手の異名と似てるイメージだよ!

茶坊主事件〜追放そして返り咲き

問題:茶坊主事件で信長に追放された利家、どう復活したのか?

■ 茶坊主・拾阿弥を斬った事件とは

順調にエリート街道を歩んでいた利家ですが、21〜22歳ごろの1559年(永禄2年)、人生最大のピンチが訪れます。きっかけは、信長に仕える茶坊主・拾阿弥じゅうあみとのトラブルでした。

拾阿弥は信長のお気に入りの茶坊主で、それをいいことに家中でも傍若無人な振る舞いが目立つ人物でした。あるとき、利家が大切にしていた笄(こうがい・髪を整える道具)を拾阿弥が盗み、それを取り返そうとした利家を逆になじった——とも、利家の妻・まつをからかった——とも伝えられます。詳細には諸説ありますが、いずれにせよ利家にとっては「武士の面子を潰された」決定的な侮辱でした。

怒った利家は、ついに信長の眼前で拾阿弥をなで斬りにしてしまいます。お気に入りを目の前で殺された信長は激怒。「死罪が当然だ」と言い渡したものの、家臣の柴田勝家森可成(よしなり)らが必死に取りなして、なんとか追放処分に減刑されました。

もぐたろう
もぐたろう

「茶坊主」っていうのは、武家屋敷でお茶を入れたり身の回りのお世話をしたりする坊主姿の側近のこと。今でいうと「社長秘書」みたいな立場で、上司の信任が厚いと家中でも力を持っていたんだ。利家はそれをぶった斬ったわけだから、社長のお気に入り秘書を新人がいきなり殺したようなもの。普通なら一発アウトだよね。

■ 浪人中の生活と返り咲き——森部の戦いで首三つ

追放された利家は、知行も俸禄も失った無職の浪人になりました。妻・まつや幼い子どもを抱えながら、知人の家を転々とする苦しい生活がしばらく続きます。1560年の織田信長の桶狭間の戦いも、利家は織田家の正規軍ではなく、浪人の身で独断参戦しています。許されてもいないのに、勝手に戦場に出て手柄を立てようとしたのです。

そして1561年(永禄4年)、利家にとって運命の合戦——森部(もりべ)の戦いがやってきました。美濃の斎藤龍興(たつおき)と織田信長が美濃国・森部で衝突した戦闘です。

このときも利家は浪人のまま無断で参戦し、敵の猛者「足立六兵衛」をはじめとする三人の首級を一日で討ち取るという大手柄を立てました。あまりの活躍ぶりに、ついに信長は折れて利家を赦免し、織田家への帰参を許します。追放から約2年、利家は実力で信長のもとに返り咲いたのです。

前田利家
前田利家

浪人になってみて、初めて「本当の友」がわかった。何ももらえないとわかっていても、まつや子どもを支えてくれた者、戦場で背中を貸してくれた者——あれが俺の財産だ。返り咲いてからの俺は、二度と感情で槍を抜かないと心に決めた。

ゆうき
ゆうき

でもさ、人を殺して追放された人間が、勝手に戦場に来て首取っただけで許されるって、ちょっと甘くない?信長ってもっと厳しいイメージなんだけど。

もぐたろう
もぐたろう

いいツッコミ!ポイントは、信長が「使える人材は感情で切り捨てない」現実主義者だったことなんだ。利家の槍働きは織田家でもトップクラス。ここで切るより、戻して使った方が美濃攻めで得をするって計算した。あと利家がただ謝るんじゃなくて「結果」で示しに来たっていうのも大きい。信長って結果を出す人間にはとことん優しかったんだよ。

賤ヶ岳の決断〜柴田か、秀吉か

柴田勝家豊臣秀吉の対立——利家はどちらを選んだのか?

本能寺の変後の混乱と柴田勝家との関係

1582年6月、京都の本能寺で織田信長明智光秀に討たれます——本能寺の変です。このとき利家は越前国府中(現在の福井県越前市)の城主で、北陸方面軍の司令官・柴田勝家の与力(よりき)として、上杉家との戦いの最前線にいました。

利家は1575年(天正3年)の越前一向一揆鎮圧の後、府中三人衆(利家・佐々成政・不破光治)の一人として越前国府中の城主に取り立てられた経緯があり、柴田勝家には恩がありました。柴田からすれば、利家は信頼できる与力。利家からすれば、柴田は引き上げてくれた上司——本来であれば、迷うことなく柴田につくべき間柄でした。

柴田勝家 肖像画
柴田勝家の肖像画(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

ところが、信長の後継者争いをめぐって織田家中が二つに割れます。清洲会議(1582年6月)で発言力を強めた羽柴秀吉と、宿老筆頭としての面子を守りたい柴田勝家——両者の対立は、翌1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで爆発します。

■ 賤ヶ岳の戦い——利家の撤退という選択

賤ヶ岳の戦い 布陣図
賤ヶ岳の戦い 布陣図(柴田勝家軍と羽柴秀吉軍の対峙)

1583年4月、近江国の賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)で柴田軍と秀吉軍が激突しました。利家は柴田軍の右翼を担う重要な与力として布陣。当初は柴田軍が優勢でしたが、戦況は思わぬ形で動きます。

柴田軍の前線で激戦が続いていた最中、利家は突如として戦線を離脱して帰国してしまいます。利家の撤退で右翼の戦線は崩れ、柴田勝家軍は総崩れに。秀吉は一気に攻め込み、勝家は北ノ庄城で自刃。利家の判断ひとつで、織田家後継戦の決着が決まったといってもよい状況でした。

柴田勝家
柴田勝家

又左、おまえは引き上げるか……。だが恨みはせぬ。府中まで戻ったら、わが妻・お市と娘たちを頼む。これからは秀吉殿の下で生きていけ——。

利家の撤退については「戦況を見極めての賢明な判断」「親友・秀吉への配慮」「柴田勝家自身も利家には『無理に戦うな』と伝えていた」など、後世さまざまに解釈されてきました。実際、敗走中に柴田勝家が利家の府中城に立ち寄った際、利家は手厚くもてなして送り出したと『国祖遺言』などに伝えられます。利家にとっても、苦渋の決断だったことは間違いありません。

もぐたろう
もぐたろう

利家の選択って、現代の感覚だと「裏切り」に見えるよね。でも当時は「主君(信長)はもういない、織田家の天下を維持できそうな方を選ぶ」のがリアリスト的な判断。利家は感情より、家臣やまつ・子どもたちの将来を優先したわけだ。

あゆみ
あゆみ

柴田勝家を見捨てたって、見方によってはひどい裏切りだよね。なんで利家はそれでも戦国大名として生き残れたの?周囲から白い目で見られそうな気がするんだけど。

もぐたろう
もぐたろう

戦国時代って「主君を裏切らない」ことより「家を残す」ことの方が美徳だったんだ。利家は柴田勝家を見捨てた代わりに、撤退した府中城で勝家を温かく迎え入れて自害の場まで送ってる。「戦場では離れたが、人間としては最後まで義理を通した」——これが当時の感覚では「立派な対応」だったんだよ。

賤ヶ岳での決断が、利家の運命を大きく変えました。秀吉から能登一国を与えられて能登23万石の大名となり、ここから加賀百万石への道が一気に開けていきます。

加賀百万石の確立——北陸を制した末森城の逆転

■ 手取川の戦い——上杉謙信との激突

賤ヶ岳の前、利家にはもう一つ忘れられない北陸での経験がありました。1577年(天正5年)の手取川てどりがわの戦いです。

このとき織田軍は、柴田勝家を総大将に、利家・佐々成政・滝川一益らが加賀へ進軍。能登を平定しようとしていた上杉謙信と、加賀国の手取川(現在の石川県)付近で激突します。相手は「軍神」と呼ばれた上杉謙信。織田軍は謙信の戦術と機動力に翻弄され、川を渡って退却中に大きな損害を出しました。

『上杉家文書』によると、この戦いで上杉軍は織田軍を「川に追い落とした」と記しており、利家自身も命からがら越前へ逃げ帰ったと伝わります。「軍神・謙信に手も足も出ない」——その記憶は、利家の北陸経営の原点になりました。北陸は甘くない、力ずくでは押さえきれないと、肌で知ったのです。

※手取川の戦いは『信長公記』には詳しく載っておらず、上杉方の史料に依拠する部分が多いため、戦闘規模や被害については諸説あります。ただし織田軍が手取川付近で苦戦・撤退した事実については、おおむね一致した記録が残っています。

■ 末森城の戦い——最大のピンチからの逆転

賤ヶ岳の翌々年、1584年(天正12年)9月。秀吉が東国で小牧・長久手の戦いに手を取られていた隙を突いて、能登国の末森城すえもりじょうに大軍が押し寄せました。攻め手は、かつての同僚で、賤ヶ岳の後に秀吉と敵対した佐々成政さっさなりまさ。実に1万5千とも伝えられる兵力で、利家方の末森城を包囲したのです。

末森城は加賀と能登をつなぐ要衝。ここを失えば、利家の能登支配は崩壊し、加賀百万石どころの話ではなくなる——文字通り、利家の生涯最大のピンチでした。城を守る城将・奥村永福おくむらながとみはわずか300人ほどで籠城。利家自身も金沢にいたものの、動かせる兵は2,500ほどしかいなかったといわれます。

家臣の中には「兵力差がありすぎる、援軍を出しても無駄だ」と止める者もいました。しかし利家は「ここで動かねば、武士が廃る」と一蹴。深夜に少数の精鋭を率いて金沢を発ち、夜を徹して山道を駆け抜け、夜明け前に末森城の背後に到達します。そして、佐々軍が城攻めに気を取られている隙を突いて、奇襲で側面に突入しました。

不意を突かれた佐々軍は大混乱。城内の奥村勢も呼応して打って出たため、両面から挟撃された佐々軍はついに撤退します。圧倒的な兵力差を、利家は速度と決断で覆したのです。この末森城の逆転勝利によって、利家は北陸での主導権を完全に握り、加賀百万石の基盤を固めていきました。

前田利家
前田利家

兵が少なかろうと、敵が多かろうと、ここで退いたら俺の北陸は終わる。又左の槍は、こういう時のためにある。閻魔でも牛頭馬頭でも相手にしてくれるわ——その覚悟が末森を救った。

■ 能登・加賀・越中の支配と「そろばん大名」の経営センス

賤ヶ岳の論功行賞で能登を獲得し、末森城の戦いで加賀の主導権を握った利家は、その後も着実に勢力を広げます。1585年(天正13年)の秀吉による越中攻め(佐々成政討伐)にも参加し、越中の一部も加えて、最終的には能登・加賀・越中の三国にまたがる広大な領地を支配することになります。

「加賀百万石」と呼ばれる前田家の石高は、利家一代で完成したわけではなく、子の前田利長の代に正式な数字として確定しました。それでも、その基礎となる領地と支配体制を築いたのは利家です。江戸時代を通じて加賀藩は徳川家に次ぐ大藩として存続し、明治維新を迎えるまで前田家が君臨し続けました。

利家の経営者としての顔も特筆に値します。家臣の俸禄や年貢の出納を細かく算盤で確認し、晩年には常に算盤を懐にしていたと伝わります。家中では「そろばん大名」と渾名されたほどで、戦場で槍を振るう姿とのギャップが、現代から見てもユニークな魅力になっています。武力で領地を取り、経営力で領地を維持する——利家のもう一つの側面です。

もぐたろう
もぐたろう

利家がただの猛将で終わらなかった理由は、ここにあるんだ。槍で領地を取って終わりじゃなくて、自分で算盤をはじいて藩経営の数字を握ってた。だからこそ、徳川時代を通じて前田家は加賀百万石の名門であり続けられた——「武と商の両刀」。これって、現代の起業家にも通じる感覚だよね!

こうして加賀百万石の基盤を固めた利家は、いよいよ秀吉政権の中枢へと足を踏み入れていきます。秀吉死後の豊臣家を守る五大老の筆頭として、徳川家康と最後まで対峙する晩年の物語は、後半でくわしく解説していきます。


五大老と外交——徳川家康を最後まで牽制した利家

■ 豊臣五大老への就任

1598年(慶長3年)、すでに病床にあった豊臣秀吉は、自分の死後に幼い豊臣秀頼とよとみひでより(当時5歳)を支えるための合議体制を作りました。それが五大老ごたいろうと五奉行の制度です。

豊臣秀吉の肖像/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

※豊臣五大老とは:徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝の5名で構成された、秀吉死後の豊臣政権の最高合議機関。秀頼が成人するまで天下の重要事項はこの5人で決めることになっていた。

このうち石高で見ると徳川家康(約255万石)が圧倒的トップで、二番手が前田利家(約83万石)。三番手の毛利輝元(約120万石)も実質は中国地方分散型なので、秀頼を抱える大坂城を直接守れる位置にいる「もう一人の重鎮」はほぼ利家一人でした。秀吉が「秀頼の傅役(もりやく)」を利家に頼んだのは、能力だけでなく信頼の積み重ねがあったからです。

■ 誓紙を交わして家康を牽制——利家の外交手腕

1598年8月、秀吉が伏見城で死去。すると、家康はさっそく動き出します。秀吉が定めた「五大老・五奉行は無断で婚姻を結んではならない」というルールを破り、伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政らと勝手に縁組を進めたのです。これは明らかな違反行為で、家康が豊臣政権のルールを無視して自分の派閥を作りに行った瞬間でした。

これに対して利家は1599年(慶長4年)正月、五奉行(石田三成・浅野長政・前田玄以・増田長盛・長束正家)と組んで家康を強く非難。両者は一時、京都・伏見と大坂で兵を構えて合戦寸前にまで至りました。豊臣家を割る大乱になりかねない緊迫した状況です。

ここで利家が見せたのが、武力ではなく「外交」の腕でした。最終的に利家と家康は誓紙(せいし)を交換し合い、互いに「秀頼を盛り立てる」ことを誓って和解。利家が大坂城に入って秀頼を後見し、家康は伏見にとどまる——という形で、ぎりぎりのバランスが保たれます。「家康を制するため誓紙を交わした」とは、まさにこの瞬間のことです。

あゆみ
あゆみ

誓紙って、要は紙に「ちゃんとやります」って書くだけだよね?石高でも兵力でも家康に劣る利家が、どうしてそれだけで家康を抑えられたの?

もぐたろう
もぐたろう

ポイントは、利家の後ろに「反家康に回る可能性のある大名たち」がズラッと並んでいたことなんだ。石田三成ら五奉行、加藤清正・福島正則・細川忠興といった豊臣恩顧の武将たち——みんな利家の所には挨拶に来た。家康からすれば「この爺さんを敵に回したら、戦は勝てるけど犠牲が大きすぎる」って計算が働いた。利家はその「集まる人脈」そのものが、最大の武器だったんだよ。

■ 晩年の名言と利家の死——享年62歳

誓紙を交わしたわずか2か月後の1599年(慶長4年)閏3月3日、利家は大坂・玉造の屋敷で病死します。享年62歳(数え年、最有力説の天文7年12月生まれ説)。死因は胃がんとも腎臓病とも伝わりますが、本人も家臣も「ここで自分が倒れれば豊臣家が危うい」と痛いほどわかっていました。

『国祖遺言』『武功雑記』など江戸期の前田家関連史料には、利家の臨終の場面が伝えられています。死の床で家臣たちが嘆き悲しむなか、利家は気丈にこう言い放ったとされます——。

「閻魔(えんま)でも牛頭馬頭(ごずめず)でも、相手にしてくれるわ」——前田利家・臨終の言葉(『国祖遺言』ほか)

「閻魔大王だろうが地獄の獄卒だろうが、来るなら来い。槍一本で相手をしてやる」——死を目前にしてもまだ、又左の槍は折れていなかったということです。同時にそれは「俺が死ねば豊臣家は危うい、家康をどう抑えるかは秀頼と三成に託すしかない」という、悔しさのこもった言葉でもありました。

そして、利家の死から1年半後の1600年9月、関ヶ原の戦いが起こります。利家の予感は正しく、利家不在の豊臣家は石田三成の挙兵を抑えきれず、東軍(家康方)に敗れて事実上の徳川政権が誕生しました。前田家は息子・前田利長が東軍に属して加賀百万石を維持したものの、豊臣政権そのものは瓦解していきます。

もぐたろう
もぐたろう

「利家があと10年長生きしていたら関ヶ原はなかったかもしれない」って、歴史好きの間ではよく言われる戦国IFのひとつ。家康ですら正面切って動けなかった老将が消えたことで、一気にバランスが崩れた——利家の死は、戦国時代の最後の重しが外れた瞬間だったんだ。

まつとの生涯

利家を語るうえで欠かせないのが、生涯を共に歩んだ妻まつまつ(出家後の名は芳春院ほうしゅんいん)の存在です。1547年(天文16年)生まれで、利家とは従兄妹(いとこ)同士。利家20歳前後、まつ12歳のときに正式に結婚したと伝わります(永禄元年・1558年)。当時としても若い結婚で、現代の感覚では幼い印象を受けますが、当時の戦国大名にしてはかなり「気の合うペア」として描かれることが多い夫婦です。

まつ(芳春院)の肖像画
まつ(芳春院)の肖像/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

まつは賢妻として有名で、利家が織田家から追放されて浪人となった苦しい時期も支え続けたといわれます。さらに見逃せないのが、豊臣秀吉の正室・寧々(ねね/北政所)とまつが幼馴染みのような近い関係だったことです。利家家と秀吉家は、夫同士だけでなく妻同士も親しく行き来し合う「家族ぐるみのつき合い」を続けました。利家と秀吉が本能寺後も深い信頼で結ばれ続けた理由のひとつが、ここにあります。

まつ(芳春院)
まつ(芳春院)

うちの人は槍ばっかりで頼りないところもあるけれど、ねね様(寧々)とお茶を飲みながら旦那衆の話で笑い合うのが楽しみでね。秀吉殿と又左様は、家ごと付き合うご縁。利家が亡くなったあと、わたくしが江戸へ人質に行ったのも、前田家を残すためなら何でもする覚悟があったからですよ。

まつのもう一つの大きな決断が、関ヶ原直前の江戸への人質下向です。利家の死後、徳川家康は前田家に「謀反の疑いあり」と言いがかりをつけ、跡を継いだ前田利長を屈服させようとしました。このとき自ら名乗り出て江戸へ人質として下ったのが、まさにまつでした。1600年から1614年まで、なんと14年間を江戸で過ごし、加賀百万石を守り抜きます。利家の槍が領地を作り、まつの覚悟が領地を守った——前田家が江戸時代を通じて最大の外様大名であり続けた裏には、夫婦二人の物語があったわけです。

前田利家についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

利家についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!読みやすいものを選んだので、ぜひ手にとってみてね。

①【まつとの夫婦愛も知りたい人に】|利家とまつの二人三脚を描いた一冊

②【小説で読みたい人に】|かぶきもの・又左の生き様を活き活きと描く歴史小説

前田利家

童門冬二 著|小学館文庫


③【合戦の迫力を堪能したい人に】|上中下3巻の本格派・津本陽の歴史大作

前田利家(上)

津本陽 著|講談社文庫

よくある質問——前田利家について

戦国時代から安土桃山時代に活躍した武将で、織田信長・豊臣秀吉に仕えました。「槍の又左」の異名で知られる猛将でありながら、加賀・能登・越中を支配する加賀百万石の基礎を築いた経営者でもあります。晩年は豊臣五大老として徳川家康を牽制した名宰相です。

「又左」は前田利家の通称「又左衛門(またざえもん)」の略です。利家が長槍の名手として桶狭間の戦いや森部の戦いで活躍したことから「槍の又左」の異名が定着しました。「槍の又左衛門」「槍又左」とも呼ばれます。

織田信長の家臣時代から長屋住まいの隣同士のような近い関係で、若い頃から共に酒を飲み苦楽を分け合った仲だったと伝わります。妻同士(まつと寧々)も幼馴染みのように親しく、家族ぐるみで交流していました。賤ヶ岳の戦いで利家が柴田軍から離脱して秀吉方に転じたのも、この長年の信頼関係があってこそです。

前田家が支配した加賀・能登・越中の三国にまたがる広大な領地と、その石高(こくだか)が約100万石(正確には119万石余)に達したことを指す呼び名です。江戸時代の徳川将軍家を除けば事実上最大の大名で、明治維新まで前田家が支配し続けました。基盤を築いたのが利家、正式に「100万石」と確定したのは子の前田利長の代です。

天文7年12月25日(グレゴリオ暦・1539年1月15日)生まれが最有力説で、1599年(慶長4年)閏3月3日没。享年62歳(数え年)。死去場所は大坂・玉造の屋敷で、関ヶ原の戦い(1600年)の前年でした。

豊臣五大老として同列でありながら、秀吉死後は対立関係でした。家康が無断で大名間の婚姻を進めるなど豊臣ルールを破ろうとしたとき、利家は五奉行と組んで家康を強く牽制し、合戦寸前にまで至ります。最終的に互いに誓紙を交わして和解し、利家が大坂城で秀頼を後見、家康が伏見にとどまる形で均衡を保ちました。利家が死去すると、その均衡は1年半で崩れ関ヶ原の戦いに至ります。

はい、ドラマで登場する「又左衛門」は史実の前田利家のことです。「又左衛門」は利家の通称で、若い頃から信長の家臣として秀吉・秀長兄弟と関わりがありました。ただしドラマの細かいエピソードや人間関係の描写には創作要素が含まれるため、本記事のような史実解説と並行して楽しむのがおすすめです。

まとめ——槍の又左・前田利家の生涯

前田利家のポイントまとめ
  • 幼名「犬千代」で織田家に仕官し、「槍の又左」の異名をとる猛将に成長
  • 茶坊主事件で信長に追放されるも、桶狭間・森部の戦いの活躍で帰参を果たす
  • 賤ヶ岳の戦い(1583年)では柴田勝家から離脱、秀吉方として加賀・能登・越中を支配
  • 末森城の逆転勝利と「そろばん大名」の経営センスで、加賀百万石の基盤を確立
  • 豊臣五大老の筆頭として徳川家康を最後まで牽制、1599年に享年62歳(数え年)で死去

前田利家の年表
  • 1539年(天文7年12月)
    尾張国に生まれる(幼名:犬千代)
  • 1551年頃
    織田信長に小姓として仕える
  • 1559年
    茶坊主・拾阿弥を斬り信長に追放される
  • 1561年
    森部の戦いで首級三つを挙げ赦免される
  • 1575年
    越前・府中城主となる(府中三人衆)
  • 1583年
    賤ヶ岳の戦い——柴田勝家軍から離脱し秀吉方へ
  • 1584年
    末森城の戦いで佐々成政の大軍を撃退、加賀百万石の足場を固める
  • 1598年
    豊臣五大老に任命される。秀吉死去後、筆頭五大老として家康を牽制
  • 1599年
    前田利家、大坂で死去(享年62歳・数え年)
  • 1600年
    関ヶ原の戦い——前田家は東軍に付き加賀百万石を維持

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以上、前田利家(槍の又左)のまとめでした!追放→帰参→百万石→五大老という大逆転の生涯、面白かったよね。利家の死後に起きた関ヶ原の戦い、盟友・秀吉との関係、ライバルだった柴田勝家——下の関連記事もあわせて読むと、戦国の終わりがもっと立体的に見えてくるよ!

📅 最終確認:2026年4月

参考文献

Wikipedia日本語版「前田利家」「前田まつ」「賤ヶ岳の戦い」「五大老」(2026年4月確認)
コトバンク「前田利家」「芳春院」「加賀藩」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・朝日日本歴史人物事典)
山川出版社『詳説日本史』
『国祖遺言』『武功雑記』『信長公記』『上杉家文書』ほか江戸期の前田家関連史料

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