前回(荘園制度を超わかりやすく解説【脱税対策?返挙と里倉】2/2)は、脱税をする有力者に対して、なんとか税を納めさせようとする国司の苦肉の策を見ていきました。
税収の減少は朝廷としても当時の大問題でした。そんな大問題の前線に立っていたのが国司ですが、今回はそんな国司について見ていきます。
国司とは?
国司とは、飛鳥時代の国造(くにのみやつこ)の進化形です。
(国造については、中大兄皇子と中臣鎌足は大化の改新で何をした?【改新の詔】2/2という記事で触れていますが、この記事を読むにあたってはあまり参考にならなかもしれません。)
国司は、朝廷から派遣されるお役人で、税金の徴収が主な業務です。
国司は、奈良時代に作られた律令に定められていて、唐にならった組織編成がなされていました。(国造が紆余曲折を経て律令に定める役職となったということ!)
国司はどんな組織なの? -4等官制-
国司は1人ではなくて、今でいう会社の部長、課長、係長のような役職がある組織として成り立っていました。主に4つの役職から成り立っており、4等官制と言われます。
その4つの役職は、
- 長官(かみ)
- 次官(すけ)
- 判官(じょう)
- 主典(さかん)
と言いました。
これまでに説明した墾田永年私財法から始まった目まぐるしい税制改正に伴い、国司にも変化が生じていきます。
国造が進化したのが国司なら、国司が進化したのが受領(ずりょう)という役職でした。
国司から受領へ -税徴収の責任者はだれか?-
脱税が増え、税の未納が増えてきたという話をしばらくしてきましたが、その責任は誰にあるのでしょうか?
そうです。国司です。国司は朝廷から叱責されないよう税の徴収に励んでました。
しかし、国司が請け負う責任は、非常に曖昧なものでした。国司は4等官制に基づく組織であり、その責任も連帯責任の仕組みが採られていたからです。
朝廷「税の話は誰にすればいいんだ?責任者を連れてこい!」
連帯責任だとどうなるか?
朝廷は、税の話を国司としようと思っても、誰に話したらいいのかわかりません。連帯責任なので、責任者が明確ではないからです。
そこで、朝廷は、「ちゃんとした責任者を決めて、連れてこい!(話をさせろ!)」と指示します。
こうして選ばれた責任者は、専当国司(せんとうこくし)と呼ばれました。
こうして、連帯責任制が解消され、責任者が1人に定まったのですが、その代わり、1人に権限が集中するため、専当国司は次第に強い力を持つようになります。
この専当国司のことを、受領と言います。
大事なのは、強い権限を持つ人物が各地域ごとに生まれたということです。
受領の具体的な責任とは? -解由状(げゆじょう)-
さて、具体的な受領の責任とは何でしょう?
実は平安時代、税をノルマを達成できなかった国司にどんな懲罰を行うのか?
という点が朝廷内では問題となっていて、懲罰について紆余曲折した経緯があったようです。
最終的に朝廷が考え出した懲罰は、「受領(専当国司)の任期が満了しても納税ノルマを達成していなければ次の官職についてけない。」というもの。
納税ノルマを達成できない受領は、次の官職を得ることができないので、最悪無職になります。これを朝廷は懲罰に利用したのです。
一方、ノルマを達成した受領は、次の後任者に任務を引き継ぎ、次の官職を得ることになります。そして、正式に引継ぎが完了すると後任者から前任者へ解由状(げゆじょう)というものが渡され、この解由状を受領していることこそが、ノルマ達成の証明になっていました。
専当国司が受領と呼ばれる理由は、この解由状を「受領」することこそが、専当国司の最大の報酬・目的であったので、その目標に突っ走る専当国司のことを次第に受領と呼ぶようになりました。
受領はどのように税の徴収事務を行う?
受領は、有力者が持つ私有地だらけの田畑から税を納めなければなりません。
前回も説明しましたが、これは一筋縄ではいきません。
有力者たちは、納税を拒否し、時には、貴族の名前をバックに頑なに拒否をしました。
そこで、受領は考えました。
「もう有力者(富豪人)から今までのように納税を求めるのは無理だ。そうだ!有力者から税を取るんじゃなくて、有力者に税徴収を請け負わせてしまおう。有力者たちは、既に多くの人を雇って私有地を耕しているからノウハウもあるはずだし、有力者もマージンで儲けられるから悪い話じゃないはず!」
受領の予想通り、これは成功でした。受領と田堵(たと。私有地を持つ有力者)はwin-winの関係だったからです。(一般の庶民の人たちにとっては、お金の流れが変わるだけで、苦しい状況は改善しませんでした。)
受領から税徴収を請け負った地域の有力者を田堵負名(たとふみょう)と言い、その請け負った土地のことを名田(みょうでん)と言います。
※田堵とは、多くの田畑を持つ裕福層のこと言います。そうでない人に税徴収を請け負った場合、その人は単に負名と言います!
租・調・庸から官物へ -公地公民制の崩壊-
上記のような税制変更に伴って、租・調・庸は消滅します。
租・調・庸は、戸籍と班田収授法が存在して初めて機能する税です。口分田と私有地が複雑に絡み合い、戸籍が機能しなくなった平安時代、次第に租・調・庸は、官物という1つの税にまとめられました。
※口分田も、ちゃんと残っていますが、貧民たちが借金返済のため売ってしまっているケースもあり、とてもお役人が管理しきれる状態にはなくなっていました・・・。
官物では、「調・庸」に関しては重要視されなくなり、租の部分が色濃く反映された税となっています。
官物は、朝廷の明確な意思に基づき作られたものではなくて、時代の流れの中で自然に作られた制度。律令に従う必要がなくなり、シンプルかつ効率的な税徴収を目指した結果とも言えると思います。
武士の時代へ -武装化する田堵負名-
田堵負名は、受領から税徴収事務を請け負った土地の経営者です。
田堵負名は、脱税防止や土地トラブルへの対応のため、強い力を持つ必要がありました。
こうして、田堵負名たちは次第に武装化を進めていきます。そして、武装する田堵負名に対抗するため受領もまた、武装化を進めていくのでした。
名田制度は、確かに税収維持に役立ちましたが、一方で地域の有力者にさらなる力を与えることにもつながる諸刃の剣と言えますね。
まとめ
以上、古代日本の税金事情でした。
マニアックな話なのでこんな話しない予定でしたが、税金の話は武士の登場にかかせない話なので、必要な部分だけ掻い摘んで話をしました。
次回は、「なぜ武士は生まれたか?」について見ていきます!
次:古代日本の軍事と防衛の歴史【武士登場前の日本の軍隊とは?】
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