今回は、元禄文化の時代に活躍した尾形光琳とその作品についてわかりやすく丁寧に紹介していくよ。
尾形光琳ってどんな人?
尾形光琳は、江戸時代中期の元禄文化の時代に活躍した画家です。
江戸時代、絵画の分野で2大トップの勢力を誇っていたのが狩野派と土佐派です。
狩野派は主に幕府、土佐派は主に朝廷に仕えるプロの絵師集団でした。
狩野派と土佐派は、幕府・朝廷という権力者のパトロン(支援者)がいたため、絵画の分野で多大な影響力を持っていました。
・・・が、江戸時代中期に入ると、狩野派も土佐派も描く絵がパターン化してしまいます。
両者ともに絵の技術は超一流なんだけれども、想像の斜め上を行くような独創的な絵が生まれなくなってしまったのです。
こうして江戸時代中期になると、絵画業界は行き詰まりを見せますが、そこに新しい風を吹き込んだのが尾形光琳でした。
尾形光琳は、独創的な絵を描くことを得意とした俵屋宗達・本阿弥光悦の作風を学ことで、自らも独自のデザインを編み出したのです
狩野派にも土佐派にも捉われない尾形光琳の画法は、多くの人々を魅了し、琳派と呼ばれる尾形光琳風の絵画を目指す一派が結成されました。
琳派という派閥ができるほどの尾形光琳の作品。その作品が一体どんなものだったのか、尾形光琳の生涯も交えながら紹介してみたいと思います。
尾形光琳の生涯
0~34歳:豊かな環境を背景にさまざまな芸術作品に触れる
尾形光琳は万次元年(1658)、京都にある裕福な呉服屋の次男として生まれました。
尾形家の呉服屋は、徳川秀忠の娘がお得先だったこともあって、当時めちゃくちゃ儲かっていました。そのため、尾形光琳は不自由のない豊かな幼少期を過ごすことになります。
尾形家はその仕事柄、幕府や朝廷のお偉いさん達との交流も親密でした。尾形光琳は、そのような交流の中で、お偉いさんの家に飾ってあるような、普段は目にすることのできないさまざまな芸術作品に触れ、自らも作品の創作にチャレンジしていきます。
この頃は画家としてというよりも、趣味の範囲内で絵画など芸術を楽しんでいました。
35~46歳:経済的な困窮と画家としての活動の開始
恵まれた環境の下、好きなことに没頭し、何不自由のない暮らしをしていた尾形光琳ですが、30代後半になると、生活が一変します。
・・・、実家の呉服屋の経営が大きく傾いてしまったのです。
経営が傾いた理由は、最大級の得意先である徳川秀忠の娘が亡くなったことと、経営改善のために始めた金貸し業に失敗したことが挙げられます。
突如として豊かな生活基盤を失った尾形光琳は、自分の力でお金を稼ぐ必要に迫られたのです。
弟の尾形乾山から借金をしなければならないほどの貧困に追い詰められると、尾形光琳は趣味で続けていた絵画を活かし、プロの画家としてデビューすることを決断しました。
30代後半からの画家デビューは、画家としてはかなり遅いスタートになりますが、尾形光琳は他のプロに引けを取らない確かな実力で、実績を積み重ねていきます。
幼い頃から優れた芸術・芸能に触れていたし、趣味として昔から絵を描いていたから、デビューが遅かったとはいえ、尾形光琳の絵の腕前は確かなものだったんだ。
それに尾形家の持つ人脈もあったから、PR活動もバッチリだったんだね。
47~51歳:江戸に移り、実力を高める
尾形光琳は宝永元年(1704)の47歳のころ、京都のとある商人に誘われ、江戸に拠点を移しました。
※この記事では年齢表記は全て数え年です。
江戸に移った尾形光琳は、江戸の大名たちと人脈を築き、屏風絵の注文を受けるようになります。
プロの画家として仕事が増えるのは良いことです。・・・が、尾形光琳の心境は少し複雑でした。
というのも、どうも江戸の大名たちとウマが合わなかったようだからです。尾形光琳は、知人に宛てた手紙のなかで「大名たちは堅苦しくて嫌だから、早く京都に戻りたい・・・」と愚痴を漏らしたりもしています。
また、プロの画家として活動を続ける傍ら、尾形光琳は、江戸で雪舟などの水墨画、狩野派・浮世絵の絵について勉強し、自らの作風に磨きをかけました。
本人にとっては不本意だったかもしれない江戸での仕事ですが、尾形光琳にとっては今後の創作活動に向けて知識・技術を習得できた大事な時期となりました。
結局、尾形光琳は、47歳~51歳の5年間を江戸で過ごすしました。
52~59歳:有名作品を次々と生み出す
江戸から京都に戻ると、尾形光琳の下に各方面から大量に仕事が舞い込んできます。
江戸で築き上げた人脈がここにきて活きたのです。人生っていうのは、何がどこで役立つのか、全くもってわからないものです。
江戸から京都に戻った光琳は、大名家や京都大阪の寺院・町家からの依頼を次々とこなしていきます。
この時期の尾形光琳は、人生で一番脂の乗った輝いていた時期でした。
後で登場する代表作品「紅白梅図屏風」など、尾形光琳の作品の多くはこの時期に創られています。尾形光琳は、典型的な大器晩成タイプの芸術家だと言えるでしょう!
ただ、プロの画家として有名にはなったものの、ガッポガッポ儲けることはできなかったようで、尾形光琳は長い間、経済的に苦しい生活を強いられていたと言われています。
亡くなる3年前に書いた遺言書には、「俺んとこはしっかりとした家業もないし、息子は他の家に養子に出すことにするわ!」と書かれていました。
もともと呉服屋の豊かな家で育った光琳です。光琳自身は、狩野派のように一族を巻き込んで実力勝負の絵の世界へ足を踏み入れることに、不安があったのではないかと思われます。
ただ、琳派という一派が創られたほどプロとして大成功を収めた尾形光琳が、画家を家業と考えていなかったというのは面白いですよね。
結局、尾形光琳にとって絵を描くことは趣味の延長線上であって、仕事という認識が薄かったのかな?なんて思ったりもします。
最近、「好きなことを仕事にする」みたいなキャッチフレーズをよく見かけますが、まさに尾形光琳がそうなのでは?と思うのです。
晩年は、陶芸家だった弟の尾形乾山との共同による創作活動も行っており、乾山が器を作り、光琳が絵を描いた作品が乾山焼という名で世に送り出されました。
尾形光琳は、漆器デザインの考案も行うようになり、芸術家として充実した晩年を送りました。もともと芸術全般に関心を持っていた光琳は、絵画以外にも芸術作品を創ることのできるマルチアーティストでもあったのです。
そして享保元年(1716)、尾形光琳は59歳でこの世を去りました。
尾形光琳の代表作品3選
3つの作品について1つずつ紹介していくことにするよ!
紅白梅図屏風
中央の水の流れを挟んで、左側に白梅、右側に紅梅を描いた作品です。今は国宝の1つに登録されています。
紅梅と白梅を屏風に描いたから「紅白梅図屏風」です。
紅白梅図屏風の最大の特徴は、絵の中に多くの対比を用いることで、構図全体の絶妙なバランスを取っているところです。
例えば、真ん中の川の流れはのっぺりと平面的であるのに対し、梅の幹や枝は線のように描いています。
こうした対比を用いることで、1つ1つの絵がしっかりと主張をしてくれるようになるわけです。
一方、1つの絵が主張しすぎて全体を損なわないよう、作品全体の調和を乱さぬよう対比を用いているのが紅白梅図屏風の特徴です。
川と梅は、面と線の異なる要素を1つの作品に共存させながらも、見ている人に違和感を与えるはありません。
加えて左右の梅の描き方も対照的です。左側の白梅はV字型で角ばっていますが、紅梅は曲線を多めに用いています。
幹・枝・花の描き方にも対比が用いられています。白梅・紅梅どちらも、幹はゴツゴツとした老木風だけど、枝はまっすぐと若々しく、花はかわいらしく描かれています。
画面全体から梅の木1本ずつにまで対比を用いており、巧みに作品としての均衡を保っているのが紅白梅図屏風の魅力です。
燕子花図屏風
燕子花図屏風は、光琳が40代中ごろに制作した作品だといわれています。
魅力は、満開の燕子花を金色の屏風に描いた簡潔な構図と、金・青・緑と少ない色で華やかさを演出できているところです。これも、国宝の1つに登録されています。
右の屏風は4つの燕子花が中央部分に、左の屏風には4つが斜めに配置されていて、『紅白梅図屏風』と同じく、対比の効果を利用しているようにも見えますね。
八橋蒔絵螺鈿硯箱
八橋蒔絵螺鈿硯箱は、上段を硯箱、下段を料紙箱とした、2段重ねの蒔絵による作品です。
八橋蒔絵螺鈿硯箱のデザインは、伊勢物語に登場する燕子花と橋をモチーフにしています。
橋を表現している長方形の板は、底面を除いた5面でつながるように配置しているのが特徴で、この構図は光琳が独自に編み出したものです。
蓋の中央に板をあしらったり、金で燕子花を描いたりと大胆なデザインですが、制作に用いた技術はとても繊細です。
橋は鉛板を用いており、細かい凹凸を付けることで橋に使われる木材っぽい質感を演出しています。
キラキラと白っぽく輝いている部分は貝殻を用いた「螺鈿」という技法を用いています。
いきなり話は変わりますが、八橋蒔絵螺鈿硯箱って下の硯箱と雰囲気が似ていると思いませんか?
この作品は、船橋蒔絵硯箱と呼ばれている本阿弥光悦という人物の代表作品です。
実は、尾形光琳の蒔絵は本阿弥光悦からインスピレーションを得たのでは?と言われています。
この両者の作品には、古典文学から着想を得たり、華やかさ・繊細さが魅力だったはずの蒔絵に武骨な金属板を取り入れたりしている点など、共通点がいくつもあるのです。
琳派が登場する
尾形光琳は、マンネリ化していた絵画業界に新しい風を吹き込みました。
俵屋宗達や本阿弥光悦といった先人からヒントを得た多くの作品には、狩野派や土佐派といったプロ集団には思いもつかない、面白いアイデアで盛りだくさん詰まっていたのです。
そして、尾形光琳が俵屋宗達・本阿弥光悦を手本としたように、次は尾形光琳を手本に新しい作品を生み出そうとする人々が現れました。
この尾形光琳をリスペクトして活躍した画家の人たちのことを琳派と言います。
琳派は、派と言っても狩野派や土佐派とは、全く異なる特徴を持っています。
まず、狩野派や土佐派が家業として絵を描いているのに対して、琳派には血のつながりはありません。尾形光琳や、その光琳がリスペクトしていた俵屋宗達・本阿弥光悦の作品に感銘を覚える同志達が集まった集団が琳派です。
さらに、狩野派や土佐派のように得意とする絵画技法も定まっていません。琳派の人々は、尾形光琳らをリスペクトしていることで一派を形成しているだけで、各々の絵画技法は人によって様々でした。
決まった技法を持っていないから、琳派には絵の教科書的なものも存在しなかったんだ。
だから琳派の人々の作品は、一風変わっていて「型にはまらない作品だ!」なんて言われることがあります。
今風にマンガで例えれば、手塚治虫(鉄腕アトム)や水木しげる(ゲゲゲの鬼太郎)といった歴史的漫画家をリスペクトする者同士が集まって結成されたのが琳派ってイメージです。
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