一条天皇については、数記事に渡って紹介をしてきました。
今回は、一条天皇が崩御する前に残した辞世の句について考察してみようと思います。なぜこのような話をするのかというと、一条天皇の辞世の句の意味について解釈が大きく分かれており、その辞世の句は今もなお多くの人を魅了しているからです。
藤原道長と藤原行成で別れる解釈
一条天皇の辞世の句は藤原道長の日記「御堂関白記」と藤原行成の日記「権記」の2つの資料に残されていますが、この2人の記録が実は微妙に違います。
なぜこんなことが起こったのかというと、この一条天皇の辞世の句は一条天皇が死ぬ間際、意識が朦朧とした状態で述べた一句であり、聞き取りにくかったからだと考えられています。
藤原道長の御堂関白記に書かれた辞世の句
露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ
藤原行成の権記に書かれた辞世の句
露の身の 風の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき
「君」とは誰を指すか?
一条天皇の辞世の句の内容は概ね次のような内容となっています。
露のようにはかない身の、かりそめの宿である草に、露ならぬ君を残して出塵してしまう(塵を出る、俗世間から離れる、出家する)ことを(今しみじみと)思うのである。
(出典:「文楽と王朝と障害と」)
※行成の記録だと、最後の部分は「思う」でなく「悲しい」になります。ニュアンスはどちらも大きくは変わらないと思います。
この句の中で解釈が分かれているのは「君」とは誰か?という点でした。藤原道長は「君」を藤原彰子と、藤原行成は「君」を藤原定子だと考えていたようです。
この「君」の解釈次第で一条天皇の辞世の句の意味は大きく変わってしまいます。どっちの解釈が正しいのかは今となっては誰にもわかりませんが、その答えを妄想するのは中々面白いものです。
この記事では、そんな妄想をより楽しむため、一条天皇の次期天皇である三条天皇即位時の様子について語ってみることにします。
敦康(あつやす)親王と敦成(あつひら)親王
一条天皇の心の内を探る鍵は、一条天皇の2人の子どもにあります。それぞれ敦康親王と敦成親王と言います。同じような名前でわかりにくいです・・・。
敦康親王は一条天皇と藤原定子の子供。敦成親王は一条天皇と藤原彰子の子供です。
定子と彰子。敦康と敦成。この2人同士の関係については、以下の記事で説明していますので、知らない方はまずは下の記事を読んでみることをオススメします。
ここから先の話は、上の記事の内容についてある程度知っている前提で進めます。(本当は全部順を追って説明すべきなのですが、私の力量不足によりうまく整理しきれませんでした!汗)
一条天皇が愛した定子の子【敦康親王】
一条天皇には2人の正妻がいました。(正妻なのに2人いるのは不思議かもしれませんが、諸事情によりそんな仕組みが出来上がってしまいました。)
最初の嫁さんは、藤原定子という人物。定子は非常に聡明な女性で、文芸の面でも秀でた才を持つ完璧な女性でした。(後世に描かれる定子の姿は美人で聡明なイメージばかり!)さらに、定子の文芸サロンにおいて「枕草子」を書いたのが有名な清少納言です。
そんな完璧な女性だった定子ですが、一条天皇は定子のことを深く愛していました。そして定子の息子、敦康親王もまた、定子と一条天皇に似た聡明な人物でした。一条天皇は、将来、優秀な敦康親王を天皇にしようと考えます。
藤原道長の娘、彰子の子【敦成親王】
藤原彰子は、999年に一条天皇の2番目の正妻となった女性です。強大な権力を持つ藤原道長の娘でした。
一条天皇には既に定子という完璧な正妻がいましたが、藤原道長は自分の娘を天皇へ嫁がせたいあまり、半ば強引に彰子を一条天皇の正妻にしてしまいました。(具体的な手法はここでは省略します・・・)
道長と彰子の間にはすぐに子供ができず、1001年に定子が亡くなった後、彰子は定子の子である敦康親王の面倒を見ることになりました。(当時、一条天皇の男子が敦康親王しかいなかったので、天皇候補として敦康親王は貴重な存在でした。)一条天皇と定子と彰子。複雑な関係ですが、表面上、3人の仲に軋轢があった様子はなく、関係は良好でした。
なぜこんな複雑な状況の中、良好な関係を築けたのか?それは一条天皇が完璧な人間だったからです。詳しくは以下の記事をどうぞ。
彰子も一条天皇の「敦康親王を天皇にしたい」という想いを理解していました。さらに、彰子自身も敦康親王を好いていたのもあって、彰子も敦康親王を推していました。しかし、これは道長から見れば明らかに矛盾した行動です。道長は彰子に一条天皇の子を産んでもらい、その子を天皇とすることで外戚の地位を手に入れ、権力を盤石なものにしようとしていました。
その彰子が「敦康親王を天皇にした方が良い」と言うのですから、道長と彰子の関係は微妙なものだったことが想像できます。
しかし、1008年、彰子にも子供が生まれました。その子供が敦成親王です。彰子の心境は複雑すぎてわかりませんが、少なくとも道長は大喜びしたに違いありません。
彰子は敦成親王を産んだ後も、一条天皇の気持ちを汲み、敦康親王を天皇にしたい意向をもっていたようです。
しかし、藤原道長は当然、敦成親王を推します。こうして一条天皇・彰子と道長の関係は微妙なものになっていきます。(一番複雑な心境だったのは彰子だったことでしょう)
一条天皇と彰子の関係は良好でしたが、一条天皇と定子のような愛情あふれるエピソードはそれほど多くありません。999年、彰子が正妻となった当時、一条天皇は21歳、彰子は12歳でした。一条天皇がよほどのロリコンでもない限り、彰子に深い愛情が生まれなかったのも当然かもしれません・・・。(だからと言って、一条天皇と彰子の仲が悪かったわけでは決してありません)
大活躍の藤原行成
1008年に敦成親王が生まれてから、一条天皇・彰子と藤原道長の意見は真っ向から対立し関係が微妙なものになっていきますが、そんな一条天皇と藤原道長との間で大活躍したのが藤原行成という人物です。定子と言う正妻がいるにも関わらず、彰子を無理やり一条天皇の正妻とできたのも実は藤原行成が裏で一条天皇を説得したからなんです!
藤原行成については、以下の記事で紹介しているので、知らない方はまずはこちらの記事を。
一条天皇を説得する藤原行成
藤原行成は非常に優秀な人物で、一条天皇も藤原道長も行成のことを非常に信頼していました。藤原道長は行成に一条天皇を説得するようお願いします。
藤原行成は、次のように言って一条天皇を説得したと言われています。(かなり要約しまくっています。)
行成「時の権力者は藤原道長であり、敦康親王は傍系の存在となってしまいました。その敦康親王が天皇となったところで、道長の息のかかった朝廷ではもはや苦しい思いをするだけです。愛しい敦康親王の身を案じるのなら、敦成親王を天皇にすべきでしょう」
一条天皇自身もこの問題に頭を悩ませていましたが、行成の説得もあり、敦成親王を将来の天皇とすることを決心しました。この敦成親王がのちの後一条天皇になります。
藤原行成の心境
さて、藤原行成はどのような心境で一条天皇を説得したのでしょうか?それは、「単に道長のために説得しただけ」とも「実は、本当に敦康親王の身を案じていた。」とも言われています。(私は、行成の人柄を考えると後者だと思っています。)
一条天皇の死と三条天皇
愛しい敦康親王の身を案じ、悩みに悩んだ結果、敦成親王を天皇とすることに決めた一条天皇。そんな重大決心をした後、1011年、病に伏し、そのまま崩御しますが、その時に詠んだ詩が冒頭で紹介した辞世の句です。
そして、一条天皇が亡くなった後、三条天皇が即位し、敦成親王が皇太子となりました。一条天皇の死は、優雅な平安王朝の大きな節目となります。
一条天皇の辞世の句を考える
さて、これまでの話を踏まえ、一条天皇の辞世の句についてちょっとだけ考えてみたいと思います。
御堂関白記の辞世の句の解釈
露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ
道長は、「一条天皇は、彰子を残したまま死んでしまうこと悔やんだのだ!」と思ったようです。この解釈が一般的な解釈のように思います。
しかし、一条天皇・彰子・定子は複雑な関係だったことを思い出すと、実は別な解釈もできます。
権記の辞世の句の解釈
露の身の 風の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき
行成は、「一条天皇は、成仏しきれてない定子を残して、自分だけが成仏することを悲しんだのだ!」と思いました。
定子は出産後間も無く、1001年に亡くなりましたが、当時、懐妊・出産に伴った死では成仏することはできないと考えられていました。行成は、定子と一条天皇との深い愛情を知っていたので、一条天皇の辞世の句を聞いて反射的に「これは定子のことだ!」と思ったのでしょう。
行成の解釈は、何も知らないと「ちょっと無理やりすぎるんじゃ・・・(汗」と思いますが、事情を理解するとかなり説得感のある解釈だと感じるようになります。
妄想は楽しい
以上、長くなりましたが一条天皇の辞世の句について語ってみました。一条天皇の話は知れば知るほど、妄想が膨らみ楽しいものです。正解がわからないというのも案外悪いものではありません。それにしても、彰子の心境というのが複雑すぎてどうも見えてきません。一体彰子はどんなことを思っていたのか?個人的にすごく気になってしまいます。
上手く記事が書けない(反省)
どこかの記事でも同じようなことを書きましたが、この時代の話はどうも簡潔にわかりやすく書ききれません。(同じ話を繰り返したり、くどい説明が多い・・・)この時代のことをわかりやすく書くにはもう少し私自身勉強をする必要がありそうです。
とは言え、記事を書くこと自体は楽しかったので、ひとまず最後まで書いてみました。
【次回】
【前回】
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